人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  最終話

 

 

 康明からの連絡は彼の母御が亡くなってから数日が経った、通夜も葬儀も終えた後だった。何故もっと早く知らせてくれなかったのかと訝る英和。たとえそれがここ最近の経緯に依るものであろうとも納得しかねる。

 でもそんな事を言っている場合でもないこの状況は英和の足を急がせた。目に映るもの、心に感じるもの全てが虚しさだけを表しているようだ。ちらほらと咲き始めた彼の大好きな紅葉にさえ何も感じない。こんな時に限って進行方向へと追い風が吹いていたのは皮肉以外のなにものでもなかった。

 康明の家は当然のように静まり返っていた。喪に服す彼の様子は凄まじいまでの憂愁感を湛えていたが、それ以上に伝わって来る彼の落ち着きの無さ、ぎこちなさは何を物語っているのだろうか。

 香典を置いて神妙な面持ちで線香を焚き、合掌礼拝する英和。寺社仏閣などで拝む際、何時も無心に勤めていた彼にも康明の母御の急死は未だに信じられず、この光景自体が幻であるかのような不思議な感覚を覚える。

 彼は実に長い時間拝んでいた。拝んでも拝んでも拝み足りないような気がしてならなかった。

「もうええやろ」

 冷たく低い声で口を開く康明の手元は震えていた。これは貧乏ゆすりの一種か、苛立っているのか。彼の情緒不安定を優しく見守る英和は一礼をしたあと、その肩にそっと手を触れ、暫く無言で康明を見つめるのだった。

 言葉にならない言葉、想いにならない想いが康明に告げられ、その後無慈悲にも儚く宙に舞って飛散して行く。

 今一度仏壇に向かい母御の顔写真を眺めると、その明るくも自分達の倍以上の辛苦を味わって来た豊富な人生経験に依る一人間としてのが慎ましやかな矜持が、慈愛に充ちた表情の裡に伝わって来る。身内でもない英和が言うのも烏滸がましい話だが、親方同様、奥方も安らかな気持ちで往生したように思われる。

 人の悪口や愚痴などを一切零さなかったこの二人の性格に特に感銘を受けていた英和は未だに未熟な自分を恥じていた。生まれ育った環境や親子の血筋、その人生観に於いても生じるであろう差異。だが彼等と接しているとそんな個人差すら言い訳に過ぎないような寛大な厳しさを感じていたのも事実で、不遜ながらも一目を置かざるを得ない英和であった。

 だからこそその空間の中には、康明との関係性などといった話が取るに足りない戯言となって自然消滅してしまうのだった。

 しかしこの世に不変の定理などは存在しなく、時代背景や状況に依って変化する事象は、英和のような神経質で人脈の薄い者をして更に看過出来ない由々しき事態を孕んでいるように見えて来る。

 未だに手の震えを抑えられない康明は、

「もう済んだやろ、悪いけど帰ってくれへんか」

 と不愛想な言葉を言い表すのだった。

 独りになりたい気持ちを斟酌する英和は何も言い返さずに大人しく立ち去る。その足取りは実に重く、哀切の情感を漂わせていた。

 ただ黙って部屋に居坐る康明はもはや抜け殻になった様子で食べるものも食べず、飲むものも飲まずに、項垂れて横になっては家の中を行ったり来たりと夢遊病のように彷徨い続けていたのだった。

 家に帰った英和は母と共に今回の不幸を悲しんでいた。一人っ子であった康明の気持ちは同情するに余りある。少し年が離れていたとはいえ数年前に亡くした父御に今回の母御。精神的には元気であった母御も寄る年波には勝てず、病に屈服したのだろうか。

 二人の親御さんの志、心意気、心根は息子である康明は無論の事、自分達にも確実に継承されているし、しなければならない。彼等から授かったものは言葉に表す事は出来ないまでも数に表すのも憚られるほど多く思える。

 そして早くに父と死別した英和母子は尚更その心の痛みが理解出来る。ただまだ幼かった英和と比べ、物心がついた、それもいい年になった康明にとってその傷心は如何ばかりであったろうか。まして一人っ子である彼には。

 英和の母も今直ぐ弔問に行くと言って支度を整えようとしていたが、英和がそれを制した。今の康明は誰とも会いたくないに違いない。それは少々筋の通らない、歪んだ優しさかもしれなかったが、母が行く事に依って康明がどういう刺激を受けるとも解らない怖さが無意識の裡に働くのだった。

 

 秋の陽気が何処となく鼻に付く。素直に喜べない英和だった。これも今回の事で動揺し、傷心している英和の心情を物語っているのだろうか。

 鮮やかに色づく紅葉はその美しさの中に哀愁を漂わせ、可憐ながらも大人びた風采で街路に屹立している。

 まだ咲き始めたばかりの紅葉から一片の葉が強い風に掠われ、艶やかに舞いながら地面に落ちて行く。勿体なく感じた英和はその葉を手に取って暫く眺めていた。この葉はこれでその生涯を終えてしまうのか、また土に還り、転生して華々しく咲き誇るというのか。

 それにしても早い、早過ぎる。人間の気持ちなど所詮は自然に届かないものなのか。人間生命は言うに及ばず、自然現象に対する反抗心が不本意ながらも生じてしまう。そこにある感覚的な意思は性格をも覆す強靭な刃となってその身体に込み上げて来る。

 何故優しさだけを表さないのか、何故惑わすのか。それならばもっと厳しく、秋霜烈日な勢いで世を席巻してはくれないものだろうか。そうしてくれたなら人も迷う事なく一筋の道だけを歩めるのではなかろうか。

 でもそれこそが贅沢で不敬不遜な、自分の弱さを棚に上げての訴えである事は英和も十分承知していた。だからこそ尚更惑うのである。何も考えないような気質ならどれだけ楽に生きて行けるだろうか。それが決して出来ない確たる理由でもあるのか。

 思いがけなく飛び込んで来たリフォームの仕事の段取りを入念に整えていた彼の下に一本の電話が入って来た。康明からだった。今になってどんな話があるのだろうか。話始める彼はまた深い葛藤に陥るのだった。

「おう、この前ありがとうな、取り合えず死んでくれへんか? 頼むから死んでくれや、俺の前から消えてくれや、な」

 葛藤の主たる要素は憤りだった。どのような状況にあっても言って良い事と悪い事の区別もつかないのか。そう思う英和は久しぶりに怒りを露わにする。

「お前ええ加減せーよゴラ! 何や、死んでくれて? 意味分からんでな、本気で言うとんか?」

 康明は躊躇う事なく続ける。

「本気に決まっとうやんけ」

「誰がモンキーやねんて言うたらんかいや!」

 康明も言った英和本人も全く笑っていなかった。それは勿論ウケ狙いなどではなく、何時如何なる場合に於いても余裕を持たせたいという彼なりの拘りから来ていた。

 今度は英和の方から一方的に電話を切る。するとその後間を置かずに何度も掛け直して来る康明。それでも頑なに電話に出ようとしない英和。両者の児戯にも等しいこんな争いも今に始まった事ではなかった。

 仕事の段取りを終え、一日を終えた所で改めて着信回数を確かめると、実に数十回という康明からの着信に愕く。そこまでして俺に死んで欲しかったのか。否、そこまで彼の心は疲弊し切っているのか。それでも電話を掛け直す気にはなれない英和は酒を飲んだあと、そのまま眠りに就く。やり切れない想いを胸に秘めたまま。

 

 数ヶ月後、英和は元の大工職人として立派に独り立ちしていた。田中さん宅のリフォームを完成させた功に依って様々な仕事が舞い込み、念願の一人親方となって日々を忙しく過ごす英和。

 その勢いに乗じて冴木の親方に頼み、村上健司をアシステントとして遣うまでに至ったこの現状は英和の母にとっても大変喜ばしい限りで、その雰囲気には洋々たる明るさが漂っていた。

 もはや兄弟同然の仲を呈する英和と村上の二人は仕事以外でも付き合いを共にし、酒は無論の事、魚釣りやドライブ、ツーリング、果てはギャンブルにまで興じていたのだった。

 しかし良い事ばかりは続かない。康明は何をどう血迷ったのか、自分の持ち家である実家を飛び出し、行方知れずになっていたのだった。それを間接的に訊いていた英和は何度となく康明に連絡するが一向に出る気配はなかった。以前のやり返しでもしてるつもりなのか。それを踏まえた上でも納得は出来ない。

 この日英和と村上は国道を単車で走り、舞子浜で休憩していた。昔康明と何度も訪れた事のあるこの浜辺。ここにある風景は何も変わっていない。そんな光景を懐かしむ英和はベンチに腰掛けながら村上に語り掛ける。

「お前、知っとうか?」

 間髪容れずに答え始める村上。

「知りませんけど?」

 英和は微笑を湛えながら話を続けた。

「まだ何も言うてないでな、ま、おもろいからええけど、須磨ぐらいから西に掛けて潮が速くなるねん、釣りしとったらよう分かるわ、とにかく西へ西へと浮きや釣り糸が流されて行くから」

「そうなんですか、それやったら投げ釣りが良いかもしれませんね」

 煙草を煙を吐いてから答える英和。

「そうやな、ところでお前、煙草の煙で輪っか作れるか?」

 普段煙草を吸わない村上は英和の吸いかけの煙草を拝借して見事な輪っかを作り出すのだった。それを見届けた英和は思わず拍手をして褒める。

「流石やな、何でも出来るねんな、油断しとったら立場は逆転するかもな」

 村上は愛想笑いで誤魔化し、柄にもなく英和を真似するように遠くに海を眺める。

 その横顔は相変わらずの美男子の装いを崩す事なく、見惚れるほどの浪漫に充ちた眉目秀麗な優しさを象っていた。

 不甲斐なくも静観する英和はこう告げる。

「お前、何でそんなに男前やねんて? 何か悩んだりせーへのか? ま、親っさんがヤクザの親分やったらそんな心配すら要らんか」

 村上はそのまま海を眺め、目線を動かさずに答える。

「親なんか関係ありませんよ、それに自分はあんな親好きにはなれませんし、知ったかぶりするつもりはないまでも英和さんの悩みにはだいたい察しが付きますよ」

 それ以上話さなかった二人はその静寂の中に口にすべき言葉を選んでいた。でも言葉は出て来ない。

 そしてその心は、この海の潮汐は何を物語っているのだろうかという自問自答に自ずと転換して行く。外から見る限りは美しい海面。だがその中にあるであろう凄まじい潮の流れは夕暮れ時の景色と重なり合って混沌とした情景を齎して来る。いっそ海に潜ってその心の流れを確かめたい衝動に駆られる英和。

 少し早くに姿を現した半月は夕暮れ時には冴えて映らない。切ない表情で佇む英和に対し、村上はこう告げる。

「そのうち報われますよ、余り深く考えない方が良いと思いますよ」

 その一言を胸に徐に立ち上がる英和はこう返す。

「そやな、考えても無駄なんかもな」

 短い夕暮れ時は贅沢な黄昏れを与えてはくれなかった。黄昏れを好むのも早過ぎるのだろうか。保守的過ぎる性格の為せる業なのか。

 蛍の光を華麗に明滅させる明石大橋を臨む海の情景。それは美しくも儚い、プラトニックながらもシリアスな浪漫を投げ掛けていたのだった。

 

                                  完

 

 

                   

 

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