人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  六話

 

 

 翌日も晴天だった。まだ少し眠気が残る英和ではあったが早朝の肌寒さはその身体に程好い刺激を与え、吸い込む空気は何時になく新鮮に感じる。

 日も昇らない静寂に包まれた街並みに人影などは無いに等しく、車さえも殆ど走っていない状況は英和が乗る自転車を普段の何倍もの速さですいすい移動させる。そうなれば信号などを守る筈もなく、何の障壁も感じられない彼の心は自由を掴んだように小躍りし開放感に充たされていたのだった。

 家からの距離はちょうど1kmぐらいだろうか。一瞬にしてバイト先の新聞販売店に辿り着いた英和は店主や皆と軽快に挨拶を交わし、予め段取りされていた広告を折り込んだ山積の新聞の束を専用の自転車の前カゴと後ろの荷台に括り付け、仕事を教えてくれる年配の従業員に付き従って配達する区域へと赴く。

 その区域は当然地元中の地元であり土地勘のある彼に怖れるものは無かった。唯一不思議に思えたのは慣れているとはいえ一切迷う事なく次々に新聞を配達して行く先輩従業員の姿だった。

 地元でメジャーな神戸新聞を取っている客は多く配達箇所も狭い区域の中に密集している為、近くまで来ると一端自転車を停め歩いて配達する方が効率的だった。

 柔道の白帯を肩に回し、その脇に自転車から取った大凡の枚数の新聞を抱えて歩き始める。黒帯ではない事も多少は気になったが、無口な先輩従業員が颯爽と歩き続ける姿を見る今の英和に、そんな下らない事を訊く図太い神経は備わっていなかった。

 彼は店で渡されていた配達箇所が書き記された帳面を確かめながら後に続いて歩く。そこそこ重たい新聞を抱えて歩く先輩の足取りは英和よりも速く感じられる。余りの速さに間違えていないか確かめる余裕すら無かった英和は、前もって言われていた配達の経路だけを覚える事に専念する。

 自分の地元であるこの地域には知り合いも数多く居て、家の表札を見ると、

「あの人まだ眠っとうやろな~、もし遇ったら恥ずかしいな~」

 などと内心考えていたが、まず遭遇しないであろう朝刊配達という時間帯はその心を安堵させるのだった。

 一区画の配達が終わればまた次の区域まで自転車に乗って行き、また歩いて配達するという作業が繰り返される。

 こうして改めて練り歩いてみるとその景観からもこの地域が如何に下町であるかが窺い知れる訳だが、立ち並ぶ昔ながらの人家やアパート、長屋等にはしっかりとしたポストは余り設置されていなく、中には家の壁面にある埋め込み式の小さなポストに強引に新聞を入れなくてはいけない事や、玄関の引き違い扉の隙間に器用に差し込まなければならない事も結構多かった。

 それが広告チラシが多い週末や雨天などでは尚更で、それを抜いて別々に入れれば良いだけの話であろうとも煩わしく感じる時もあるだろう。

 洋画などに観る広い庭に新聞を投げ入れながら配達するといった光景は実社会でもあり得る事なのだろうか。まるで漫画、アニメの世界にも思えるが、それをもし日本でした場合に想定される不利益は英和にも十分理解出来る事で流石にそこまでの暴挙に出るつもりは無かった。

 笑える話ではあるがこれこそが文化の違いであり西洋のスケールの大きさを表すものとも思える。

 でもスケールの差異だけで物事を論じる事ほど滑稽な話もなく、日本には日本なりの奥ゆかしさや謙虚さ、繊細な技術や人間性など世界に誇るべき伝統美は多々あり、それが自尊心や矜持を高める一翼を担っている事も言うまでもない。

 いくら配達箇所が密集しているとはいえその配達時間は僅か1時間余りで済んでしまった。いやらしい話だが時給ではなく配達部数で決まる新聞配達のアルバイト賃金は当然ながら配達箇所が密集している方が有利な訳で、その事はまだ高校生である英和にとっても喜ばしい事この上なかった。

 仕事を終えた彼は店主や先輩達に挨拶をして帰途に就く。まだ日が昇らない午前5時半に遠くから聴こえて来る電車の走る音は時計のアラームには感じないまでも、朝を告げるように街全体に優しく響き渡っていたのだった。

 家に帰った英和は登校するまでの間に仮眠を取る事にした。元々寝つきが悪く、亦もし深い眠りに就いた場合に寝坊する事を怖れる彼は気が進まないまでも目覚ましをセットしていたが外から聴こえる雀の可愛い鳴き声は目覚まし代わりにもなり、浅い眠りからも心地よい目覚めを授けてくれる。

 朝食を取る一家の表情は明るかった。大して口は利かないまでもその雰囲気には繰り返されるだけの日常を嫌うような卑屈さは窺えない。

 とはいえ日が昇り切った外の景色は些かなりとも英和の気持ちに翳を持たせる。慌ただしさを漂わせる街並みは、それが現実であろうとも生き急ぐ人々のただ世の流れに靡く事しか出来ない精神の脆弱性を浮き彫りにしているように見える。

 こういう思慮にこそ慢心があるのかもしれない。だが民主主義の前提である思想の自由が保障されているこの現代日本社会に於いて、周りと調和を図る事だけに執着する精神ほど恐ろしいものも無く、それが壊れた時に然も不利益を受けてしまったかのように悔恨の念に浸り、苦しみ嘆く姿に人間の本質があるとは到底思えない。

 だが当然そこにも自由はあり、人間自体に余り感心が無かった英和は他者に干渉するような下世話な感情を抱いた訳でもなかったが、履違えた自由、誤解された自由が招いたであろう上辺だけの平和に酔いしれる今の日本に対し、憂い心を持ち続けていた事は確かな話であった。

 

 康明は学校で同級生達から揶揄われていた。その顔を見れば誰であろうと何かを言わずにはいられなかったのだろう。

「お前その顔どうしたんや? 誰にやられたんや? ま、お前みたいなヘタレが喧嘩なんかする訳ないし、どうせカツアゲでもされたんやろ、はっはっは~」

 しかし康明は全く動じずに反論する。

「ファッションやんけ、お前らも男やったら疵の一つぐらい作ったらんかいや」

 それにしても彼の顔に作られた紫斑は祐司の強烈なパンチと喰らった者、この両者の心の波紋を如実に物語っているとも思えるが、悲壮感にも及ばぬ康明の明るい様子は同級生にそれ以上の追及をさせなかった。

 実は康明と義久は同じ高校に進学しておりクラスは違えど顔を合わせる事は多かったのだが、元々義久を余り好いていなかった康明は廊下などで擦れ違っても声を掛ける事は少なかった。

 でも所詮は同じ中学出身という事でたまにぐらいは話もしていたが、あの一件以来は寧ろ義久の方が一方的に康明を避けているような節があった。

 交番での義久の余所余所しい態度もそれを示唆するものだったのだろうか。康明としても是非にも及ばぬ事なれど目すら合わせようとしないその態度からは敵対心までもが感じられる。

 昼休みに康明は暇潰しがてら義久の教室を覗きに行くのだった。昼食を済ませた義久は案の定誰とも関わらずに独り机に顔を伏せ眠っていた。無論他の者も誰一人として絡んで行こうともしない。

 完全に村八分、四面楚歌のような義久の立ち位置は想像するだけでも悍ましくなって来る訳だが、真に恐るべきはそれをも全く気にしない楽観的過ぎるといっても良い彼の余りの無頓着さかもしれない。

 それを証拠の義久は顔色一つ変えずに毎日普通に登校し、愚痴の一つも言わずに生活していたのだった。

 これは英和は勿論康明にとっても羨ましい限りで、その性格が本当だとすれば義久には悩むという能力自体が備わっていないようにも思える。

 だが意図して世の流れに靡く者よりは意図せず、何も考えずにただ澄んだ川水のように抗う事を知らない水の流れならば或る意味では尊敬にあたるとも思える。しかし態度を急変させた彼の様子からは明らかな意図が感じられ、それが何かまでは分からずとも康明を不快にさせる事だけは確かだった。

 酷い時には一日中眠っている義久でも6時間目が終わりホームルームも終われば即目を覚まし真っ先駆けて下校する。その姿は滑稽ながらもまるで忍者のような素早さで同級生は勿論、担任の先生までもが愕くぐらいであった。

 そして誰よりも早く電車に乗り込み、瞬く間に家に帰って来た義久に齎されたものは須磨警察署への呼び出しという知らせだった。

 日時は次の日曜日午前9時。この知らせを電話で受けていた親御さんは息子の義久にこう言う。

「行って何もかも洗い浚い白状して来い!」

 一見ごく当たり前のように聞こえるこの言葉も受け取り方次第では色んな意味を含んでいるような気もする。それを額面通りに四角四面で馬鹿正直に捉える事しか出来ない義久のような者は内心ではどう解釈したのだろうか。

 その知らせは当然英和、康明にも届いており、三人は嫌でもまた顔を合わし一同に会する運びとなった。

 

 日曜日当日になって空はまた少し曇り始める。その薄暗い景色は今にも雨が降るようで降らないといった何とも煮え切らない雰囲気を以て三人の気持ちを焦らせる。

 完全に散ってしまった桜がまた美しい花を咲かすべく来年に備え青々とした葉で大人しく佇む姿は、夏を終えた砂浜の侘しさにも似た憂愁感と大らかな前向きさを同時に投げ掛けているように映る。

 遙かに聳える雄大な山々は峻厳たる眼差しで変わり行く街並みを悠然と見下ろしているが、その余りの風格は時として非力な人間に不遜とも呼べる憧れを抱かせる。そのほんの一部分でも己が力に変換させる事が出来ればと願う英和は、盗人猛々しいとも思われるぐらいの毅然とした態度で警察署を訪れるのだった。

 部屋に案内されるとそこには駅前交番で見た三人の警官がそのまま私服姿で待ち構えていた。

「おはようございます」

 一緒に来ていた英和と康明は挨拶をして席に着く。するとまた交番の時と同じように先に到着していた義久がこちらには見向きもせずに悠然と坐っている。

 それを確かめた一瞬壮大な山の力を得ていたのは義久の方だったのかと錯覚する英和ではあったが、何の貫禄も示さない彼の背中は返って英和の心を安堵させる。

 そしてまた手厳しい尋問が始まる。被疑者である三人に一連の疑いを事細かに聴取する警官達。既に交番でも白状していた経緯を改めて訊こうとする彼等の表情は、私服であろうとも如何にも警察官と言わんばかりの硬いもので、その目には人情などというものは一切感じられなかった。

 そんな事は当たり前かもしれないが、犯行に及んだ時間を分単位で訊かれると英和は素直にも、

「そこまでは覚えていません」

 と答えるのだった。すると警官は、

「人間の記憶いうもんはそう簡単に消えへんねん、悪あがきはえからしっかり思い出したらんかい」

 英和は康明と共に単車を盗みに行った時の事を真剣に思い出そうとしていた。あれは確か数ヶ月前の或る日曜日だった。テレビで再放送されていたアニメ、シティーハンターを康明と一緒に見てから出掛けた筈だ。その放送は1時間で自分は始めの30分、つまりは前編だけを見終えてから家を出たと記憶している。

「その日の12時半に家を出ました」

 と英和は答えた。すると康明は、

「13時ちょうどです」

 と食い違った答えを出す。これに警官達は烈しく喰いつく。たった30分の差異であろうとも互いの認識の齟齬は彼等の神経を刺激するに十分だったみたいで、その怒りの矛先である二人の被疑者には強烈な怒声が浴びせ掛けられる。

「お前らええ加減せーよゴラ! 舐めとったらあかんど! もう一回二人でよう話し合ってみーや!」

 僅か30分がこれほど大きいものなのか。少なくとも英和には理解不能だった。しかし警官達の執拗な尋問は二人を怯えさせ嫌でも回想、何の情緒もない追憶という作業を強いられる。

「最初の30分だけ見て出て行ったやんけ!?」

 と英和が言えば、

「何でやねん、1時間全部見てから行ったやんけ!?」

 と反論する康明。決着がつかない両者の問答に警官達は痺れを切らせて割って入る。

「ほんまにええ加減せーよ、シティハンターか? それの前編だけか後編まできちり見てからか、はっきりしたらんかいやゴラ! 何やったらその時の内容言うてみ! タイトルは!?」

 英和は内心この警官は馬鹿なのかと思った。そんな事まで覚えている筈もなく、亦何故そんな事まで警察署で口にしなければいけないのだ。

 流石に冗談半分で言っていると思った英和は警官達の表情を見返したが、あくまでも真顔で喋り続ける彼等の表情からは何も感じられない。冗談を真剣な顔で口にするなと思う英和は逆に笑いを堪える事に専念せざるを得なくなってしまう。

 それにしても互いに譲ろうとしない二人の意見は一向に収まりがつかず、益々警官達を苛立たせる。そしてその中を取り12時45分で折れるという判断を下す。

 その後も執拗な聴取という名の尋問は夕方まで行われ、疲労困憊になった三人にはようやく帰途に就く事が許された。

 改めて自分がした事の重大さを悟った英和の心は慙愧の念に堪えなかった。若気の至りとはいえこんな事は正に人倫の道に反する事で許されるものでは無い。どんな事をしてでも被害者には償わなければならない。言うまでもない事であってもその局面に立って初めて感じるその不甲斐なさは彼の繊細な神経を容赦なく傷付ける。

 そして義久の相変わらずの余所余所しさもその傷心に追い打ちを掛ける。だがこの期に及んで他人を責める気にもなれなかった英和はただ自責の念に駆られながら重い足取りで帰って行く。

 結局は雨を降らせなかった天と雄大な山々を遠くに眺めながら歩く英和は、やり切れなさを込めて歩道に唾を吐き、今日という日が一刻も早く過ぎ去ってくれる事を念じながら明日という未来へ踏み出して行くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

汐の情景  五話

 

 

 景色が人の心に齎す影響力を数字に表す事は不可能と思える。無論そんな必要性などないとも思えるが、自然の情景は言うに及ばず、たとえ人為的なものであっても見惚れてしまうほどの深い感動を覚えてしまう事が人間の性ではなかろうか。

 幸か不幸か結局雨までは降らなかったものの、その曇り空は夜にもなれば尚更暗い漆黒の闇を映し出す。深淵に沈む三人の中で唯一美術の才があった康明は、その光景を儚むような切ない表情で眺めていた。

 些かの余裕さえもなかったこの現状にあって彼の能力は殊の外際立って見える。英和がそれに気付いた理由はそれこそ語るまでもないこれまでの付き合いで知り得た康明の為人と、互いに一筋の光を見出したような無言の意思表示を無意識に裡に感じ取れた事に事に尽きるだろう。

 以心伝心とはこの事か。それからというもの警察の手厳しい尋問にも狼狽える事なく返答出来たのは両者に内在していた純粋な心根と、それをも上回る馬鹿正直過ぎる共通の目的を悟ったからであった。

 警官、民間人を問わず1時間余りの取り調べで疲れ切った一同は同じタイミングで溜め息をつく。そして身元引受人として訪れていた義久の親御さんが三人を車に乗せて家まで送り届けてくれる。

 車中でも皆は一言も口を利かなかった。それは義久の親を怖れていた事も然ることながら口にするべき言葉に窮していたに相違ない。先に降ろして貰った英和でさえもその去り際に軽く一礼しただけで、滝川さんは何も言わなかった。恐らくは康明も同じであったろう。

 家に戻った英和と母も口を利こうとしなかった。母としても言うべき言葉が見つからなかったのか、それとも敢えて息子にひと時の猶予を与えたのかまでは分からない。

 夕食もろくに喉を通らず呆然としたまま床に就く英和。この状況ではとてもじゃないが眠る事さえ叶わないだろう。かといって何も手に付かない彼はとにかく一刻も早く夜が明けて欲しいという願いを込めて目を閉じる。

 雨は降らなかったまでも窓外から聴こえて来る少し強い風の音はその眠りを妨げるのに十分だった。またゲームでもするかと思案している内に時間だけが過ぎて行く。時間の経過は遅い事この上なかった。まるで時が止まってしまったかのようなこの空間にはもはや僅かに聴こえる音という現象しか残っていない。

 生来繊細な人物であった彼が更に神経質になり始めたのはこの頃からだったのかもしれない。意図せずに澄まされた耳には風だけではなく家の中の僅かな音や、近隣の騒音までもがはっきりと聞こえる。それは直接ストレスへと変化しその心を搔き乱す。

 世間で言われている羊を数える方法などは効く筈もなく、する気にもなれない。居ても立ってもいられなくなり結局はゲームをし始める。シンプル好きであった彼は相変わらず最短でクリアする事だけを念頭にプレイしていた。

 外へ出てモンスターと遭遇する事すら鬱陶しく思える。しかし経験値を積みレベルを上げない事には先に進む事も出来ない。

 やはりゲームも手に付かなかった彼は今一度横になり、無心になるつもりで目を閉じ是が非でも身体を動かそうとはしなかった。

 すると先程まで聞こえていた煩わしい風の音が彼の身体を媒介して部屋中に舞い、更に自分の身体に戻った後、また外へと帰り新たなる風を作るといった幻にも似た形態を象るのだった。

 これも自然の理なのだろうか。英和は思わず風になり飛んで行きたいという衝動に駆られる。でもそんな事が出来る筈もなくその身体も自然の裡に安らぎを覚える。こうなれば時間を確かめるにも及ばない。風音と共に戯れていた英和は何時の間にか朝を迎えた外の景色に愕く。

 窓を開けるとそこには晴れ渡った春の空が現れていた。夜の内に気象が変化したのだろうか。そんな事には一切気付かなかった彼はただその景色に見惚れていたのだった。

 

 登校しようとする時、朝露に濡れた枝葉が一滴の水滴を垂らしていた。風情あるその情景を見た英和はその意志に反して自らが枝を揺すって水を散らせる。何か気に障る事でもあったのだろうか。強いて言えば己が鬱蒼とした気持ちを強引な手で晴らしたかったのかもしれない。

 だがそれが本意でない彼は人知れず屹立する樹々に手を合わして詫びを入れる。絶妙のタイミングで出て来た弟の俊英はそんな兄の様子を訝って声を掛けて来た。

「何しとん兄貴?」

 恥ずかしがる英和は目を合わす事を憚りつつも取り合えず返事をする。

「植物にも感謝せんとあかんやろ、ちゃうか? そやろ? お前ももうちょっとは頭使わんとあかんでな」

「ふ~ん」

 全く動じる様子も見せずに立ち去る弟の姿は多少なりとも英和を悩ませた。でも弟の為人を熟知していた彼は身内を褒めるのも烏滸がましいが良く出来た弟だと感心していたのだった。

 その性格は康明と義久を足して割ったような鷹揚にして聡明な、身軽ながらも重厚なしっかりとしたもので、兄弟でありながら正反対なその為人は英和としても羨むに値するものだった。

 とはいっても全てが完璧な訳でもなく粗捜しをする訳でもないが、非の打ちどころは結構あった。その一つに余りのお人好しな彼の性格は英和は勿論他者を調子付かせるだけの要素を十分に孕んでいた。

 特に同級生達から弟が弄られている姿を見るとつい気持ちが昂ってしまう英和であったが、そこで割って入ってしまった時に懸念される事態を鑑みる神経は決して軽挙妄動を許すものではなかった。その副作用を怖れる英和も本来は気優しい人物であったのかもしれない。

 しかし或る局面でしか真価を発揮する事が出来ないと思われる人間という生命に備わった能力や気質は、やはり不器用という普遍性を保っているようにも見える。

 だがそれも一興これも一興で、一筋縄では行かない人生にこそ面白みがあり、そこにこそ咲かす事が出来る花があるとも思える。

 それを踏まえた上でもシンプル好きに徹する英和のような人物はその人生までをもシンプルに済ませ、一気に結末を観たいとでも言うのだろうか。

 敢えてそれを遂行しようとするのならばそれこそ夭折してしまうしか道はないようにも思える訳だが、せっかく授かった命を無駄にする事ほど愚かな行為もなく、余程の偉人でもない限りはその僅かな人生に於いて大輪の花を咲かせる事など出来よう筈もなく、誰一人として感動する者もいないだろう。

 弟の後ろ姿に陰りを感じなかった英和は暫く見届けた後、身体を反転させて自分も歩み始める。その足取りは軽くもなければ重くもなかった。是非にも及ばぬ人間関係の中にあって個の力が他者を上回る事はあっても凌駕するまでには至らないだろう。しかし徒党を組んだからといって良い結果が齎されるとも限らない。

 打算ではなく直感を信じる心、妥協ではなく追求しようとする意志。

 一見矛盾しているように思えるこの二つの性質にも共通する思想がある事は明確で、それを成し遂げようとする健気にも気丈な澄んだ心根にこそ人間が持って生まれた本分が秘められているのではなかろうか。

 強く照り始めた陽射しは英和の憂鬱な気分を払拭するように濡れた樹々を乾かせ、道々にある草花は明るい表情で天を仰ぐ。負けじと毅然とした態度で登校する彼の姿は凛々しく輝き若者らしさを取り戻す。

 それを窓越しに眺めていた母は今回の事はあくまでも若気の至り、長い人生で乗り越えて行かねばならない一つの障壁に過ぎないと自分に言い聞かせていたのだった。

 

 或る事が気掛かりで仕方なかった康明は学校を早退して中学の同級生であった祐司と会っていた。祐司という男は生粋のヤンキーで中学を卒業して直ぐ社会人となり、仕事に精を出しつつ暴走族の総長を張っていたのだった。

 康明はまるで祐司の機嫌を取るかのように煙草を差し出し火を付けようとする。すると祐司はそれを拒絶し、自分の煙草に自分で火を付ける。そして神妙な面持ちで立ち尽くす康明に訊いて来る。

「何や、改まって、何かあったんかい?」

 康明はどう打ち明けるべきか迷っていた。すると祐司は語気を強めて問い質す。

「はっきり言うたらんかいやゴラ! ほんまヘタレ丸出しやの~」

 流石の康明も意を決したような表情で事の次第を謳い始める。

「実はお前から借りとった単車で走っとったら捕まってもてん、ほんますまん」

 その刹那、祐司は康明を思い切りぶん殴った。それは単に下手を打った事に対する怒りだけではなく、康明が分を弁えず調子に乗り続けている事に対しての憤りから来るものだった。

 康明が殴られたのはこれが二度目で、祐司の本心を知り得ていた彼は当然やり返す筈もなく、返す言葉にも窮してただ項垂れていた。

「で、これからどないすんねん?」

「とにかくお前の事は絶体言わんから、何とか巧い事切り抜けるわ、そやからあの単車何時何処でペチったんかとか詳しい事教えてくれへんか?」

「別に俺に害が及んでもかまへんけどな」 

「いやそれやったら俺の面子もないから、何とか頼むわ」

「ふっ、お前如きに面子なんかあったんかいや」

 致し方なく祐司は事の詳細を告げる。康明はそれを入念にメモに取り、改めて詫びを入れる。祐司が事件の経緯など深く訊いて来なかった事は有難かった。

「ほんまに悪かった、じゃあ行くわ」

「おう、貸した俺にも非はあるしな、頑張れよ」

「うん」

 時として見せる祐司の優しさ。その厳つい風貌とは裏腹に感じ取れる彼のそのような一面にこそ、総長を張るに値する資質が備わっているのだろうか。本気で殴られた割にその痛みは肉体精神を問わず大したダメージを残してはいなかった。無論本気の中にも多少の加減はしていただろう。

 康明はこの痛みをどう受け取ったのだろうか。時が経てば忘れてしまう人間という生命が愚かだとすれば、何時までも胸に抱き続けている者が常に正しいのだろうか。

 無論忘れてしまいたい康明でも無かったが、取り合えずの目的を果たした事に依って安心する想いは確実に芽生えていたのだった。

 

 授業を終えた英和にはもはや家に帰ってからの楽しみは何も無かった。する事はいくらでもあろうとも単車に乗って走る事以上に刺激を与えてくれる遊びなど何も思いつかない。そんなどちらかといえば無気力無関心な彼が学校で耳にした多少なりとも興味を引いた事はパチンコなどのギャンブルであった。

 学校ではパチンコや競馬の話で盛り上がっている男子生徒が結構多く、嫌でも耳に入って来るのだったが、輪の中に入ろうとしない彼のような人物は内心では馬鹿にしながら訊いていたのだった。

 でもそれに惹かれたのはやはり多くの人間に内在していると言われる欲に依る所が大きいだろう。家が貧しかった英和には親に言って金を貰うような真似は出来ない。何よりこの状況下で博打に打ち興じる事などそれこそ親不孝になる。でもこれといってする事が無かった彼は正に衝動に駆られ、どうにかして金を作る算段をするのだった。

 以前から気になっていた家から近い距離にある新聞販売店。登下校の際に何時も通るこの店の出入り口には配達アルバイト募集中という貼り紙がしてあった。

 たとえギャンブル目的ではないにしろ、金が欲しかった彼は応募する決断をする。学生服姿のまま恐る恐る中へ入って行くと店主が出て来て愛想の良い声を掛けてくれる。

「こんにちは、何か用ですか?」

 英和は真面目に答えた。

「アルバイトしたいんですけど、御願いします」

 すると店主は目を輝かせて言葉を続けるのだった。

「そうですか、いや来てくれる人がいなかったんで困ってたんですよ、貴方のような若い人なら喜んで雇わせて頂きますよ」

「有り難う御座います、一生懸命頑張ります」

「じゃあ早速明日の朝4時に来てくれるかな?」

「分かりました、宜しくお願いします」

「こちらこそ宜しく」

 即決されたアルバイトに喜びを隠せない英和は独り笑みを零していた。ギャンブルは勿論これでようやく親孝行が出来る。今度の事件に掛かるであろう費用も自分で払う事が出来る。

 ストレート過ぎるとはいえこんな思考を巡らす事が出来るのも若さの特権であるように思える。それに新聞配達なら誰と接する事もなく自分一人で仕事が出来る。正に自分向きなバイトである。

 一気に気持ちが明るくなった彼は颯爽と家に帰りその事を母に告げるのだった。息子ほどではなかったが、母も大いに喜んでくれてまるで昨日までの暗闇が晴れたように久しぶりに豪勢な料理を振る舞ってくれるのだった。

 陽が暮れ始めた夕暮れ時の情景はそんな親子の気持ちを優しく包み込むかのように淡い赤の中に、涼やかな心地よい風を吹かせる。風を運ぶ天の気持ちはたまたま期限が良かっただけの話なのだろうか。

 そんな事すら気にかけない英和は一時的にも過去と訣別し、幼子に戻ったような可憐な笑みを浮かべながら食事に赴くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

汐の情景  四話

 

 

 天為とも呼べる気象が時として思いも依らぬあからさまな意思表示をする事は往々にしてあるだろう。正に小春日和であったここ数日の穏やかな気候が俄かに曇り始めたのは何かの兆しを示唆するものなのだろうか。

 とはいえ雨や嵐でもないこの現状は憂慮するにも及ばず、快活に過ごす皆の様子は決して卑屈さを表してはいない。だがその精神にも無論完全性などは保障されず、常に何かを警戒したがる英和のような繊細な人物の神経は、この薄曇りの空模様にこそ言い知れぬ不安を抱くのだった。

 この日も気が進まないまでも一応登校した彼は、相変わらず同級生達の輪の中には入って行こうとせず孤高を決め込んでいた。内面的にかなり潔癖であった彼は既に周りから敬遠される存在になっていたのかもしれないが、そんな事は全く気にならない。

 自分がヘタレである事を十分認識しているにも関わらず、もし絡んで来る者がいれば逆にシバき上げてやればいいなどという想いを胸に秘めていた彼の慢心にも似た覚悟は何処から来るのかさっぱり理解出来ない。

 だがこれといって文を付けて来る者がいなかった理由は、義久同様に出身中学が武闘派で知られていたという事に尽きるのだろうか。

 無論そんな事を盾にして高校生活を送るつもりなどさらさら無かった英和ではあろうとも、心の中では中学の同級生達にも些少の謝意は示していたのだった。

 授業を終え帰途に就く道中、先日行った姫路までの逃避行劇が脳裏を過る。これはあくまでも康明との間だけに蔵(しま)っておくべきものなのだが、数少ない友人の一人である義久を仲間外れにする事は些かなりともその胸を苦しめる。

 自宅に帰った彼は近所にある義久の家へ赴き、一緒に単車に乗って遊ぶ誘いを持ち掛けるのだった。

 英和以上に学校を嫌っていた義久は高校でも一人の友人も居ないどころか、ろくに話をする相手すらおらず、誰とも一言も口を利かないままに下校する日も度々あった。

 それを憐れむ訳でもなければ批難するつもりもない、亦人脈を広げる気もないといった少々頑なな意思は幼馴染である二人の間に共通の認識として確立されてあり、英和が声を掛けた理由も孤独から解放されたいという浅はかな感情ではなく、同士と絆を深めたいという情義から来るものだった。

 小さい敷地ながらも裏の離れに住んでいた義久は、英和が鳴らす他人の自転車の鐘の音を聴くと素早く表に出て来る。そして人目を憚る癖がある二人は暗黙の了解で港へと足を運ぶのだった。

「この前言うとった事しよか、単車は直ぐ傍に置いとうねん」

 義久はそのおぼこいながらも表情豊かな顔つきで喜びを訴える。

「やっと決心してくれたんか、でも別に無理せんでもええねんで?」

「何言うとんねん、お前との仲やんけ」

「そうか、ありがとうな」

 英和は義久のこの余りの素直さが好きだった。その裏表のない性格、稚拙なほどの露骨な感情表現、それらは潔癖である英和の心とは何故か調和が取れ、少々器用な康明と比べても明らかな安らぎを齎すものであった。

 しかし秘密を誓い合った康明の存在を当然軽視する訳にも行かず、二人して彼の下を訪れる。すると玄関先に出て来た康明は義久の姿を確認するなり心なしか怪訝そうな表情を泛べるのだった。

 三人で歩いている時康明は小声で囁く。

「お前何であいつ連れて来るねん?」

 訊かれた英和は軽く詫びを入れてから、

「ま~ええやんけ、ハミゴにしたら可哀そうやろ」

 とだけ返事をする。二人の関係が良好ではない事は誰の目にも明らかな訳なのだが、繊細であるにも関わらず人間関係にはそこまで頓着が無かった英和の性格は大らかなのでは無く、人嫌いだからこそ人を軽視する、見下してしまうといった愚かな性質から成り立っていたのかもしれない。

 康明の心境はそれを証明するものだったのだろうか。三人の若さは不安を抱えつつも立ち止まるという作業を用いようとはしなかった。

 英和と康明の単車は何れも盗難車であった。そのうえ無免許という状態で平然と公道を流していたその所業は余りに無謀過ぎるといっても良いだろう。

 港では英和が愛用していた90ccの単車で義久に軽く練習をさせてから、そのまま公道に出る。康明と英和はまたニケツで走り始める。

 何時も通りに西へ西へと単車を走らせる両者の想いには、東の都会の雑踏で起こり得る要らぬ災いを避けようとする意図があった事は言うまでもなく、西方面の走り易い道と美景を望むという共通観念があった。

 僅か数分で辿り着いた須磨水族園の前で信号待ちをしている時、康明の舌打ちに気付いた英和はその意味を訊ねる。

「どうしたんや?」

「あいつほんまモタコ(どんくさい)やな、あんな走り方で付いて来れるんかいや」

「大丈夫やろ」

 安易に返事をした英和だが、内心では心配していた。

 それから少し走った一の谷に差し掛かった頃、康明は今一度後ろを振り返って言う。

「おい、あいつマジでヤバいんちゃうか? 何処走っとんねん、ちょっと戻るわ」

 そう言って引き返した二人は驚愕の事態に直面する。義久は水族園前でいきなり白バイに捕まっていたのだった。やはり康明の不安は的中したのか。警官に捕まっている義久の姿は実に怯えた様子で、まるで幼子が親や先生に叱りつけられているかのような弱者の雰囲気だけを漂わしていた。

 康明はその場から逃げるようにして西へと走り去る。そして舞子浜で落ち着くとこう言うのだった。

「そやからあんな奴連れて来るな言うねんて、どないすんねん、あいつ絶体俺らの事謳っとうで、ヤバいぞ」

 英和は何も言わずに項垂れていた。確かに軽率だったかもしれないが、そこまで義久がどんくさいとは思いもしなかった。自責の念にも及ばない浅い後悔であろうともその不甲斐なさは義久を責めるよりも先に自分自身へと圧し掛かって来る。

 何が繊細だ、何が神経質だ。そんな気質など何の役にも立たないではないか。康明の方が洞察力に優れているではないか。暗澹たる思いは自ずとその表情を曇らせる。

 しかし事態は思い悩むような猶予を与えてはくれない。如何にしてこの窮地を脱するのかが最大の問題であろう。康明は逡巡する事なく帰る決断を下す。

 切迫感に駆られる二人の脈拍や胸の鼓動は増すばかりで、僅かな時間、まして走っている最中には良い策など思い付かない。でもそれとは裏腹に感じる自分自身でも説明のつかない余裕は投げやりな覚悟から来るものなのだろうか。

 

 夜8時。ようやく家に帰り着き、恐る恐る扉を開いた英和に齎された知らせはやはりと言うには余りにも身勝手で都合の良い、自覚の無さと浅はかな善意が災いした当然とも言える警察からの連絡であった。

 それを息子に告げる母の表情は恐ろしいほど真剣で、何時にない鋭い眼差しは英和の目を睨みつけたまま寸分たりとも動かない。

「何したんや?」

 嘘をつく気にもなれなかった英和はありのままの事実を謳う。

「康明と義久と単車で走っとったら義久が下手打って捕まったんや」 

「バシーン!」

 母に叩かれたのは何時以来だろうか。おそらくは小学生低学年の頃が最期であろうその頬の痛みは肉体よりも精神に直接、深く突き刺さる。

 一概には言えないまでも男女の力の差は一応明確であり、いくら全力で叩かれたとしてもその痛み自体は然程大きくもない訳だが、男と比べて遙かに重く感じる精神的なダメージは女であるが故の露骨な感情が訴える所の原力から発せられるものであり、単なる外傷と比較してもその治癒速度には天地の差があるとも思える。

須磨駅前の交番に来るよう言われたで、早よ行って来なさい」

「分かった、ほんまにごめん」

 そう言って英和は康明を伴い暗鬱な表情のまま出かける。距離が知れているとはいえ単車を失った今の二人にとってその道程は結構遠く感じられ、深く刻まれた心の疵は決して軽い足取りを好もうとはしない。

 二人は道中でも口を開こうとはしなかった。疲弊し切った互いの心中にあるものは語るにも悍ましい憤りや悔しさ、怒り、悲しみ。そして自らを相憫するその心情は果てしない虚無に包まれ、眼前の光景すら視界に入って来ない呆然自失になったその姿は恰も不治の病にでも冒されたような嘆かわしい有り様だった。

 交番に着き中へ入るとそこには鋭い眼光で睨みつける制服警官三人と、既に椅子に坐っている義久の姿があった。

 当然の事ながら三人は厳しい尋問を受ける訳だが、英和と康明が真っ先に感じたのは警官の強い圧力よりも義久の他人行儀な態度だった。 

 何故彼はここに来てそんな態度を取るのだろうか、ただ恐れているだけなのか。それは二人とて同じで、事ここに至っては悔いても及ばぬ事。警官に対し抗うのならまだしも、当事者同士で目も合わせようとしないその心境の変化は何を物語っているのか。

 二人はそんな義久の態度を訝りながらも神妙な面持ちで事の次第を包み隠さず話す。その潔さに感化されたのか警官達の態度も心なしか緩みを見せたように感じられる。

 それも所詮は作戦のうちなのかもしれないが、たとえそうであっても被疑者である三人にとっては曲がりなりにも気が抜ける一瞬であった。

 それから十数分が経った頃、一人の色黒の中年男が夜であるにも関わらずサングラスをかけて登場するのだった。その姿には三人は勿論、警官までもが動揺を隠せない様子だった。

「あ、あっ、滝川さんですか?」 

 少し舌が縺れたような警官の質問に対し、男はこれ以上はないと言わんばかりの凄まじいまでの真顔をして低いトーンで答える。

「はい」 

 その後間を置かずに、周りを一切気にせずに息子である義久の頬を思い切りぶん殴る彼の所作は一同を戦慄させる。

「滝川さん落ち着いて下さい!」 

 必死に制止する甲斐も無く、警官達の声はまるで蜘蛛の子を散らすように虚しく消えて行く。無論それ以上の暴力を振るう滝川でもなかったが、張り詰めた空間に漂う形容しがたい雰囲気はせっかく穏やかになりかけていた尋問をまた辛辣にさせる。

 駅前交番の真ん前にあるパチンコ店は一同の懊悩を嘲笑うかのように明々とした装いで夜の街を照らし続ける。だがそれにも負けないほどに冴える満月の光は皆の心にどう映るのだろうか。

 是非はともかくまだ思い出にもなっていないこのシリアスな現状に緊張するだけの三人の被疑者には、そんな景色を眺める余裕などは一切無かったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

汐の情景  三話

 

 

 地元の者ばかりで形成されている公立中学と違い、色んな地域の者が通う高校には柵がないという点では幾分気楽な印象を受ける。

 それまではどちらかと言えば自分に固執し過ぎていたような英和も羽を伸ばすといっては大袈裟だが、比較的自由奔放に高校生活を送っていたのだった。

 とはいえ相変わらず団体行動が嫌いな彼は自ら輪の中に入って行こうとはせず、高々数人、或いは一人だけで行動する事が多く、恋人は疎かこれといった友人も作ろうとしいその様は他者から見れば孤独と戯れているように映っていたかもしれない。

 今日もまた退屈な授業が始まる。1時間目から6時間目、放課後の部活動ときっちりとした時間割の下に一日の行程が組まれている学校という場所で施される教育にはどれほどの価値や意味があるのだろうか。

 思春期の若者が抱きそうな在り来たりな発想のようにも思えるが、少し掘り下げて考察してみても意味がありそうで無い、無いようで有るといった抽象的な答えが浮かび上がって来る。

 無論教育そのものを否定するつもりなど一切ないまでも、義務教育も含めて常に大勢の者を一つに纏めてその中で生活をさせているという時点で既に全体主義を敷いて行こうとする意図が感じられなくもない。

 だからといって各々が個別に育ち社会人になって行くというやり方にも危険性が孕んでいるとも思えるが、教育の義務を含めた国民の三大義務などという大袈裟なものを称する日本にも何か不自然性を感じずにはいられない。

 そんな中で成長して行く生徒達の将来までをも考え出せばきりがなく、是非にも及ばない事だとも思えるが、大人になってからも輪の中でしか行動出来ない社会構造が出来上がっているとすれば、真の自由を手にする時など一生訪れないのではあるまいか。

 個人差はあろうとも、或る意味では人間社会も弱肉強食であろうとも、生まれついてのハンデというものは確実に存在しており、それを克服出来ない者は余りに不憫だとも思えて来る。

 こんな事を朧気に考えていた英和はやはり根が暗いのだろうか。カッコをつける訳でもないが、自分の事よりも世の中を悲観し憂いてしまう彼の心情には傲りがあるのだろうか。いくら考えても答えが出ないような問答を繰り返す彼は神か仏にでも成りたいというのだろうか。

 窓外に映るじめじめとした天気と教室内に蔓延するもやっとした空気に苛立ちを覚えた彼は俄かに窓を開け気分転換を試みようとしたのだが、その敏捷な動きに愕いた隣の席の同級生は思わず声を上げる。

「何や林田? えらい素早いやんけ!」

 英和は大して口を利いた事のないこの男に対し、軽い笑みを浮かべて誤魔化すような事を言う。

「みんなから頼まれとうような気がしてな、開放感が無かったらあかんでな」

「......確かにな」

 小雨とはいえ中まで降りつけて来る雨に気付いた英和はまた窓を閉め、教科書を眺めながら物思いに耽けるのだった。

 

 この日もこれといった面白い事もなく、何時もと同じように授業を終えた英和は放課後の楽しみと言わんばかりに康明に会いに行く。そんな彼に味方するように雨は上がり西日が差すその光景は、まるで青春を謳歌させるべく一つの物語の舞台を用意してくれているような錯覚を齎して来る。

 違う高校に進んでいた二人だが、わざわざ連絡をするまでもなく康明は何時もの場所で待っていてくれた。英昭が単車に跨ると康明が或る提案をする。

「今日はちょっと遠くまで行かへんか?」

「どの辺までや?」 

「はっきりとは分からんけど何時もよりは遠くに」

「それもええな」

 康明の400ccの単車に比べて英和の単車は90ccの小型であった為、長距離走行は難しいと判断し康明の単車の後部席に乗りニケツで走り始める。

 エンジンを掛けた時に湧き立つ昂揚感は相変わらずで、走り始めた時点で恰も異世界へと誘われたかのような不思議な気持ちは、ヘルメットの中にも凄まじいまでの目の輝きを以て表現されていた。

 僅か数百m進むだけで地元から逃れられる事はその気持ちを安心させる。ミラーに映し出される景色は瞬く間に消え去り前に佇む光景にこそ真実がある。そう信じて疑わなかった二人は過去という現実から解放されたかったのかもしれない。

 何時も通る須磨、垂水などは一気に走り過ぎ、やがて明石に入る。西日に照らされた駅前の雑踏は心なしか疲れを感じさせる。それをも構わずにとにかく西へ西へとひた走る康明のハンドルを強く握る手は強い風で冷えている筈なのに少し汗ばんでいるようにも見える。とはいえ決して焦っているようには見えない彼の心情からは、英和同様平凡な毎日を覆し、非日常を味わいたいような探求心が窺える。

 一言に明石といっても鉄道の路線で言えば明石、西明石、大久保、魚住、土山と加古川に出るまでの道程は結構遠く、明石までの海岸線である国道2号線も街中へ入ると信号の数も増える為、走行に掛かる時間は自ずと長くなって来る。

 少し不安を感じた英和は信号待ちしている時にこう呟くのだった。

「何処まで行くんや? あんまり遠くまで行ったら帰りがヤバいんちゃうんか?」

 康明は冷静な口調で答える。

「たまにはええやろ、何や、ビビっとんかいや?」

「じゃがましわい」

 だが余裕をカマシていた康明も信号が変わった途端にスピードを上げて走り始める。彼も時間を気にしていたのだろうか。男同士の仲で言うのもおかしいが、彼の肩を掴む英和の手の感触は頼もしさだけを訴えていた。それこそ根拠のない自信のようなものだったのかもしれない。でも今の頼りない二人にはその自信すら無ければ他に頼れるものなど何も無かっただろう。

 走る単車と二人の気勢は留まる所を知らず、加古川を超え更に進み、ついには姫路にまで達するのだった。流石にこれ以上進む事を憚られた康明は姫路城前の公園で単車を停め、二人して休憩をとるのだった。

 辺りに屹立する桜は既に散り掛けてはいたものの、その風情豊かな佇まいにはやはり春を思わせる優美な漂いがあり、可憐にも艶やかな形姿はそれを見下ろす姫路城の余りにも厳で神々しいまでの風格と相乗し、見るものの心を圧倒する。

 白鷺城とも呼ばれるこの姫路城は正に白鷺が羽を広げたような雄大な姿を体現し、それを裏付ける繊細にして大胆な造りは、日本の伝統美を精妙巧緻に受け継ぐ職人の矜持を余す事なく発揮している。

 流石の康明もこの城を眺めている時はただ感動するだけで冗談を口にしようとはしなかった。そんな彼に対し英和は徐に語り掛ける。

「お前、この城誰が建てたか知っとんか?」

 康明は間髪入れずに答える。

織田信長やろ」

 英和は真面目に返す。

「お前どうせ歴史上の偉人言うたら信長ぐらいしか知らんのやろ? 宮大工、いや城大工なんやー言うねん」

「型枠大工やったらあかんのんかい?」

「舟大工やったらええかもな」

「土方大工の方がええやろ」 

 それにしてもいくら立派な城とはいえ余り間近で見ているとその価値が損なわれるような感じもしないではない。やはり霊験あらたかな山や寺社仏閣、城等は遠くから仰ぎ見るからこその真価が発揮出来るのではなかろうか。

 そう感じた英和は少し視点を移し辺りを見回す。するとそれまでは全く気にならなかった物陰が視界の妨げになって来るような違和感を覚えた。この広い公園に居るそこそこの数のヤンキー達が一斉にこちらを見ているように思えるのだった。

 姫路といえば確かに兵庫県でもヤンキーが数多く存在する地域ではあったが、その容姿は如何にもと思わせるような厳ついもので、彼等がもし束になって攻め掛かって来ればたった二人では到底太刀打ち出来ないであろうこの状況は自ずと一抹の不安を投げ掛けて来る。

 勿論そのような事態に陥る事は無いに等しいとも思えるが、備えあれば憂いなし、二人は無言の裡に素早く帰途に就こうとする。すると向こうから響き渡る大声に気付く。

「お前ら、何処のもんどいやゴラー!?」

 二人はその方向に見向きもせずに単車に跨り、踵を返すように颯爽と走り始める。

 行きと全く同じ道を辿る二人は声には出さずとも互いの気持ちを理屈抜きに確かめ合ったいた。それはさっきの出来事なんかよりも寧ろ、姫路城の美しさとこれまでの半生を顧みる想いであった事は言うまでもない。

 夕暮れ時の景色はそんな二人の心情を代弁するかのように真っ赤に街を染め上げ、その景色は両者の脳裏に淡い記憶を走馬灯のように駆け巡らすという現象を引き起こす。 

 僅か16歳とはいえ馳せる想いにはそれなりのドラマがあり、楽しい思い出は勿論、辛い過去や哀しい情景の悉くが一緒くたになった回顧はその気持ちを次第に寂寥感に充たして行く。

 でもただ虚しいだけではなく、あくまでも心地よく感じられる切なさは二人の心情を曇らせるものでは無かった。

 それにしてもこれだけの長い距離を流しておきながらも、警察に目を付けられるといった危うい状況に一度たりとも遭遇しなかったこの逃避行は、偶然必然を問わずに両者の人生に深く刻み込まれていたに違いない。

 地元に帰り着き既に日も暮れたその現状は、整然たる日常の景色をしてただただ二人を安堵させるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

汐の情景  二話

 

 

 一緒に銭湯に行こうと提案して来た義久という友人は英和に輪をかけて口数の少ない人物であったが、一言に大人しいといっても少々短気な英和と比べて遙かに鷹揚なその為人は康明同様に或る意味では真逆なタイプのようにも思える。

 それを証拠に恐らくは喧嘩など一度たりともした事がないであろう平和主義に徹する義久の信条は、今の時代には大いに賛同を得ていた可能性はあるだろう。

 保育所からの付き合いであるにも関わらず英和とは口論をした事すら殆どない義久であっても、誰とでも話を合わせられるような器用さまでは持ち合わせておらず、彼なりの生き方があった事も理屈抜きに感じられる。

 だからこそ英和としても康明以上の親近感を持ち、どんな事でも包み隠さず話が出来るその間柄は親友といっても過言ではないだろう。 

 小さな町にも当時はまだ選ぶほどの銭湯が多く存在しており何処へ行っても良かったのだが、二人は家から一番近くにあった大藤湯に行く事にした。その理由は比較的客が少なく、何時も悠々と風呂に浸かる事が出来、一目を気にせず色んな話に花を咲かせる事が出来るといった些か短絡的な思考から来るものだった。

 英和にとっても大袈裟に言えば育ての風呂とも言えるこの店のドアを開けると、番台に坐っている経営者が愛想の良い声を掛けてくれ、250円とう安価な料金を払って脱衣所で素早く服を脱ぐ。

 そして風呂場に入ると凄まじいまでの湯気が立ち込めるその空間には、まるで霧に包まれた湖や森林、或いは先の見え難い高速道路のような幻想的にも少し胸が高鳴る異世界にも似た感動を覚えなくもない。

 真っ先に椅子に坐り頭を洗い始める義久に対し、それを嫌う英和は真っ先に湯舟に浸かり疲れを癒やすが如くその快楽に酔いしれていた。

 そしてようやく入って来た義久に徐に話し掛ける。

「そんな綺麗に頭洗ってどないすんねん? で、学校はどないなん?」

 訊かれた義久は何ら躊躇う事なく答える。

「そうやな、相変わらずおもんないけど、はっきり言ってどうでもええわ」

 これは英和にとっても想定内の意見で、物足りなさを感じた英和は思わず義久の噂話の真相を確かめようとする。

「ところでお前、同級生からビビられとうたしいやんけ、何かしたん?」

 義久は少し怪訝そうな顔つきをしたが、その余りの楽観的な為人は他者に対して警戒を敷くという策を講じようとはしない。

「その話か、あれは周りが勝手に思い込んどっただけやねん、俺もまんまと神輿に乗せられてもたけどな、情けない話やで」

 詳しく訊いてみた所では義久は高校に進学した当初、出身中学が結構有名な武闘派で知られていた事もあって、同級生から畏怖される存在になっていたのだとういう。

 だが義久自身は全くの無名であり、怖れられていた理由はあくまでもその出身中学の名前だけに起因するものだった。

 それなのに要以上に持て囃して来るものだからつい乗せられてしまったというオチなのだが、論理的思考を巡らす事に乏しかった彼は冗談半分とはいえ後先を考えずその神輿に自らが乗り込み、学校の廊下などを肩で風を斬って歩いていたらしい。

 入学当初の数日はそれだけでも流石と言わんばかりに感動していた同級生達であろうとも、若者のネットワークの敏なる事は日が経つに連れ見事に真実を暴き出し、義久の為人は確かめるまでもなく暴かれてしまうのだった。

 その後の義久が一気に窓際に追いやられてしまった事は言うまでもない訳だが、いくら旧知の仲であるとはいえ自らがその諸事情を包み隠さず話してしまうという彼の全く裏表のない、馬鹿正直で屈託のない性格も英和にとってはやはり羨ましく思える。

 普通ならまず黙っていそうなものだが、義久という男には恥も外聞も何も備わっていないのだろうか。でも自虐的とはいえ面白い話でもあり、話題に欠く事は無かった。

 二人がそんな話で盛り上がっていると常連の客達が入って来る。地元で知り合いが多かった為、英和は愛想良く挨拶をしていたのだが、義久はまるで対岸の火事を決め込むようにただ一瞥するだけで決して言葉を発しようとはしない。でありながらも、

「あのおっさんよう知っとんねん」

 などと戯言を口にする彼に対し、英和は今更ながらにその神経を疑う。だがそれをも覆すような義久の呆気らかんとした表情には皮肉を含めた器の大きさも感じられる。

 そうして風呂を上がって脱衣所でまた語らっている時、義久は神妙な面持ちで言葉を告げるのだった。

「英、お前最近康明と単車乗っとうらしいやん、俺も寄してくれや、ええやろ?」

 英和は考え込んでいた。四分六で付き合いの長い義久を仲間外れにする事は確かに冷たい仕打ちかもしれない。しかし大人しい性格に加えて運動神経も低いこの男を入れてしまえば返って足手まといになる可能性も否定は出来ない。とはいえ三人で連るめばもっと楽しくなる可能性もある。錯綜する想いは繊細な神経を持つ英和を大いに悩ませ容易く答えを出そうとはしない。

 遠き慮りなければ必ず近き憂いありとは言うが、それがいざ身近な者同士の話であった場合にこそ当事者として最善の策を取る事は返って難しいのではなかろうか。無論それを理由に短絡的な行動に出るつもりもな英和は取り合えず返事を保留する事にした。すると義久は少し暗鬱な表情を泛べて言う。

「ま、考えとってくれや」

「分かった」

 たったこれだけのやり取りで会話は終わってしまった。未だ葛藤する英和は己が言葉の足りなさを悔いていたものの、義久のおぼこい顔つきはその憂慮がまるで杞憂に過ぎなかったかのように優しく解き解してくれる。

 必要以上に思慮を深めてしまう英和はやり神経質なのだろうか。風呂上りに湯冷めする事を懸念した二人はあっさりと帰途に就くのだった。

 

 家に帰った英和は時間的な事もあり直ぐに横になり布団を被って眠りに就く。浅い眠りが幸いして夢を観る事はなかったものの、夜中にトイレに起きてしまった彼は徐にテレビをつけて窓を開け煙草に火を付ける。

 深夜という事もあり既にテレビ放送が終わっていたこの状況に思い付いた事はゲームであった。ゲームが好きだった彼は何度もクリアしていたドラクエをし始める。

 ドラクエシリーズで一番好きだったのは3だった。世界地図をモチーフにしたこのゲームは自らが世界旅行をしているような旅情を味わわせてくれる。各地にある城や町、洞窟や祠、ダンジョン等はロールプレイングゲームを好む者を魅了するに十分で、つい嵌り込んでしまうといった依存性を齎して来るのだが、繊細な割に少しせっかちな英和は戦闘が多いダンジョンを嫌い町の近辺で小銭を貯め、武器防具を買い揃えるといった姑息な手段で冒険する事が多かった。

 銅の剣から鋼の剣に格上げした時の昂揚感はたまらなかった。攻撃力が一気に跳ね上がるのを確かめるとまるで最強の戦士にでも成ったかのような錯覚を覚える。ただでさえ虚像の中で体験している事をさも実体験かのように感じてしまうゲームという媒体は人の神経を麻痺させてしまう力を持っているとも思える。

 それを免疫が無い幼子がプレイした場合に引き起こす副作用には麻薬のような悍ましい幻覚を与える力があるとも思えるが、ネット社会同様それが当たり前と思い込んでいる世代にとってはそれを省みる思考すら働かないのではなかろうか。

 それにしても早くクリアしたいと思っていた英和はその幻覚からいち早く脱する事よりも、ただ物事をシンプルに済ませたいという感覚の方が勝っていたのかもしれない。だとすると一体何から脱出したいというのか、何から逃れたいとうのだろうか。現時点ではいくら考えても答えが出ない。

 母を心配させる事を怖れた彼はキリの良い所で自ずとゲームを止めるのだった。そしてまた眠りに就く。今の彼には康明や義久の事よりも自分の事で頭が一杯だったのであろう。彼等を利用するつもりなど一切無かったまでも、とにかく他者を気遣う事を知らなかったのかもしれない。若気の至りとはいえ余りに軽率なその考え方はこれからの人生にどう響いて来るのだろうか。それすら憂慮せずに眠る彼の表情は意外と安らかなものだった。

 

「ご飯出来とうで~、早よ起きよ~」

 母の軽快な声は家中に木霊していた。それを訊いた兄弟は颯爽とダイニングへ赴き朝食を取る。弟の英之は真面目に食事を済ませ中学校に登校する。妹の由佳は女同士という事もあったのか母と大いに語らってから小学校に登校する。

 そして一番距離が離れているにも関わらず悠然と登校する英和はただ余裕をカマシていただけのようにも見えるが実はその限りでもなかった。

 それを誰よりも感じ取っていたのは他でもない母だったに違いない。でも母は大した事は口にしなかった。そこにも親心があったのだろうか。何時ものように、

「行ってらっしゃい!」

 と優しく声掛けをしてくれる。登校するのにも余り気が進まない英和だったが、思いの外足取りは軽い。それは貧しい家庭ながらも高校へと進学させてくれた親に感謝する気持ちと、ただ暇を潰せるという主観に依るものだった。

 昨晩ゲームに夢中になっていた所為か朝露に濡れた樹々から零れる水滴を確かめた彼はここに来て初めて曇り空である事を知る。空を見上げると一時的に止んでいるとはいえ今にも雨を降らせるような積雲が幾重にも重なりあって黒く映るその光景は、案ずるよりも先に英和の心を弾ませる。

 傘を持つ事を嫌う彼はそんな空模様を逆に味方に付けたかのような頼もしさを胸に快活に歩き始める。学校の授業も手に付かないこの状況で登校した所で彼は一体を求め、何を得て帰って来るのだろうか。

 自分の将来にさえ然程感心がない英和は真に繊細な人物と言えるのだろうか。また俄かにパラついて来た小雨はじめじめとした湿気を以て、彼の心情を見透かすようにその身体に直接浸透来るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

汐(しお)の情景  一話

 

 

        一章

 

 

 秋の夕暮れ時に吹き付ける少し冷たい海風は頬に心地よい刺激を与えてくれる。遙か彼方に佇む真っ直ぐな水平線と、薄っすらと覗く美しい稜線は幻想的に映る。

 細めた目で遠くを眺めながら黄昏れていると自ずと切ない気持ちになり、向こう岸に見える淡路島はまるで異国のようにも思えて来るのだが、明石海峡大橋を渡る車とそれをも追い越さんばかりに疾風の如く飛び行く鴎の姿には現実と幻の世界を結ぶ魔法のような力を感じなくもない。

 陽が沈み切る前の赤みを帯びた満潮時の海原は穏やかな波の中にも速い潮の流れを以て繊細な水面の動きを悟らせてはくれない。その上を悠然と泳ぐ船は遅いスピードながらも確実に進んでいて、消え行くまでのゆったりとした時の流れは人の心に安らぎを投げ掛けて来るようだ。

 目を移すと魚釣りを楽しんでいる人が無言の裡に竿が曲がるのをじっと見つめている様が滑稽に見える。そして僅かでも反応があればすぐさま竿を立てる俊敏な業には野生の動物のような真剣さが窺える。

 それにしてもこの緩やかな曲線を描く一本の長い見事な吊り橋は、眺めているだけでも惚れ惚れするような雄大さを誇っている。海の無限に人の有限。人為的に作られたものとはいえ自然に負けないぐらいのこの美しさは、寧ろ自然と同化する事に依ってその真価を発揮する事が出来たに相違ない。だとすると人の力も侮れない訳だが、それを十二分に活かしてくれる自然という現象にはやはり敬服せざるを得ないだろう。

 明石大橋に限らず今では日本全国至る所に設けられた数多くの橋。その影響でフェリーの往来が減少の一途を辿り、風情のある景観を楽しめなくなったという意見には少なからず賛同出来る。だがそれとは裏腹に美しいものにただ見惚れてしまう正直な気持ちは人の感情の脆弱性を表すものなのだろうか。

 何れにしても広大な海を眺めていると心が大らかになる事も確かな話で、如何に神経質な者でも何かを口ずさんでしまうのが自然の理であろう。

「綺麗やな~」

 独り呟く英和の顔を横目で見た康明はこう答える。

「あぁ......、何や、それだけかいや? オチのない話はすな言うねん」

「あの人、釣りしとうように見せかけて黄昏れとうだけかも知れへんでな」

「薬(ヤク)の取引きでもしとんやろ」 

「なるほどな、なかなかの役者やな」 

 小学生からの付き合いであった林田英和と大庭康明の二人は地元神戸の国道2号線を単車で走る時、この舞子浜で一服する事が多かった。 

 まだ高校生だった二人の性格に共通する点ははっきりとはしない。それこそ理屈抜きの関係性であったとも思われるが、強いて答えを見出すならばただ優しい、お人好し、真面目という所ぐらいなものだろうか。

 特に康明は小学生時分からお笑い風の根明なキャラで何時もクラスのムードメーカーのような存在であった。それに引き換え英和はどちらかと言えば少し硬派な性格で、暗くはないまでも孤独を好み、古風で保守的で狷介な人物に見える。

 見方に依っては対極に位置するとも言えるこの二人が連んでいた理由は、互いの性格を超えた何か因果因縁のようなものがあったのかもしれない。それは図らずも両者の人生、この現状が物語っているような気もするのだが、互いの若さは必要以上の詮索を好まなかった。

 英和が吐く煙草の煙は真っ白な色で舞い上がり虚しく消えて行く。康明は器用にも真ん丸な煙を二度三度と浮かび上がらせるのだった。

「お前は何調子乗っとうねん、ヤンキーでもあるまいし、そんな下らん事せんでええから、大人しくしとかんとまた祐司にどつかれるど」 

 英和の言は適格に的を得ており、言われた康明は多少なりとも気を悪くしていた。

「お前の言い方には棘があるでな、もっとボキャを増やさんとあかんわ、俺はそんな事全然気にしてへんしな」

「流石やな、その性格は羨ましいわ」

「嫌味かいや」

 他愛もない話をしてから二人はまた単車に跨り国道を東へとひた走る。少しスピードを上げるとその何倍もの強い風が身体に攻めかかって来る。でもそれを全く苦にせず風を斬って走る二人の気持ちは昂揚感の中にも安らぎを得ていた。

 後ろから迫り来る夥しい車の列や、前方を塞ぐ大型トラックにも全く動じる事なく狭い隙間をこじ開け颯爽と磨り抜けて行く。須磨辺りから明るく成り始めた街並みは帰宅ラッシュ時の慌ただしさを漂わせていたが、信号待ちをしている人々に見せつけるようにして車を追い越しながら先頭を突き進む二人の姿には、まるで騎馬隊の先陣を任されたかのような勇猛果敢な勢いがあった。

 

 そうして難なく地元まで帰り着いた二人は軽い笑みを零し別れる。無免許であった者同士がそこそこの距離を流したにも関わらず無事に帰って来れたのは奇跡なのかもしれないが、全く不安を感じなかった理由は正に根拠のない自信が齎した無形の力に起因するものだろう。

 地元にある港の誰の目にもつかないような、廃車が無残に放置されている場所の片隅に単車を停め家に戻る時、心なしか親に対して後ろめたい気持ちはあったものの、そのすました表情に卑屈さは感じられなかった。

 そして家に入り当たり前のように夕食を頂く英和は独り物思いに耽る。単車さえあれば何処にでも行ける、自由を手に出来たんだ。将来などどうでも良い、このままで居れたら言う事は無い。年など取りたくない、中年になど成る訳がない、もしそうなっても時間は逆戻りするのではないのか。しないのならば潔く死ねば良いだけの話だ。

 とはいえ親やご先祖様達のお陰で今の自分がある事も言うまでもなく、その歴史を蔑ろにするつもりなどさらさら無ければ出来る筈も無い。ならば今自分が思っている事は道理に適っていないではないか。

 これこそが若気の至りなのだろうか。世の中を舐め過ぎているのだろうか。しかしそんな常軌を逸したような考え方の中にこそ夢もあるのではなかろうか。無論計画立てて物事を考察する必要性を否定する訳でもないのだが、たとえ人様に笑われようともそんな淡い夢を抱く事が出来るのは若い頃に限られているとも思える。

 英和が考え事をしていると察した母の喜恵子は徐に声を掛けて来るのだった。

「あんた何考えとん? ちゃんと勉強しとんか? 最近帰りが遅いみたいやけど何処行っとん? まさか悪い事でもしとんちゃうやろな?」

 一瞬動揺した英和ではあったが、母の慧眼を危惧するその心情は軽率にも逆に質問で返すといった作戦を選んでしまう。

「母さんは勉強しとん? 言うたら悪いけど母さんからは知性があんまり感じられへんしな、それに俺なんかの事心配するぐらいやったらこの日本の情けない有り様を憂慮した方がええような気もするけどなぁ~」

 少々短気であった母は思わず声を荒げて言い返す。

「あんたなんかに何が分かるねん! あんまり調子乗っとったらあかんで、みんな必死に生きとんやで!」

 母が怒った時の表情には人の奥底に眠る強烈な恐ろしさが感じられた。それは外見よりも寧ろ内面に秘めた生真面目であるが故の余りにも馬鹿正直な露骨な感情の表れで、たとえ形だけの力でねじ伏せようとも是が非でもひれ伏さないであろう執念にも勝る矜持が感じられる。

 それでも己が思想信条を変えようとはしない英和の些か気難しい性格にも、母を困惑させるだけの材料が揃っていたに違いない。

「ま、調子乗った事は謝るけど、どう考えても世の中おかしいとは思うけどな、とにかく親孝行だけはするつもりやから心配せんとってーや、な」

 返事はしなかったものの、母は息子の優しい言葉に感動していた。

 数年前に我が夫と死別した英和の母は一時期は自分も死んでしまいたいぐらいに落ち込んでいた。でも再婚もせず、先に逝ってしまった夫を恨みもせずに元気に生きて来れたのはその意志の強さは言うに及ばず、長男である英和の存在も大きな理由の一つになっていたとも思える。

 英和の下には弟と妹が居たのだが、英和だけは特別に母の寵愛を受けていた。長男を愛する母の気持ちには普遍性があるのだろうか。それこそ歴史が証明しているとも思えるが、並々ならぬ母性愛を感じ取る長男の気持ちも明らかに現存するもので、それが意図せずに何時の間にか互いの心にプレッシャーを与えてしまう事も往々にしてあるような気もしないではない。

 無論そんな事を盾にして現状から逃れる気などさらさら無い訳だが、余り深く掘り下げて考察してしまうと返って相反作用を生み出す事にも成りかねない。

 物思いに耽る事を嫌わなかった英和はふと自分と母、両者の気持ちを紐解いて行こうとしていた。するともう一人の同級生から電話が入って来る。旧知の仲とはいえ、思い悩んでいた英和にとってこの連絡は実に有難く感じられるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バス旅シリーズは面白い

 

 

          人知れず  秋を儚む  天意かな(笑)

 

 

 真に春秋の短さを感じているのは人間よりも寧ろ天、自然であるような気もしないではないのですが、実際にはどうなのでしょうか。

 皆様お久しぶりです。ようやく落ち着いたのでまたブログに復帰しようと思います。

宜しくお願いします^^

 今日は自分が大好きな「元祖ローカル路線バス乗り継ぎの旅」を始め「ローカル路線バス乗り継ぎの旅Z」や、「太川蛭子の旅バラ」、「路線バスvs鉄道」、「路線バス陣取り合戦」等、旅バラ、水バラ、一連のバス旅シリーズについての感想を綴って行きたいと思います。

 

元祖ローカル路線バス乗り継ぎの旅

 結論から言うとやはりこれが一番ですね。蛭子さんのキャラクターは言うに及ばず、過酷な旅番組とは言いつつも旅の風情を感じさせてくれるようなシーンが結構多かったように思います。

 バスの運転手、乗客、案内所、店に宿、道行く人々、そして太川さん蛭子さんマドンナと全ての登場人物が朗らかで親切で和やかで、正に心安らぐ人情触れ合い旅だったと思います。

 歩く距離は長かったですけど、それを苦にしながらも結局は歩き切る所も素晴らしいですね。ただ自分としては現代人の歩行離れを嘆かずにはいられない訳なのですが、それを裏付けるような都会の喧騒も確かに人の精神と肉体に脆弱性を齎してはいるのでしょうね。人も車も少ない田舎道ならいざ知らず、街中で何kmものウォーキングをする事は実際難しいです。

 10年前に自分が福島に出張してた頃は辺りは警戒区域に指定されていて言い方は悪いですがゴーストタウンになっていたので、人も車も殆どいませんでした。だから休日には片道1時間半、往復3時間掛けて約14kmの道程をウォーキングしてたのですが全く疲れませんでしたね。それはやはり精神的な意味で疲れなかったのだと思います。これを地元でするとなればまず無理です。でも自分のような足腰の弱い者でもそれだけ歩けたのですから、人間というものは元々長距離を歩けるものだとも思いますね。

 話は逸れましたが要は理屈抜きに面白かったという事ですね。どの回も好きでしたが強いて言うなら......、やはり全部ですね(笑) とにかく太川さん蛭子さんの阿吽の呼吸が織りなす絶妙のバランス感覚が素晴らしかった事に尽きると思いますね。

 

ローカル路線バス乗り継ぎの旅Z

 これも当初は面白かったと思います。田中さんも羽田さんも最初は気合入ってたんでしょうね。太川さんに比べると明らかにテンションは低いと思いますが、何もテンションが高ければ面白いというものでもないのでそれも一興、これも一興でそこに咲かせる花もあるでしょう。

 ただ、余りにも口数が少ないのも気になりますね。もう少しでもコミュニケーションを図らないといけないのではないでしょうか。

 それを一番感じたのは第15弾、鈴木杏樹さんがマドンナの時でした。鈴木杏樹さんに対して羽田さんが

「ゴールする事が目的なんですよ!」

 みたいな事を少し語気を強めて言っていましたが、確かにその通りです。でも実際に鈴木杏樹さんは足を痛めていた訳で、そんな状況ですら無理をしてまで進む必要は無いと思いますね。それどころか優しい言葉の一つ掛けずに先に進もうとしているその姿にははっきり言って不快感を覚えましたね。いくらそれが番組の趣旨であるとはいえ、そこで優しい言葉を掛ける事は温(ぬる)い事にはならないと思います。

 そしておそらくは鈴木杏樹さんよりであったと思われる田中さんも何も言わなかった事ですね。もう少ししっかりして欲しい所です。これすら演出という可能性も否定までは出来ないのかもしれませんが、もし演出であるならスタッフのセンスにも首を傾げてしまいます。

 何れにしても会話が足りないからこそこういう状況に陥り易くなっているような気がしますね。改めてコミュニケーションの大切さを知ったような気がしましたね。

 

路線バスvs鉄道

 元祖路線バス旅が終わってから自分が一番嵌っているのがこれです。太川さんと村井さんの息はピッタリ合っているように見えます。

 勝つ事に執着する二人の心意気は凄いですね。もうちょっと旅番組っぽくしてみてはという意見もsるみたいですが、ここで手を緩めては逆につまらなくなってしまうと思います。でも気合を入れてやっていても旅の風情は十分に伝わって来ます。それはやはり元祖路線バスの旅とは比較にならないまでも、そこそこの距離を移動しているからだと思いますね。

 そして一番面白いのが

「もうここまで来ると勝ちたいですね」

 終盤に来てゲストが放つこの一言ですね。これを口にしている人は多いのですが、最初からは思っていなかったのでしょうか。

 ま、とにかく今はこれが一番好きな番組です。

 

陣取り合戦

 これも面白いのですが、近場をうろうろしているという点では他よりも一歩劣りますかね。太川さんもこれにはそこまで気合が入っていないような気もしますが、こんな事を言っては駄目です 😒

 自分のようなトーシローの主観ですが、この番組は他と同じように接戦するのではなく、寧ろ大差をつけてどちらかが圧勝するパターンの方が面白いような気もしないではありません。

 

最近の傾向

 ネットニュース等を見ているとテレビ番組についてのエンタメ記事が多く目に付きますがこれもどうかと思いますね。この一連のバス旅シリーズでも或るタレントが共演NGにしたとか、あの人は嫌いだとか、あれはおかしいだとか。

 はっきり言って何が言いたいの? と思ってしまいます。この番組に関わらず特に多いのが共演NG問題ですね。それを一々公表しようとする理由が全く理解出来ません。勝手にしたらとしか思えませんね。そんな事でしか何かを主張する事が出来ないのかと思ってしまいます。精一杯の抵抗がしたいのか何かは分かりませんが健気にも憐れな感じがしますね~。

 言うなれば比例区で当選させて貰っておきながら、後に離党する儀礼の欠片もない政治家に似たものを感じます。無論それだけの力があって活躍出来るような人であれば何も言う事はないのですが、そこまでしていがみ合う事もないのではと人間の性を悲観してしまいますね。これもネット社会の歪みなのでしょうか。

 ま、同じような事をしている自分が人様の事を言うのもおかしいのですけれど、時代の流れに美が感じられない所ですかね 😢

 

 という事で以上、バス旅シリーズについての感想でした。また小説も書いて行きたいと思っていますが、不本意ながらも前の作品は一旦止めて、新しいものを作って行くつもりです。

 文學会と群像の二つに全身全霊で取り組んでいると、今まで自分が書いていたのが如何に稚拙な小説であったかを改めて知ったような気がしました。ローマは一日にして成らずとは言ったものですね。もっともっと精進して行きたいと思います。

 では皆様、この素敵な秋に良い一日を 😉