人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

孤独の必要性と作り方 ~人付き合いとの関係性、その割合

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           冷風に  そよぐ桜の  美しさ(笑)

 

 三寒四温とは言いますが、四月になっても肌寒い日が続きますね。暑さ寒さなんかに負けて男が勤まるんかい、という古い考え方を持った自分も居ますが、年の所為か、寒さが堪えるようになりました。情けない限りです 😴
 という事で(どういう事やねんと)、今日は孤独という言葉についての持論を語ってみたいと思います。孤独を愛し、孤独を憎む。なかなか難しい話です。

 気楽に、でも少し真面目に行ってみましょう^^

 

そもそも孤独とは

 精神的なよりどころとなる人や、心の通じあう人などがなく、さびしいこと。 「自分がひとりである」と感じている心理状態を孤独感(loneliness)という。

 たとえば、物理的には大勢の人々に囲まれていても、自分の心情が周囲の人から理解されていない、と感じているならば、それは孤独である。当人が、周囲の人たちとは心が通じ合っていないということに気付いていれば孤独である。たとえ周囲の人々の側が、その人と交流があると勝手に思っていても、当人が、実際には自分が全然理解されていないと気付いていれば孤独である。

 とありますね。要するに独りぼっち、淋しいとかいう意味合いであると思います。

 ただこの文中にあるように孤独というのもは成るものではなく、感じるものだとも思えて来ます。つまりは、たとえ集団で居ても孤独は何時襲って来るか分からない、自分で予想も出来ない、言うなれば自然現象に近い存在、事象という定義付けが出来るような気がします。
 

輪の中で感じる孤独

 自分はこの『人の輪』というワードが大嫌いなのですが、そこにも一応の主観的な理由はあります。
 過去にも何度か綴ってみた事がありますが、まず輪とは何なのかという話で、それは真の『団結力』や『絆』などとは程遠い、単なる見せかけだけの極薄い部分での『協調性』や『迎合』に過ぎないと思います。

 現代人自体が本物を求めていない、欲していないという可能性もあります。ただ気楽にそれなりに生きて行ければそれで良いみたいな、全てがライトな感覚で捉えられる時代なのかもしれません。

 でもどのような時代にあってもやはり不変の原理性から成り立っているであろう、人間生命の髄という事に焦点を当てた場合、どうしてもこういった硬い話を素通り出来ない自分が居ます。無論これぐらいの事を考えている人は沢山居るとは思いますが。

 元来、日本は『和』の国だと言われています。読んで字の如く和むという意味合いですよね。上辺だけの、他者を、その場の空気感などという、はっきり言って自分にはクソ下らないと思われるものを必死に読んで、自分一人だけでもハブられないよう努める事に何の意味、価値があるのかと不思議で仕方ありません。
 そうして作られた『輪』などは『和』とは似て非なるものどころか、全くの別物で下位互換にも成り得ていないと言わねばなりません。

 然るにそういった輪を意識し過ぎるが故に、その中で感じ得た孤独に必要以上に恐怖し、そこから一刻も早く逃れたい一心で精神が掻き回され、乱れ、暗鬱、陰鬱な状態を強いられてしまうようになるのではないでしょうか。

 ここにも個人差、精神性の強弱は存在するとは思います。自分のような極めて人脈の薄い人間でさえ仕事場でも私生活でも、幾度となく孤独を感じ、それと戦って来た経験はあります。

 いい年をして恥ずかしい話ですが、時にはそれが為に茫然自失、自暴自棄に陥った事もあります。実際に完全に病んでしまい、自分の前から姿を消した数少ない中の友人も居ます。
 でもその友人は言っていました。

「お前何でそんなに強いねん? 連れおらんかったら淋しくないか? 怖くないんか? 俺やったら持たへんわ」 

 と。

 確かに交友関係が広い者ならそう思うかもしれませんね。何となく理解出来るような気がします。

 でもそれを何故そこまで苦にするのかと疑いたくなる自分の方が明らかに勝っていて、それぐらいでクヨクヨしていたその友人に対し、カマシを入れた事もありました。

 特にネットが普及し尽くした現代社会では上辺だけの他者との繋がりを重視している人が増えたように思われます。自分は未だにガラホなのですが、昔から電話や頻繁なメール、そして現在のsnsと。

 それらは形は変われど、近所付き合いや人付き合いと全く同じ意味を為していて、姿の見えない相手に対しての意見であっても、発信者である本人の意思という点ではやはり同一の意味を為していると思います。

 自分も複数人で居る時に感じる孤独感には恐怖を覚える事はあります。自分一人が浮いているのではないか、嫌われてしまったのか。などとその場から消えてしまいたくなる時もあります。

 でも少なくともそれが故に病む事まではまずありません。それは自分が強い訳ではなく、嫌われる事を苦にしていないからなのです。一見何をカッコつけているんだ。と思われるかもしれない言い方です。自分とて好き好んで他者に嫌われようとは思いません。でも、他者との軋轢なくして真の情感、情愛は生まれて来ないという尤もらしい言説には一理はあると痛感しています。
 つまりは争いとまでは行かないまでも、少々の諍いすら非とするならば、まずこの世の中自体が存在し得ないとも思われ、もし、百歩譲ってそれで成り立つ世の中であれば、生きる価値すら無いと断言したい自分も居るのです。

 何が言いたいのかと言えば、たまにぐらいは嫌われても良い。嫌われる事自体を甘んじて受け入れるという思考を持つ事も大切なのでは、それは決して自分を厳しく律するという意味での所作ではなく、寧ろ自分を甘やかすという意味合いで受け取り、嫌われてなんぼや、という諦めや投げやりな態度ではなく、『潔い自我の捨て方』だと考える所でもあります。

 

孤独の割合と必要性

 まずは自分の個人的な孤独の割合ですが、技術職に就いている影響か、職場でも一人でいる時間は結構長く、独りが好きな自分としては好都合なぐらいです。

 でも勿論皆と一緒に力を合わせて仕事をしないといけない事もあり、そういう時は実に面倒臭く煩わしく感じます。

 しかし、いざ皆で協力して仕事をしていると、自ずと目には見得ない仲間意識のような感覚が湧き上がり、その中にあるであろう美学のようなものにも気付く瞬間があります。それはそれで良い事であるに相違ありません。言までもない事です。

 しなしながら、やはりどちらかというと独りでいる方が気は楽ですし、それが自分の先天的な性分だとも思います。

 ま、自分の事などうでも良いのですが、良くスポーツで言われる『個の力』、この個の対義語を団体や全体とするならば、その関係性や割合といった話は、本来取るに足りない稀薄な議論に過ぎない感じもして来ます。 

 それはどういう事か。要するに全体主義に支配されているであろう現代日本社会の悲哀。その憂わざるを得ない社会構造も然る事ながら、『個』と『全体』とは元を同じくする、謂わば同じ芽から出た樹々の葉っぱ、或は草花であると仮定出来る事象であり、亦、仏教で言う所の『自他不二』の教義にもあるように、分けて考察する事にこそ、それこそ脆弱で歪んだ雑念、邪念が内在されてあり、素直にその大元である『根』、そして天の陽射しや水といった自然に感謝し、それを受け入れさえすれば自ずとそれら衆生は自然の裡に融合し得る、正に自然の中にあって何の差異もない一つの事象同士が育む営みとなって来る訳なのです。

 要約すると個人差はあれども、孤独の割合などを考察し、論じ、気にし、臆する事などは皆無といっても過言ではないと思われるのです。

 それを踏まえた上でも孤独が好きな自分は、相変わらず全くウケていないであろう小説執筆に邁進している訳なのですが、小説を書く時の孤独の必要性は高いと思われます。気が散った状態では一文字も書けません。

 という事でその孤独の作り方に進んでみましょう^^

 

孤独の作り方

 引っ越してからのウォーキングは運不足解消にも孤独を作るのにも、大いに役立っていますね。何故もっと早くにしなかったのか、情けない次第であります 😴

 それともう一つ発見した事がありました。それは自分が愛してやまない銭湯で、サウナです。

 昔から知っていて、何度か訪れた経験があったその銭湯。そこは言っては悪いかもしれませんが、少し暇そうな銭湯で、客は少ないです。何時行っても悠々と風呂に浸かる事が出来ます。

 そこでサウナの話です。そのサウナも勿論空いていて、だいたい一人で入れる時が多いのです。しかも狭く小さく、言うなればホームサウナの少し大き目といった所でしょうか。詰めれば三人は入れますが、普通に入れば二人までですね。

 そのサウナにはテレビも置いていません。完全性はないまでも、ほぼ完全といても良いぐらいの孤独に浸れる訳です。

 音も殆ど聴こえて来ないその空間にあるものとは淋しさを介さない孤独なのです。そして温度も低めなので、岩盤浴みたいな感じで長く入っていられます。10分経ったぐらいから、じわ~っと出て来る汗が快感を呼びます。

 家で独りで寝ている時よりも孤独、自分だけの時間を手にた気持ちになります。その中で考える事といえば、やはり小説の事や、実生活の事、そして自惚れを含めた世相への意見など。結構様々な事が脳裏を過る訳ですが、何を考えても決して卑屈にならず、寧ろ心地よい精神性を保った状態で時を過ごす事が出来るのです。

 団体、集団行動が好きな方は、これを独り上手などと言って揶揄するかもしれません。それでも自分は一向に構わないのですが、この孤独感は本当に心身共に良い効果があるように思えて仕方ありません。

 自分のような準脈の薄い人間でも他者と交わる、いや交わらないといけない事は多々あり、それが人間社会の常っであり、性(さが)であるとも思える訳ですが、やはり、どう考えても一定数の孤独を味わう時間は精神的な意味だけではなく、医学的にも物理的にも必要性を表していて、それなくして人間という生命は生きて行けないような気もします。

 皆さんも時にはこの『孤独』というものと真剣に向き合ってはどうでしょうか。決して悪いものでも無いような気がします。

 

 という事で以上、アホ丸出しな自分の孤独についての持論、論評でした。主観だけでなく、客観性を以て語って来たつもりですが、結局は自分語りをして来ただけのような気もしないではありません。主観と客観の関係性も所詮は自意識から生じた自我に執着する思いに過ぎないのでしょうか。自分としてはその限りでもないと信じたい所なのですが、その辺の哲学的な話はもっと勉強する必要がありそうですね。

 このままでは万年ワナビーで終わってしまいそうなサッカツ。いやそんな弱気ではダメですね。確実に進歩、成長している筈だと思って精進して行かねばなりません(笑)

 では皆様ごきげんよう。また会える日まで 😉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

晴れやかで趣のあるウォーキング ~放浪人or冒険家

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          春うらら  鳴かぬ鶯  可愛けり(笑)  



 御無沙汰しております。やっとこさすばる文學賞への応募が終わりましたので、またブログ生活に舞い戻って参りました。
 はてなブログこそ我が人生? saga見参 ! アホかという話ですわ(笑)

 それだけこのブログに対する思い入れが強いという話ですかね^^

 それにしても月日の経ちよう、時間の経過というものは早い限りですね。年を取る毎にそういった、自身に対する憂いが込み上げて来ます。

 今年に入って早や二(ふた)月が過ぎ、3月も半ばに差し掛かりましたと。この間にも世間では色んな事がありました。その詳細は忘れましたが 😴 あった事には相違ありません。

 そんな中、自分は引っ越しをしました。一世一代の覚悟も以て。とまでは言いませんが、私生活でも色んな事に苛まれ続けておりましたので、心機一転を図るべく、自分なりの判断を下したという所ですかね。

 引っ越しは良いものですね。以前住んでいた所がよほど悪かったのか、まるで異世界に誘(いざな)われたかのような気がしないでもありません。

 淋しがりやの癖に、どちらかと言えば孤独を愛する自分としては、この静かな環境が贅沢なぐらいに思えます。何か西方浄土、或はこの世の天国にでも生きたまま足を踏み入れたような。無論日中はそこそこの騒音もありますが、夜などは正に静寂。怖いぐらいに静まり返っています。

 同じ区内でここまでの差異があろうとは思いもしませんでした。此処も元は実家があった、生まれ育った地元なのですが、約10年離れていた所為か、すっかり様変わりしたように思えます。

 下町にありがちな、昔ながらの古い長屋やアパート、雑居ビル。今ではそういった建物が殆ど見受けられません。何時の間に建ったのだ、というような真新しい、小洒落た建物が反射する陽の光が不自然なほどに眩しく感じます。

 ま、こう思ってしまうのも拘りの強い保守的な自分の、憂慮すべき欠点かもしれませんね。前向きに生きて行かねばなりません^^

 という事で(どういう事やねんと)、前向きと言えば身体を動かす事。といえば運動不足解消と気分転換から浮かんだウォーキング。これをしない手はありません。身体を動かしたいのに、これまでは大した事をして来ないまま時間だけが過ぎて行きました。それは取りも直さず己が不徳の致す所でもある訳ですが、街中でそれをする事に躊躇していた自分も情けないと思います。

 そこで、有無を言わさず始めたこのウォーキング。まだ始めて二週間ほどしか経っていないのですが、その効果は我ながら凄いと思います。

 まずは運動不足解消。水泳と比べるとその消費カロリーもたかだか知れているとは思います。でも歩く場所に依っては距離が稼げるんですよね。

 自分が大好きな海。これこそが憧れであり、癒やしと快感を覚える真骨頂。港町神戸とはいえ、ただ見ると訊くだけでは大した雰囲気は感じられません。ネットでググった画像なども勿論。

 1万歩を目指して歩く事、約20分。須磨海岸の真ん中ぐらいの位置にある赤灯台。当初はここを目標にするつもりでした。ところが携帯(自分は未だにガラホ)で歩数を確かめると3000歩でした。流石にこれでは物足りないと思い、そのまま西へとひた歩きます。すると眼前に姿を現した須磨駅。その近くに公衆トイレがあったので、そこで用を足し、歩数を見ると5000歩足らず。ここでUターンして引き返せば1万歩にはなるのですが、まだその先があるんですねぇ~。

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須磨駅前の海岸


 ここで一旦休憩をして西方面に目を向けていました。この写真にある左側が水産会社になっていて、中へ入って行くと漁師さんが網を弄っていました。これ以上海岸線を西に進む事は出来ないのかと尋ねてみると、行けない事はないが、岩場があるので難しいかも、という返事をしてくれました。

 致し方なく諦め、引き返して行こうとすると、如何にも買い物帰りといった綺麗なおばさんが歩いていたので、同じ事を訊いてみました。やっぱり漁師と同じ答えが返って来ました。

 でもそのおばさんは、そのまま海岸線を、写真にある右側沿いに進んで行くのでした。考え過ぎかもしれませんが、この先に抜け道があるのでは? 地元民しか知らない隠し通路があるのではないか? という不純な猜疑心が自然裡に自分の心を覆ってしまいました。

 でもやはり疑うのは悪い。と思い結局は引き換えしました。

 これがウォーキング初日の出来事です。

 

 次いで二回目。同じ道程で歩き須磨駅まで辿り着きました。往復すれば1万歩。歩き過ぎても逆効果という意見を等閑にする訳ではないのですが、たとえ後もう少しでも、と思い、西への道を探しだそうと躍起になっていました。

 右側にある海にして山道のような雑草が生い茂る砂道を歩いて行くと、その果てには素晴らしい絶景が待ち受けていました。

 

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須磨一の谷付近の海岸線

 

 この景色を見た自分は感動しました。少々大袈裟な言い方ですが正直な気持ちです。ここから先はビーチにありがちな人工的なアスファルトやコンクリートで塗り固められた道が無いのです。見渡す限りの砂浜。そこにある風景というものは、正に自然の理(ことわり)を表しており、神経質な自分の性格をそのまま掻っ攫ってくれました。

 漁師やおばさんが教えてくれた岩場というのは更にこの先にありました。何れはそこへも行ってみたいと考えています。

 

 運動不足解消を思ってし始めたウォーキングですが、自分のように色んな事を考えながら歩いている人など居るのでしょうか。他者の事を干渉、詮索するつもりは一切ないまでも、何故か人様が歩いたり走ったりしている様を見ると、実に爽快に感じます。

 嘗て僧が言っていました。

「道(人生)に迷った時は歩くようにしています」

 と。

 如何に坊さんとはいえ、この言には感動を覚えた自分です。

 この年を晒して、未だ人生に放浪しながらも、探求心も一応は持していると。我儘な話かもしれませんね^^

 温かい春を待ちわびる為だけの、不遜とも思える心情に、鶯の可愛い鳴き声は聴こえて来ません。

 歌を忘れたカナリアとは言いますが、鳴く事を忘れた鶯など居るのでしょうか。それは今の自分の心を表しているような気がします。

 

 という事で(どういう事やねん!?)、以上、彷徨いながらも冒険を試みる者の、前向きなウォーキング日記でした(笑)

 皆様、良い週末を 😉

 







 

阪神大震災27年 「神戸の壁」 ~テレビ初出演

 

 

          麗らかな  自然美さえも  無常かな  

 

 

 1.17。地元神戸民としては実に感慨深いものがあり、毎年この日が訪れるとどうしても胸が痛くなります。

 震災について語り出せば何時間あっても足りないぐらい色んな思い出がありますが、今となっては遠い昔の話で、懐かしくさえ感じます。

 一言にノスタルジックと言っても、そこには当然失われたものへ対する万感の思いがあり、憂愁に包まれる心の中に光を当てる事は容易ではないでしょう。

 震災自体は勿論、今日はその辺の人の心情といったものを中心に語って行きたいと思います。

 

地震に依る衝撃

 当時自分は18歳で、高校三年生でした。年が明けてもはや卒業を待つばかりのその時期は学校も殆ど休みだったのですが、1995年(平成7年)の1月17日は三連休明けで、登校する予定があったと記憶しています。

 それがこの日の早朝5時46分。地震は起こりました。新聞配達のアルバイトをしていた自分は5時過ぎには配達を終え自宅に帰り、それから約1時間の仮眠をとってから登校していました。

 ただ横たわっているだけの浅い眠りの中に、はっきりと感じた地震の揺れ。その揺れはそれまでに経験した単なる地震ではなく、凄まじいまでの強大な烈しい揺れで、怪しく禍々しい気配が伝わって来るのを感じました。

 はじめの揺れは単なる何時もの地震といった感じで、

「あ、揺れてるな」

 と何気ない漠然とした感覚しかありませんでした。

 しかしその横揺れは数十秒と実に長く続き、違和感を覚えた瞬間、

「ガーン!」

 という感じの強烈な縦揺れが襲って来ました。

 そんな揺れを感じたのは生まれて初めての事で、一瞬身体が宙に浮いたような感覚に見舞われた自分には戦慄が走りました。

 これは只事ではない、本格的な地震だ。小さな部屋に置いてあった家具類が寝ている自分の身体に覆い被さり、自力では起こせない状況に陥りました。幸い真冬という事もあって分厚い掛け布団を被っていたので怪我などはありませんでした。

 弟に助けて貰い何とか身を起こし外に出てみると、そこには昨日までとは違う、大袈裟に言えばまるで異世界、世紀末のような悲惨な光景が広がっていました。

 自宅の損壊状況はそれほどでも無かったのですが、周りには全壊した人家も多数あり、地震の強さをまざまざと感じました。

 いくら大地震とはいえこんな簡単に建物が潰れて良いものかと思いましたね。いくら自然が好きな自分でも、この時ばかりは自然の力を恨みました。 

 近くの商店街では大火災も起こり、紅蓮の焔に包まれ、みしみしと嫌な音を立てて崩れ去る家屋。或る人は泣き喚き、或る人は目を潤ませながらも必死に涙を堪え、歯を喰いしばって拳を強く握り締め、そして亦或る人はただ呆然自失とした表情で立ち尽くしている。

 天はここまでの試練を与えたのでしょうか。悲嘆に暮れる人達の姿はとてもじゃありませんが、直視する事が出来ませんでした。

 喜怒哀楽。この四つの感情の中の怒と哀は未だ消える事なく、その人の心に燃え続けていると思います。

 

復興

 良く言われる復旧と復興の違い。これをどう捉えるかは人それぞれの価値観に依る所が大きいとは思います。ですが、物事に順番というものがあるのなら、まずは復旧をしなければならないのではないでしょうか。

 震災後の普及状況には目覚ましいものがありました。当初は何処から手を付けて行くのかと不思議なくらいに感じていましたが、倒壊した建物は次々に解体され、空き地が荒野のように広がる地元の街は、もはや街ではなく、ただの土地、ただの地面、ただの学校のグランドみたいな風にも見え、そこには果てしない虚無感だけしかありませんでした。

 それを一日も早く復旧したいという想いは自然的ではあります。でも街をそこまで早く立て直す事自体に無理があり、不自然性があるような感じもします。

 

 震災後僅か数年間で街は見違えるほどに復興しました。知人にも、

「あの辺えらい綺麗になったなぁ~、え、凄いでな」

 などと言われた事が何度かあります。確かにその通りです。震災当初にここまで復興するとは誰が予想していえたでしょう。道路は綺麗に舗装され直し、高層建物が表す街の近代化は、以前の光景を忘れしまうほどに見事なものでした。

 神戸の長田という街は恐らくは全国でも有数の下町で、その情緒、義理人情、景観には他所には無い素晴らしい文化が内在されていると思います。

 それを復旧という名の復興が全てを無に還してしまったのです。綺麗な街には成りました。便利にも成りました。しかし、以前のような賑わいは無いに等しく、もはや下町の景観などは消え去ってしまったと言っても過言ではないでしょう。

 その事で運動をしていた地元の有志達もいましたが、今ではその力も弱くなり、結局は時代に流されるしかないといった現状です。

 最近になって伯父に言われた事があります。

「今の時代に下町の義理人情なんか言うとったら笑われるだけやで」

 と。そんな時代になった事は自分でも理解しています。でもそこまで露骨に口にする必要があるのでしょうか。余りにも無慈悲なのではないでしょうか。そこまで自分が保守的で、狷介で、古い型の人間なのでしょうか。

 愚痴を言っても始まりませんが、自分はたとえ万人に否定されようとも、こういった考え方だけは変えるつもりはありません。それが災いして失った友人も居ます。でもカッコをつける訳でもなく、後悔はしていません。

 はっきり言って今の世の中に足りないものは都会でもなければ田舎でもない、下町の存在だと確信しています。こればかりはそういう地域に生まれ育った者にしか分からない事かもしれませんが、下町文化というものの素晴らしさはなにものにも代えがたい、正に自然と同じ、人類の花鳥風月でもあるのです。

 この地域には震災の有無に関わらず、以前から再開発の計画があったと訊いています。何故お上は近代化ばかりを優先させるのでしょうか。何故古き良き文化を滅ぼそうとするのでしょうか。莫迦正直な自分はその疑いを葬り去る事が出来ません。

 でもテレビなどでは頻りに、

「震災を風化させてはいけない」

 とか相反性のある、尤もらしい事を言い続けています。これこそが社会の不条理で、言うなれば世の常なのでしょうか。

 そう簡単には割り切れない自分がいます。

 

テレビ初出演 

 

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 この番組にある「神戸の壁」これは自分も知りませんでした。情けない話です (;^_^

 ただこのギャラリーには結構足を運ぶ事があって、一週間ほど前にそこを訪れた時、たまたま撮影をしていたという事です。

 

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 ポケットに手を入れるな! という話ですよね(笑) 

 このニュース動画の5分17秒から23秒辺りでしょうかね。自分のような名もない凡人が数秒間も映る事が出来たのは嬉しく有難い限りです^^

 このギャラリーの直ぐ近くにパチンコ店があるのですが、馬鹿々々しくてとっくに足を洗った自分はそこに用事があったのではなく、他の用事を済ませた後、たまたまそこを訪れた時に、カメラに収まっていたようです。

 何か撮影をしているなとは思っていましたが、邪魔にならないよう端の方で写真を眺めていました。後にして思えばそのスタッフ達と二三話をすれば良かったなとも思いますね。

 様々なメディアがある今の時代にちょっとテレビに映ったぐらいでは何の自慢にもならないでしょうが、初めての経験だったので、これを知人に知らされた時はつい愕き、喜んでしまいました。

 この神戸の壁というのは本当に素晴らしいと思います。こういうものは未来永劫語り継いで行って欲しいですね。それこそが震災を風化させない志だと思います。

 

 世は人に連れ、人は世に連れ。去る者は日々に疎し。何れは忘れ去られてしまうであろう事を何時までも覚えておく事は確かに難しいかもしれません。

 でも忘れて良い事、寧ろ忘れるべき事と、忘れてはならない事は絶体にあると思います。人間にはそれを感覚的意識の中に蔵(しま)い込んでおく、優れた能力が備わっている筈です。それさえ放棄してしまえば人間という生命の存在価値自体がなくなってしまうような気もします。

 美しい樹々や草花でさえもその姿を変化させ、何れは枯れ果てて行きます。でも季節が来ればまた見事に咲き誇り、晴れやかな情景を齎してくれます。

 自分も自然のように前向きに、心身共に美しくありたいと願うばかりであります 😉

 そして被災された方、亡くなられた方々には改めて追悼を捧げたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

通りゃんせ(宇江佐真理)を読み終えて

 

 

           足早に  通り過ぎゆく  正月よ(笑)

 

 

 新年の御慶目出度く申し納め候。旧年中は格別の御厚情を賜わり忝く存じ奉り候。

 本年も宜しくお願い致したく御座候。

 

 遅ればせながら新年のご挨拶とさせて頂きます。

 

 いやいや、それにしても例年同様、正月というものは呆気なく去って行きますね。早過ぎますわ。正に疾きこと風の如しです。

 今にして思えば年末が懐かしいぐらいなのですが、そんな悲観的な事ばかり言っていてはいけません。いい加減前向きになりましょう (;^_^

 また久しぶりの投稿になるのですが、ご無沙汰しておりました。皆様方におかれましては益々御健勝の事とお慶び申し上げます。

 という事で(どういう事やねんと)、今日は読書感想ですね。今回は我が尊敬してやまない三島由紀夫大先生以外の小説です。三島作品以外の小説を読んだのも久しぶりでしたが、結構面白かったです。

 

あらすじ 

 25歳のサラリーマン・大森連は小仏峠の滝で気を失い、天明6年の武蔵国青畑村にタイムスリップ。驚きつつも懸命に生き抜こうとする連と村人たちを飢饉が襲い……時代を超えた感動の歴史長編!

 要するに現代日本人の若者が何の因果か、図らずも江戸時代へとワープし、その時代で活躍する物語ですね。

 初めは元の現実世界に戻りたい一心で、その糸口を見出そうと必死になっていたのですが、時は過ぎるばかりで、だらだらと暮しているうちに何時しかその生活に慣れ、次々に襲い掛かる天災や事件に巻き込まれ悪戦苦闘しながらも、諦めずに何とか頑張って生き抜いて行くといった感じですかね。

 

見どころ 

 主人公の連(連吉)の為人を一言で言い表すなら硬骨漢だと思います。滝で行き倒れになった所で江戸時代へとタイムスリップし、目を開ければ時次郎、さなの兄妹が住まう人家に横たわっていました。

 この兄妹に助けられた恩から、元の世界に戻ると共に、律儀にも恩返しをしようと試みます。まずはここですね。この心掛けは本当に立派だと思います。あくまでも物語な訳ですから一見当たり前のように感じなくもないのですが、こう考える事自体が素晴らしく、人間らしい行いで、今の時代には珍しいとも思ってしまいます。

 一宿一飯の恩義とは言いますが、それどころか一年以上も江戸時代に居続けます。勿論元の世界に帰る術が見つからなかった事もありますが、川の氾濫に農作物の不作、飢饉、それらが起因する村人同士の諍い、更には凄惨な事件という人災までもが次々に巻き起こり、戻るに戻れないという事態に陥って行きます。

 それでも連は自己憐憫などせず、村の為にと前向きに必死に頑張り、それなりの成果を出します。

 この彼の所業ですよね。決して開き直る事なく、亦悲観する事もなく、とにかく村の為を思い躍進するのです。無論自分の為でもありますが、先に来るのは村の方です。この物事を客観的、総体的に捉える彼の思考は本当に素晴らしいと思います。歴史小説とはいえ、現代社会と比べた場合、その思考の余りの違いが手に取るよう分かります。
 元々歴史が好きな自分は感動しました。

 助けてくれた時次郎、さな兄妹もたいへん優しい、融通の利く人でした。初めは連の事を疑ってもいましたが、その働きぶり、誠実な為人に心打たれ、連と三人兄弟のように仲良く暮らす事になります。

 そして何時しか連とさなは恋心を抱くようになって来るのですが、時代が邪魔をします。二人は共に相思相愛だった筈です。でもそれ成し遂げられない事も事実で、連もさなもやり切れない想いであったでしょう。

 時次郎に頼まれ、連はこの村の知行主であるお屋形様に逼迫した状況を訴え、助力を仰ぐべく青畑村から江戸へと旅立ちます。

 江戸でも色んな事が起こりますが、連は無事役目を果たし村へと帰還します。彼は元々聡明な男だったのでしょうね。現代社会の知恵を使えば怪しまれますので敢えてそれはせず、でも自分が知り得た歴史や文化をヒントにしながら突破口を見出し、見事に困難を潜り抜け、更にはお屋形様からの信頼も得ています。

 つまりはこの主人公そのものの活躍、それが見どころなのです。物語に於いては当たり前とも思える事ながらも実はその限りでもなく、連は諦めないという在り来たりな思考を精妙に、自然的に教えてくれているような気がします。

 

最後に

 この物語はジャンル的にはファンタジーになるのでしょうか。とはいっても今主流になりつつあるライトノベルのような軟派な異世界ファンタジーのようなものでは決してなく、あくまでも純文学に類する作品だと思います。

 ただ三島作品や他の純文学と比べると明らかに読み易いです。枚数は結構多いのですが、すらすら読めましたね。

 話は変わりますが、タイムスリップに影響すると言われているワームホール。これさえあれば本当に時空を行き来する事が出来るのでしょうか。もし出来るのなら毎年三回ぐらいは年末年始を繰り返したいと願う自分が居ます(笑)

 もっと昔に戻って人生をやり直したいとも思いますが、たとえ戻った所で、その人生に大した変化は無いのでしょうねぇ~。そんな気もします。

 歴史小説とはいえ、ファンタジーのような物語を純文学風に書ける著者の力量も凄いと思います。作家を目指す自分としてはまだまだ学ぶ点が多そうです。

 

 という事で以上、「通りゃんせ」のレビューでした。

 まだまだ寒い日が続きますが、ご自愛くださいますようお祈り申し上げます^^

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

汐の情景  最終話

 

 

 康明からの連絡は彼の母御が亡くなってから数日が経った、通夜も葬儀も終えた後だった。何故もっと早く知らせてくれなかったのかと訝る英和。たとえそれがここ最近の経緯に依るものであろうとも納得しかねる。

 でもそんな事を言っている場合でもないこの状況は英和の足を急がせた。目に映るもの、心に感じるもの全てが虚しさだけを表しているようだ。ちらほらと咲き始めた彼の大好きな紅葉にさえ何も感じない。こんな時に限って進行方向へと追い風が吹いていたのは皮肉以外のなにものでもなかった。

 康明の家は当然のように静まり返っていた。喪に服す彼の様子は凄まじいまでの憂愁感を湛えていたが、それ以上に伝わって来る彼の落ち着きの無さ、ぎこちなさは何を物語っているのだろうか。

 香典を置いて神妙な面持ちで線香を焚き、合掌礼拝する英和。寺社仏閣などで拝む際、何時も無心に勤めていた彼にも康明の母御の急死は未だに信じられず、この光景自体が幻であるかのような不思議な感覚を覚える。

 彼は実に長い時間拝んでいた。拝んでも拝んでも拝み足りないような気がしてならなかった。

「もうええやろ」

 冷たく低い声で口を開く康明の手元は震えていた。これは貧乏ゆすりの一種か、苛立っているのか。彼の情緒不安定を優しく見守る英和は一礼をしたあと、その肩にそっと手を触れ、暫く無言で康明を見つめるのだった。

 言葉にならない言葉、想いにならない想いが康明に告げられ、その後無慈悲にも儚く宙に舞って飛散して行く。

 今一度仏壇に向かい母御の顔写真を眺めると、その明るくも自分達の倍以上の辛苦を味わって来た豊富な人生経験に依る一人間としてのが慎ましやかな矜持が、慈愛に充ちた表情の裡に伝わって来る。身内でもない英和が言うのも烏滸がましい話だが、親方同様、奥方も安らかな気持ちで往生したように思われる。

 人の悪口や愚痴などを一切零さなかったこの二人の性格に特に感銘を受けていた英和は未だに未熟な自分を恥じていた。生まれ育った環境や親子の血筋、その人生観に於いても生じるであろう差異。だが彼等と接しているとそんな個人差すら言い訳に過ぎないような寛大な厳しさを感じていたのも事実で、不遜ながらも一目を置かざるを得ない英和であった。

 だからこそその空間の中には、康明との関係性などといった話が取るに足りない戯言となって自然消滅してしまうのだった。

 しかしこの世に不変の定理などは存在しなく、時代背景や状況に依って変化する事象は、英和のような神経質で人脈の薄い者をして更に看過出来ない由々しき事態を孕んでいるように見えて来る。

 未だに手の震えを抑えられない康明は、

「もう済んだやろ、悪いけど帰ってくれへんか」

 と不愛想な言葉を言い表すのだった。

 独りになりたい気持ちを斟酌する英和は何も言い返さずに大人しく立ち去る。その足取りは実に重く、哀切の情感を漂わせていた。

 ただ黙って部屋に居坐る康明はもはや抜け殻になった様子で食べるものも食べず、飲むものも飲まずに、項垂れて横になっては家の中を行ったり来たりと夢遊病のように彷徨い続けていたのだった。

 家に帰った英和は母と共に今回の不幸を悲しんでいた。一人っ子であった康明の気持ちは同情するに余りある。少し年が離れていたとはいえ数年前に亡くした父御に今回の母御。精神的には元気であった母御も寄る年波には勝てず、病に屈服したのだろうか。

 二人の親御さんの志、心意気、心根は息子である康明は無論の事、自分達にも確実に継承されているし、しなければならない。彼等から授かったものは言葉に表す事は出来ないまでも数に表すのも憚られるほど多く思える。

 そして早くに父と死別した英和母子は尚更その心の痛みが理解出来る。ただまだ幼かった英和と比べ、物心がついた、それもいい年になった康明にとってその傷心は如何ばかりであったろうか。まして一人っ子である彼には。

 英和の母も今直ぐ弔問に行くと言って支度を整えようとしていたが、英和がそれを制した。今の康明は誰とも会いたくないに違いない。それは少々筋の通らない、歪んだ優しさかもしれなかったが、母が行く事に依って康明がどういう刺激を受けるとも解らない怖さが無意識の裡に働くのだった。

 

 秋の陽気が何処となく鼻に付く。素直に喜べない英和だった。これも今回の事で動揺し、傷心している英和の心情を物語っているのだろうか。

 鮮やかに色づく紅葉はその美しさの中に哀愁を漂わせ、可憐ながらも大人びた風采で街路に屹立している。

 まだ咲き始めたばかりの紅葉から一片の葉が強い風に掠われ、艶やかに舞いながら地面に落ちて行く。勿体なく感じた英和はその葉を手に取って暫く眺めていた。この葉はこれでその生涯を終えてしまうのか、また土に還り、転生して華々しく咲き誇るというのか。

 それにしても早い、早過ぎる。人間の気持ちなど所詮は自然に届かないものなのか。人間生命は言うに及ばず、自然現象に対する反抗心が不本意ながらも生じてしまう。そこにある感覚的な意思は性格をも覆す強靭な刃となってその身体に込み上げて来る。

 何故優しさだけを表さないのか、何故惑わすのか。それならばもっと厳しく、秋霜烈日な勢いで世を席巻してはくれないものだろうか。そうしてくれたなら人も迷う事なく一筋の道だけを歩めるのではなかろうか。

 でもそれこそが贅沢で不敬不遜な、自分の弱さを棚に上げての訴えである事は英和も十分承知していた。だからこそ尚更惑うのである。何も考えないような気質ならどれだけ楽に生きて行けるだろうか。それが決して出来ない確たる理由でもあるのか。

 思いがけなく飛び込んで来たリフォームの仕事の段取りを入念に整えていた彼の下に一本の電話が入って来た。康明からだった。今になってどんな話があるのだろうか。話始める彼はまた深い葛藤に陥るのだった。

「おう、この前ありがとうな、取り合えず死んでくれへんか? 頼むから死んでくれや、俺の前から消えてくれや、な」

 葛藤の主たる要素は憤りだった。どのような状況にあっても言って良い事と悪い事の区別もつかないのか。そう思う英和は久しぶりに怒りを露わにする。

「お前ええ加減せーよゴラ! 何や、死んでくれて? 意味分からんでな、本気で言うとんか?」

 康明は躊躇う事なく続ける。

「本気に決まっとうやんけ」

「誰がモンキーやねんて言うたらんかいや!」

 康明も言った英和本人も全く笑っていなかった。それは勿論ウケ狙いなどではなく、何時如何なる場合に於いても余裕を持たせたいという彼なりの拘りから来ていた。

 今度は英和の方から一方的に電話を切る。するとその後間を置かずに何度も掛け直して来る康明。それでも頑なに電話に出ようとしない英和。両者の児戯にも等しいこんな争いも今に始まった事ではなかった。

 仕事の段取りを終え、一日を終えた所で改めて着信回数を確かめると、実に数十回という康明からの着信に愕く。そこまでして俺に死んで欲しかったのか。否、そこまで彼の心は疲弊し切っているのか。それでも電話を掛け直す気にはなれない英和は酒を飲んだあと、そのまま眠りに就く。やり切れない想いを胸に秘めたまま。

 

 数ヶ月後、英和は元の大工職人として立派に独り立ちしていた。田中さん宅のリフォームを完成させた功に依って様々な仕事が舞い込み、念願の一人親方となって日々を忙しく過ごす英和。

 その勢いに乗じて冴木の親方に頼み、村上健司をアシステントとして遣うまでに至ったこの現状は英和の母にとっても大変喜ばしい限りで、その雰囲気には洋々たる明るさが漂っていた。

 もはや兄弟同然の仲を呈する英和と村上の二人は仕事以外でも付き合いを共にし、酒は無論の事、魚釣りやドライブ、ツーリング、果てはギャンブルにまで興じていたのだった。

 しかし良い事ばかりは続かない。康明は何をどう血迷ったのか、自分の持ち家である実家を飛び出し、行方知れずになっていたのだった。それを間接的に訊いていた英和は何度となく康明に連絡するが一向に出る気配はなかった。以前のやり返しでもしてるつもりなのか。それを踏まえた上でも納得は出来ない。

 この日英和と村上は国道を単車で走り、舞子浜で休憩していた。昔康明と何度も訪れた事のあるこの浜辺。ここにある風景は何も変わっていない。そんな光景を懐かしむ英和はベンチに腰掛けながら村上に語り掛ける。

「お前、知っとうか?」

 間髪容れずに答え始める村上。

「知りませんけど?」

 英和は微笑を湛えながら話を続けた。

「まだ何も言うてないでな、ま、おもろいからええけど、須磨ぐらいから西に掛けて潮が速くなるねん、釣りしとったらよう分かるわ、とにかく西へ西へと浮きや釣り糸が流されて行くから」

「そうなんですか、それやったら投げ釣りが良いかもしれませんね」

 煙草を煙を吐いてから答える英和。

「そうやな、ところでお前、煙草の煙で輪っか作れるか?」

 普段煙草を吸わない村上は英和の吸いかけの煙草を拝借して見事な輪っかを作り出すのだった。それを見届けた英和は思わず拍手をして褒める。

「流石やな、何でも出来るねんな、油断しとったら立場は逆転するかもな」

 村上は愛想笑いで誤魔化し、柄にもなく英和を真似するように遠くに海を眺める。

 その横顔は相変わらずの美男子の装いを崩す事なく、見惚れるほどの浪漫に充ちた眉目秀麗な優しさを象っていた。

 不甲斐なくも静観する英和はこう告げる。

「お前、何でそんなに男前やねんて? 何か悩んだりせーへのか? ま、親っさんがヤクザの親分やったらそんな心配すら要らんか」

 村上はそのまま海を眺め、目線を動かさずに答える。

「親なんか関係ありませんよ、それに自分はあんな親好きにはなれませんし、知ったかぶりするつもりはないまでも英和さんの悩みにはだいたい察しが付きますよ」

 それ以上話さなかった二人はその静寂の中に口にすべき言葉を選んでいた。でも言葉は出て来ない。

 そしてその心は、この海の潮汐は何を物語っているのだろうかという自問自答に自ずと転換して行く。外から見る限りは美しい海面。だがその中にあるであろう凄まじい潮の流れは夕暮れ時の景色と重なり合って混沌とした情景を齎して来る。いっそ海に潜ってその心の流れを確かめたい衝動に駆られる英和。

 少し早くに姿を現した半月は夕暮れ時には冴えて映らない。切ない表情で佇む英和に対し、村上はこう告げる。

「そのうち報われますよ、余り深く考えない方が良いと思いますよ」

 その一言を胸に徐に立ち上がる英和はこう返す。

「そやな、考えても無駄なんかもな」

 短い夕暮れ時は贅沢な黄昏れを与えてはくれなかった。黄昏れを好むのも早過ぎるのだろうか。保守的過ぎる性格の為せる業なのか。

 蛍の光を華麗に明滅させる明石大橋を臨む海の情景。それは美しくも儚い、プラトニックながらもシリアスな浪漫を投げ掛けていたのだった。

 

                                  完

 

 

                   

 

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汐の情景  三十話

 

 

 時刻は既に午後11時を過ぎていた。街外れにぽつんと佇むこの店の賑やかな灯りは、外から見れば都会のオアシスのような感じに映るかもしれない。

 英和がこれまで飲んでいた酒の量は余り好きではなかったビールを康明に付き合ってグラス2杯、あとは自分の好きな焼酎ばかりを5杯ほどと、そこそこのものであった。

 でも彼はそこまで酔ってはいなかった。言うなればほろ酔い程度のものか。それは酒に強かったのではなく、寧ろ弱い方だからこそ思う存分酩酊出来なかっただけのような気もする。彼は元々賑やかな酒の席が余り好きではなく、そういう場所に自分が不似合いな人物である事を自覚していた。それでいながら酒屋などを訪れていた理由は言わずもがな酒自体は好きであった事と、少し意味合いは違って来るが、パチンコ店や都会の喧騒と同じく、群衆の中の孤独感に酔いしれたいという彼らしい発想から来るものだった。

 それに引き換え、直子は結構いい感じに出来上がっていた。顔は仄かなピンク色に染まり、可憐ながらも少し潤んだ酔眼はいまいち焦点が定まらない様子で、席に着くなり英和に凭れ掛かって来るのだった。

 彼女の身体から艶めかしい、懐かしい感触が伝わって来る。照れながらも平静を装いつつ酒を飲む英和はこう語り掛ける。

「えらい久しぶりやな、会社の飲み会やったん?」

 そんな話はどうでも良いといった雰囲気で朧げに話す直子。

バツイチの会よ、酒でも飲まんとやってられへんやろ」

 直子が結婚していた事は人づてに聞いていたが、離婚の話は想定外だった。彼女が結婚したと訊いた時は正に万感の思いで、慶賀、安心、妬み、悲哀、様々な想いが胸に込み上げて来たものだ。

 だがまだ独り身である英和であっても別れるぐらいなら初めから結婚などしない方がまし、寧ろ離婚する為に結婚しているのかといった少々傲慢で慈悲心に欠ける持論も有していたのだった。

 それこそ現代社会を客観的に見る憂い心の表れなのかもしれない。でも直子のような大袈裟に言えば淑女とも言える、亦交際していた過去のある女性に対しては如何にお節介でナンセンスであろうとも等閑視は出来ない英和。

「何や、俺もせっかく安心しとったのに、勿体ないなぁ~......。」

 直子は全く表情を変えずに酒を飲んでいた。

「何言うとん、ほんまは喜んどんちゃうん? 私は晴れて独り身になったんやで、これからは......」

「これからは、何?」

 少し間を置いて答える直子。

「何でもないわ、もうこんな話どうでもええやん」

「そやな、こんなおもろい話ばっかりしとう場合ちゃうわな」

「何処がおもろいねん」

 ようやく落とし所を見つけた二人は話を切り替え、昔話などをして談笑し始める。気を利かせてくれた店主は酔い覚ましにと大根のおひたしを作ってくれた。

 食べている時の直子の表情はやはり憂愁感を含んでいた。その上でも明るい話や気の利いた事を言えない英和は自分を恥じていた。しかし無理をしてまで繕った言葉に何の意味があるだろうか、それこ虚しさしか残らないのではなかろうか。彼女もさっきの酒宴で大いに弾けていたに違いない。もう結構な時間だし、落ち着く頃合いだろう。

 そう判断した英和は水を一杯貰い、飲み始める。すると直子は険しい表情で言う。

「あんた、何水なんか飲んどん? もう帰んの? まだ早いやん、今日は久しぶりなんやしもっと飲もうよ、今日は朝まで飲み明かそう!」

 急にハイになった直子に愕く英和。その昂奮の仕方は明らかにぎこちなかった。恐らく本心ではない筈。ここにこそ英和の出方が試されていたのだろうか。躊躇しながらも水を飲み、煙草をふかす彼は直子の所作に康明の姿を重ね合わせて思うのだった。

 直子に鬱病の気配は感じられなくとも、二人は或る種の病的な躁状態に陥っているのではないか。それは酒の影響に依る単なる昂揚感に過ぎないかもしれない。そんな光景は何度となく見て来た。でも今の直子にはそれとは明らかに違った彼女らしからぬ雰囲気が漂っている。それが何であるかは分からずとも。

 病気の気配がしないのに病的に感じてしまう。この相矛盾する二つの事象には医学だけでは説明をつけ難い、非合理的ながらも人間生命に由来する原理的な性質が内在されているような気がする。

 それは道理を弁えずに駄々をこねる幼子のようなもので、意思と感情の関係性に他ならない。つまりはそのバランス感覚が崩れ去り、一時的にも理性を失ったそれらが突発的に独り歩きしてしまうといった衝動を伴った意識現象のように思える。

 要約すると意思と感情はそれぞれが違う性質とはいえ、元は同じものという原理的思考に依る法則性が成り立つ。

 直子は更に昂奮して言う。

「もうええ、次行こ! な!」 

「何処にや? まだ飲み足りひんのか?」

「皆まで言わせんなって! あんたも行きたいんやろ? 正直なとこだけがあんたの取柄やったやんか、ちゃうの? 今更カッコつけるなって」 

 人間が硬い英和はこういうノリが嫌いだった。確かに直子が言うようにこれから二人っきりで時を過ごしたいというのが本音ではあった。でもそれこそ自分の正直な意思がそれを拒む。今でも直子を愛するが故の純粋な意思だった。

「今日は帰るわ、また今度落ち着いて会おうや、な」 

 直子は溜め息をついてから答える。

「今度はないよ、あんたもほんまに相変わらずやな、そんな子供みたいな気持ちでは何時まで経っても結婚出来ひんし世の中渡って行かれへんで、康明君にも嫌われる筈や、真っすぐ過ぎて怖いぐらいやわ」

 直子はそう言って店を出て行った。英和は何も言い返せなかったし、言い返そうとも思わなかった。

 既に酔いが覚めていた彼は、何時ものように項垂れた様子で家路に就くのだった。

 

 夏の終わりというものは何とも言えない切なさを漂わせている。ここ数年、いやその人生に於いて毎年のように夏らしい事を殆どして来なかった英和にとってもその切なさは少々の悔恨を含み、彼の特技とも言える虚無的で無機質な優しい追憶を儚さの中に誘発させる。

 ならば高校生時代のように水泳でもして夏を謳歌すれば良いとも思えるのだが、長年ギャンブルに嵌っていたとはいえ若々しい事を何もして来なかった所以は怠惰や自己欺瞞の下に成り立つ、要らぬ客観性を含んだ、主体性のない恣意的な世界観の解釈に浸って来た事に尽きるだろう。

 ただ爽快に空を飛び回る鳥のように成りたい。優雅に水中を泳ぐ魚達。すくすく育つ樹々や草花。獲物を狙い生殺与奪に明け暮れる野生の動物。朝になれば昇り、夕方には沈む太陽に、夜に現れる月。果てはそれを実証する地球や星々の自転や交転。

 これらは意識的に動き続けているのだろうか。もしそうだとすればどのような意志が働いているのか、無意識だとすればそもそも何故動いているのか。それこそが神秘的な原理性なのか。

 他者の事は解らずとも、一々考えて行動してしまう人間という生命の性を悲観視する癖のあった英和のような者はやはり安楽に生きて行く事は出来ないだろう。

 そんな折、彼の下に喫茶店のマスターから連絡が入って来た。今直ぐ店に来てくれないかとの事だった。

 英和は慌てる事なく悠然とした様子で店に向かう。道中に煩く聞こえて来る蝉の鳴き声を全身で受け止めながら。

 店に着くと何時もの調子でマスターと常連客が朗らかに語らっていた。この前補修した壁とドアは自分でもなかなかのものと思える出来栄えに見える。

「こっちこっち!」

 と声を上げるマスターに誘われてカウンター席に赴く英和。マスターの真正面には一人の年配の男性が落ち着いた様子でコーヒーを飲んでいる姿が目に映る。 

「どうしたんですかマスター?」

 訊いた英和の顔をじっくりと見つめる年配の男性。そして彼はこう語り始めるのだった。

「君か、この壁造ったんは?」

「はぁ、そうですけど」

 少し訝りながらも謙虚に答える英和。するとその男性は軽く頷いて言葉を続ける。

「なかなかの男みたいやな、いや実はな、わしの家もリフォームして欲しいんや、どうや、頼まれてくれへんか? わしはマスターみたいなケチちゃうから、思う存分好きなようにやってくれたらええで」

 英和は含み笑いを堪える事が出来なかった。これでまた大工として活躍出来るのか、また人生を謳歌出来るのか。その嬉しさは言葉では表現出来ないほどの、感覚を超越した理屈抜きの恍惚感を齎す。

 心の何処かではそうなって欲しいと願っていただけにその喜びは一入だった。それを露骨に表現する事を恥ずかしがる英和は改めて毅然とした態度を装いながら礼を言う。

「有り難う御座います、是非やらせて下さい、お願いします」

 英和の心境を見透かしていたのか、男性も含み笑いをしながら答える。

「そうか、やってくれるか、じゃあ頼むわ」

 工事の詳細と連絡先を訊いた英和はその男性の隣に坐り、気を遣いながらもお茶を飲み、その場をやり過ごすのだった。

「英君、良かったな、田中さんは金持ちやし人脈も広いから、先行きは明るいで、頑張ってな」

「ほんまに有り難う御座います、全てはマスターのお陰ですわ、これで自分も生まれ変われますわ」

「ちょっと大袈裟な子やな、はっはっ」

 優しい笑顔を見せる田中さんだった。

 意気揚々と家に帰る英和はその事を早速母に告げる。母も当然喜んでくれて、豪勢な夕食を振る舞う約束までするのだった。それも大袈裟だと感じた英和であろうとも、親孝行が出来ると確信する気持ちは紛う事なき満足感であり、思わず涙腺が弛むのを感じる。でもその涙は懐深く蔵っておいた。これも敢えて精神的豊かさを、油断を嫌う彼ならではの思惑だった。

 だがこの現状にあっては憂慮する事など何一つないような気もする。仕事を熟す自信は勿論、この期に及んでまでギャンブルに逃げる筈もない。その他取るに足りない悩みなどは身体を動かしてさえいれば自ずと消え去って行くだろう。

 まだ時間は早かったが祝いを兼ねて部屋で酒を飲む英和だった。この前の苦い思いで飲んだ酒の味を払拭させてくれるような甘美な香りが全身を包んでくれる。この優越感はなにものにも代え難い。未だ沈まぬ日にまで軽く礼をして拝む。こんな気持ちになったのは何時以来だろうか。覚えている限りでは幼少の頃ぐらいだろうか。

 早々と二杯目の酒をグラスに注ごうとした時、電話の着信音が烈しく鳴り響く。康明からだった。

「おう、どうしたんや、実は今日ちょっとええ事があってな......」

 康明は全く耳を貸す事なく、英和の言葉を掻き消すように低いトーンで喋り始める。

「おかんが死んでもたわ......」

 英和は電話を床に落としてしまった。今康明は何を言ったんだ、鬱病の影響で悪い冗談でも言ってしまったのではないのか。いや流石にそれはありえないし、言う方も受け取る側も不謹慎過ぎる。

 それでも一応訊き直す英和。

「ほんまかいや!? 何でや? おばちゃん元気やったやんけ!」

「ほんまに決まっとうやろ!」

 そう言ってまた一方的に電話を切る康明。

「プー、プー、プー」

 電話から聴こえる音は淋しさと虚しさだけを物語っていた。

 

 

 

 

 

 

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汐の情景  二十九話

 

 

 約束していた次週の水曜日、英和は喫茶店のリフォーム工事に取り掛かる。マスターから頼まれていたのは壁の一部とドアの補修であったが、それだけでは余りにも味気なく、亦補修した所が却って目立ってしまいセンスに欠くという理由で、厨房を除く三方の壁面の腰壁までの高さを新しくやり直すという提案をしたのだった。

 僭越ながらも謙虚に構える英和に対し、規模が大きくならない事を条件に快く承諾してくれるマスターの心根は有難かった。

 予算を気にする英和は前に見た覚えのある杉の羽目板を拝借しに、今一度康明の母御が入院する病院を訪ねた。

 母御も快く承諾してくれたが、その際に一言だけ告げるのだった。

「英君、家にあるもんなんかなんぼでも使ってくれてええねんけど、あの子の事頼むわな、あの子だけが心配でなぁ~......。」

「分かっています、康明君とは親友なんで、何の心配もいりませんよ、本当に有り難う御座います」

 受け取り方次第では取って付けたような台詞であろうとも、紛う事ない本心を謳う英和だった。

 元の親方である康明の父親は塗装以外にも建築関係を中心に色んな仕事や趣味を多岐に渡って熟していた為、自宅の倉庫にはありとあらゆる道具や材料等が蔵われてあった。中には絵画の道具までが置いてあり、何度も観た事のあるその数々の風景画には、親方の優しく誠実な為人と、精妙巧緻な技術、才能、感性が際限なく表れている。

 目を移すとまだ描きかけの人物画が壁に立てかけられてあった。康明を描いたものだった。まだ幼い頃、恐らくは小学生時分の彼の絵か。まだ輪郭も定まらない、あどけない表情で微笑を浮かべる彼の顔は一切の穢れを知らない純粋無垢な、正に昔の康明そのものだった。

 この頃は皆同じであろうとも、写真ではなく絵として見た場合に感じられるその形容し難い幻想的にも抒情的な情景は、親方の素晴らしい写実性を以て更に引き立つ。

 残るは顔と背景の細かい色付けぐらいなものか。これを完成させる前に他界してしまった親方の心中は如何ばかりだったろうか。 

 つい昔を懐かしむ英和は一時的にもここ最近の康明との経緯を忘れ、彼がこの絵を完成させてくれる事を願わずにはいられなかった。

 そうして英和は大切に保管されていた羽目板と少々の材料、道具等を拝借し、知り合いの壁紙店でクロスを買い求め、現場である喫茶店に向かう。

 店では愛想の良いマスターがテーブルや椅子を隅に纏めて待ってくれていた。

「おはようございます」

 軽快に挨拶を交わした英和は颯爽と仕事に取り掛かる。久しぶりに大工作業をする彼の目は輝いていた。

 今日一日で済まさなければならない工程の中、彼は老朽化っした壁板を素早く取り去り、代わりの板を貼り、羽目板を横方向の乱貼りで貼り付けて行った。

 腰壁と既存の壁板の境に見切り材を取り付け、軽くオイルステインを塗る。元の壁はそのままでも良かったが、買って来た少し柄の入ったクロスを貼る事にした。

 ドアは建付けを直して、薄い木の壁材を貼り、椅子やテーブルの安定性も修復したのだった。

 余り広くない店であった為、仕事は数時間で早々と済んだ。マスターはその出来栄えに大喜びしてくれ上機嫌だった。

「ありがとう英君、見違えるなぁ~、まるで新装開店みたいやん、これで商売も繁盛するで、な!」

 英和は照れながら礼をする。

「有り難う御座います、自分でもいい感じで出来ました、マスターのお陰です」

 片付けを済ませた彼はマスターに入れて貰ったお茶を飲みながら暫く語らっていた。

「ところで英君、これからどうすんねん? 大工したらええねん、勿体ないで、一人親方で独立してやったらええやん」

「自分なんかに親方の器量はないですよ、金もありませんし」

 少し卑屈そうな様子で答える英和にマスターは語気を強めて言う。

「そんな弱気でどないすんねん、大工なんか元々親方みたいなもんで、みんな独立してやっとうやんけ、金なんか大していらんやろ、問題はヤル気ちゃうか?」

 英和は考えていた。確かにその通りだった。ろくに中には登記もせず口コミだけで凌いでいる者もいる。技術さえあれば何とかなる世界でもある。でも何故か気が進まない。それは自分がギャンブル依存症とかいう事以外の、自分でも未だに掴めていない内なる元凶。その元ともなっている蟠りを解かない事には身体が動かないのである。

 でもその元凶が何なのかは理解出来ているようで理解出来ていない、謂わば掴みどころのない雲のような形をして何時までも宙に舞い続け、果ては飛散してしまうという始末に負えないもののように思える。

 それこそ人生を歩んで行く上で習得し、亦削り取って行かねばならない彫刻家のような世界なのかもしれない。

 でもそれは或る意味では大工にも共通するのではなかろうか。ふとそう思った彼は少しだけでも前向きになれた感じがした。

「マスター、ほんまに有り難う御座います、マスターが言われるようにちょっと考えてみようと思いますわ」

 マスターは顔色を変え、明るく答えてくれた。

「おう、そうや、前向きに行かんとあかんでな、こっちこそありがとうな」

 お茶を飲み終えた英和に、マスターはその場で工事代金を手渡してくれるのだった。

 

 数日が経った頃、また康明から電話があり、英和は飲みに行く誘いを受ける。もはや訣別したつもりでいた彼にとってこの連絡は愕くに足るものだったが、母御の言とあの絵を観てからというものどうしても邪険にする気にはなれない。とはいえどう接して良いのかも解らない。

 こういう時にこそ彼の優柔不断で人の好過ぎる性格が災いするのか。気は進まないまでも結局は一緒に飲みに行く事にするのだった。

 英和にあった酒の飲み方というのは、常に腰を据えて飲みたいという些か主観に偏りがちながらも、他者の習慣を顧みない一般論にも似た概念を含んでいた。

 だが敢えてそれを強いる必要性があったのも事実で、酒の席に限らず、この前の喫茶店に銭湯、家を訪ねた時、遊びに行った時等、何時も僅か数十分で帰ってしまう康明の常軌を逸した行動を抑えたいという希望から生じたものだった。

 夏の夕暮れ時はその額にかいた汗を優しく浚ってくれ、他の季節のような憂愁感を齎さない。それだけでも幸いとも思えるのだが、黄昏れを求める英和としては少し物足りない感もあった。

 通い慣れた道にある歩道橋の下で待っていた康明はこの前の事など早くも忘れた様子で、軽い笑みを湛えながら立ち尽くしていた。

 その素っ頓狂な表情から神経が通っていないのかと訝る英和は、そんな短絡的な気持ちを抑えながら近づいて行き、こう念を押すのだった。

「おう、先に言うときたいんやけど、お前飲みに行ってまでソッコーで帰ったちすんなよ! それさえ守ってくれたらなんぼでも付き合ったるから、な!」

 康明はまた面倒くさそうに答える。

「あぁ、分かったから」

 そして二人は歩き始める。なるべく知り合いに会いたくなかった英和は路地ばかりを歩いて店に向かう。下町である地元に数ある酒屋の中から一軒を選ぶのも面倒くさかったが、やはり慣れた店が良いという事で二人はその店に入った。

「いらっしゃい!」 

 景気の好い声に誘われた二人は座敷席に坐る事にした。ここなら二人でじっくりと話が出来る。直ぐ帰る気にもなれないだろうと踏んだ英和だった。

 康明は好きなビールを頼み、英和も取り合えず初めの一杯だけはビールに付き合う。

「乾杯!」

 康明はそのビールをいきなり一気飲みしてしまった。愕く英和は一応拍手をして、

「お前、凄いな」

 とベンチャラを言うのだった。直ぐ様おかわりを頼んだ康明はその後も立て続けにビールを一気飲みし続け、何時の間にかその顔は赤く染まり出していた。

「おいおい、お前何しとんねん!? え! 大丈夫かいや!?」

 英和の言にも全く耳を貸そうとしない康明はついに疲れ果て、

「もうあかん、これ以上は無理や、悪いけど先帰るわ」

 と言って金をテーブルの上に置いて立ち去ってしまった。残された英和は何が起こったのか俄かには理解出来ない様子で呆気に取られていた。

 そんな状況を見ていた店主が駆け寄りこう告げる。

「おい英君よ、あの子大丈夫かいや? 言うたら悪いけどあの子多分病気やで、鬱病と思うわ、顔見て一発で分かったわ」

 確かにそんな気配はあった。だがあれだけ根明だった康明がそう簡単に鬱病に冒されるものだろうか。医学的な事などさっぱり解らない英和であっても、こう判断してしまう事も決しておかしくはないと思われる。

 喫茶店の時と全く同じ。これは夢なのか現実なのか。また後を追おうとした英和だったが、既に酒が入ったこの状況は幸か不幸かそんな短慮を封じてくれるのだった。

「親っさん、ま、心配せんとって下さい、あいつやったら直ぐにでも回復すると思いますわ」

 これはあくまでも自分に対する気休めだった。他者を通じ、声に出す事に依ってそれが恰も真実であるように自分に思わせたかったのである。

 動くのが面倒ながらも一人では悪いと判断し、自らカウンター席に移る英和。

「あ、悪いな、別に混んでもないからそのままでも良かってんけどな」

 と言って、店主もテーブルに置いてあった酒等をカウンターに運び込んでくれた。

 それから英和は店主や常連客達と語らい合いながら酒を飲んでいた。取るに足りない他愛もない世間話が殆どだったが、そこにも歴とした酒の席での温かい人情が通っていてそれなりに盛り上がる一同だった。

 2時間ぐらいが経った頃、ふと気付くと、座敷に居た女性同士のグループが席を立ち店を出ようとしていた。

 その中に何処かで訊き覚えのある声が混ざっていた。その方向に目を向ける英和。彼の目に映ったのは直子だった。恐らくは会社の付き合いか何かだったのだろう。彼女は相変わらずの朗らかな表情で皆と打ち解けるように佇んでいた。

 何故今まで気が付かなかったのだろう。さっきからその声は聞こえていた筈だ。それなのに何故。

 だが今更会った所でどう対応して良いかも解らない英和は、その顔を伏せるようにしながらも彼女達の動向を横目で窺っていた。

 料金を支払った一同は店先で少し語らった後、当たり前のように帰って行く。

 この時英和は気恥しさと悔恨と切なさが同時に襲い掛かって来る気配を感じたのだった。それは余りにも残酷な、可愛らしさを微塵も感じさせない羞恥と、取返しが付かないのではないかと思われるほどの悔恨に、何のドラマもない切なさであった。

 悲嘆するでもなく、慌てるでもない英和は呆然とした様子で酒を飲み続けた。酒だけがその気持ちを紛らわしてくれるのである。何故気が付かなかったというよりも、何故こんな時に直子の姿を見てしまったのだろう。これは偶然なのか、それとも因果因縁なのだろうか。

 神経質な彼は勝手ながらもこんな思惑を巡らすのだった。

 それからの英和は打って変わって誰とも話さず、いい加減な相槌を打つ程度でひとり酒に酔いしれていた。彼が独りの世界に埋没する際の決まり事は夢想であった。

 その夢想の裡に観る世界にはこれまた決まって誰かが登場するのである。その者は英和の肩をそっと叩き、優し声を掛けて来る。

「何しとん? また起きたまま夢でも観とん? 早くせんとあの樹に辿り着かれへんで、さ、早く行こうよ!」

 これは以前観た夢と全く同じだった。その時は結局その大きな樹に辿り着く事は出来なかった。どうせ今度もそうだろう。

 そんな風に相変わらず物事を悲観視する彼は、ここに来て感覚的、肉感的な刺激を味わうのだった。

 思わず振り向いた眼前に直子が立っているではないか。これは幻なのか、いやそうではない。今覚えた肩の感覚は確かに人為的なもので、夢などではない。直子はそのまま隣に坐ってまた可憐な笑みを浮かべる。

 我に返った英和の耳には常連客達の笑い声が聞こえて来る。そんな中、改めて対峙する二人はまだ幾ばくかの蟠りを残しながらも、決して卑屈になる事もなく、飲み直しと言わんばかりに明るい面持ちで酒を酌み交わすのであった。

 

 

 

 

 

 

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