人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

孤独の必要性と作り方 ~人付き合いとの関係性、その割合

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           冷風に  そよぐ桜の  美しさ(笑)

 

 三寒四温とは言いますが、四月になっても肌寒い日が続きますね。暑さ寒さなんかに負けて男が勤まるんかい、という古い考え方を持った自分も居ますが、年の所為か、寒さが堪えるようになりました。情けない限りです 😴
 という事で(どういう事やねんと)、今日は孤独という言葉についての持論を語ってみたいと思います。孤独を愛し、孤独を憎む。なかなか難しい話です。

 気楽に、でも少し真面目に行ってみましょう^^

 

そもそも孤独とは

 精神的なよりどころとなる人や、心の通じあう人などがなく、さびしいこと。 「自分がひとりである」と感じている心理状態を孤独感(loneliness)という。

 たとえば、物理的には大勢の人々に囲まれていても、自分の心情が周囲の人から理解されていない、と感じているならば、それは孤独である。当人が、周囲の人たちとは心が通じ合っていないということに気付いていれば孤独である。たとえ周囲の人々の側が、その人と交流があると勝手に思っていても、当人が、実際には自分が全然理解されていないと気付いていれば孤独である。

 とありますね。要するに独りぼっち、淋しいとかいう意味合いであると思います。

 ただこの文中にあるように孤独というのもは成るものではなく、感じるものだとも思えて来ます。つまりは、たとえ集団で居ても孤独は何時襲って来るか分からない、自分で予想も出来ない、言うなれば自然現象に近い存在、事象という定義付けが出来るような気がします。
 

輪の中で感じる孤独

 自分はこの『人の輪』というワードが大嫌いなのですが、そこにも一応の主観的な理由はあります。
 過去にも何度か綴ってみた事がありますが、まず輪とは何なのかという話で、それは真の『団結力』や『絆』などとは程遠い、単なる見せかけだけの極薄い部分での『協調性』や『迎合』に過ぎないと思います。

 現代人自体が本物を求めていない、欲していないという可能性もあります。ただ気楽にそれなりに生きて行ければそれで良いみたいな、全てがライトな感覚で捉えられる時代なのかもしれません。

 でもどのような時代にあってもやはり不変の原理性から成り立っているであろう、人間生命の髄という事に焦点を当てた場合、どうしてもこういった硬い話を素通り出来ない自分が居ます。無論これぐらいの事を考えている人は沢山居るとは思いますが。

 元来、日本は『和』の国だと言われています。読んで字の如く和むという意味合いですよね。上辺だけの、他者を、その場の空気感などという、はっきり言って自分にはクソ下らないと思われるものを必死に読んで、自分一人だけでもハブられないよう努める事に何の意味、価値があるのかと不思議で仕方ありません。
 そうして作られた『輪』などは『和』とは似て非なるものどころか、全くの別物で下位互換にも成り得ていないと言わねばなりません。

 然るにそういった輪を意識し過ぎるが故に、その中で感じ得た孤独に必要以上に恐怖し、そこから一刻も早く逃れたい一心で精神が掻き回され、乱れ、暗鬱、陰鬱な状態を強いられてしまうようになるのではないでしょうか。

 ここにも個人差、精神性の強弱は存在するとは思います。自分のような極めて人脈の薄い人間でさえ仕事場でも私生活でも、幾度となく孤独を感じ、それと戦って来た経験はあります。

 いい年をして恥ずかしい話ですが、時にはそれが為に茫然自失、自暴自棄に陥った事もあります。実際に完全に病んでしまい、自分の前から姿を消した数少ない中の友人も居ます。
 でもその友人は言っていました。

「お前何でそんなに強いねん? 連れおらんかったら淋しくないか? 怖くないんか? 俺やったら持たへんわ」 

 と。

 確かに交友関係が広い者ならそう思うかもしれませんね。何となく理解出来るような気がします。

 でもそれを何故そこまで苦にするのかと疑いたくなる自分の方が明らかに勝っていて、それぐらいでクヨクヨしていたその友人に対し、カマシを入れた事もありました。

 特にネットが普及し尽くした現代社会では上辺だけの他者との繋がりを重視している人が増えたように思われます。自分は未だにガラホなのですが、昔から電話や頻繁なメール、そして現在のsnsと。

 それらは形は変われど、近所付き合いや人付き合いと全く同じ意味を為していて、姿の見えない相手に対しての意見であっても、発信者である本人の意思という点ではやはり同一の意味を為していると思います。

 自分も複数人で居る時に感じる孤独感には恐怖を覚える事はあります。自分一人が浮いているのではないか、嫌われてしまったのか。などとその場から消えてしまいたくなる時もあります。

 でも少なくともそれが故に病む事まではまずありません。それは自分が強い訳ではなく、嫌われる事を苦にしていないからなのです。一見何をカッコつけているんだ。と思われるかもしれない言い方です。自分とて好き好んで他者に嫌われようとは思いません。でも、他者との軋轢なくして真の情感、情愛は生まれて来ないという尤もらしい言説には一理はあると痛感しています。
 つまりは争いとまでは行かないまでも、少々の諍いすら非とするならば、まずこの世の中自体が存在し得ないとも思われ、もし、百歩譲ってそれで成り立つ世の中であれば、生きる価値すら無いと断言したい自分も居るのです。

 何が言いたいのかと言えば、たまにぐらいは嫌われても良い。嫌われる事自体を甘んじて受け入れるという思考を持つ事も大切なのでは、それは決して自分を厳しく律するという意味での所作ではなく、寧ろ自分を甘やかすという意味合いで受け取り、嫌われてなんぼや、という諦めや投げやりな態度ではなく、『潔い自我の捨て方』だと考える所でもあります。

 

孤独の割合と必要性

 まずは自分の個人的な孤独の割合ですが、技術職に就いている影響か、職場でも一人でいる時間は結構長く、独りが好きな自分としては好都合なぐらいです。

 でも勿論皆と一緒に力を合わせて仕事をしないといけない事もあり、そういう時は実に面倒臭く煩わしく感じます。

 しかし、いざ皆で協力して仕事をしていると、自ずと目には見得ない仲間意識のような感覚が湧き上がり、その中にあるであろう美学のようなものにも気付く瞬間があります。それはそれで良い事であるに相違ありません。言までもない事です。

 しなしながら、やはりどちらかというと独りでいる方が気は楽ですし、それが自分の先天的な性分だとも思います。

 ま、自分の事などうでも良いのですが、良くスポーツで言われる『個の力』、この個の対義語を団体や全体とするならば、その関係性や割合といった話は、本来取るに足りない稀薄な議論に過ぎない感じもして来ます。 

 それはどういう事か。要するに全体主義に支配されているであろう現代日本社会の悲哀。その憂わざるを得ない社会構造も然る事ながら、『個』と『全体』とは元を同じくする、謂わば同じ芽から出た樹々の葉っぱ、或は草花であると仮定出来る事象であり、亦、仏教で言う所の『自他不二』の教義にもあるように、分けて考察する事にこそ、それこそ脆弱で歪んだ雑念、邪念が内在されてあり、素直にその大元である『根』、そして天の陽射しや水といった自然に感謝し、それを受け入れさえすれば自ずとそれら衆生は自然の裡に融合し得る、正に自然の中にあって何の差異もない一つの事象同士が育む営みとなって来る訳なのです。

 要約すると個人差はあれども、孤独の割合などを考察し、論じ、気にし、臆する事などは皆無といっても過言ではないと思われるのです。

 それを踏まえた上でも孤独が好きな自分は、相変わらず全くウケていないであろう小説執筆に邁進している訳なのですが、小説を書く時の孤独の必要性は高いと思われます。気が散った状態では一文字も書けません。

 という事でその孤独の作り方に進んでみましょう^^

 

孤独の作り方

 引っ越してからのウォーキングは運不足解消にも孤独を作るのにも、大いに役立っていますね。何故もっと早くにしなかったのか、情けない次第であります 😴

 それともう一つ発見した事がありました。それは自分が愛してやまない銭湯で、サウナです。

 昔から知っていて、何度か訪れた経験があったその銭湯。そこは言っては悪いかもしれませんが、少し暇そうな銭湯で、客は少ないです。何時行っても悠々と風呂に浸かる事が出来ます。

 そこでサウナの話です。そのサウナも勿論空いていて、だいたい一人で入れる時が多いのです。しかも狭く小さく、言うなればホームサウナの少し大き目といった所でしょうか。詰めれば三人は入れますが、普通に入れば二人までですね。

 そのサウナにはテレビも置いていません。完全性はないまでも、ほぼ完全といても良いぐらいの孤独に浸れる訳です。

 音も殆ど聴こえて来ないその空間にあるものとは淋しさを介さない孤独なのです。そして温度も低めなので、岩盤浴みたいな感じで長く入っていられます。10分経ったぐらいから、じわ~っと出て来る汗が快感を呼びます。

 家で独りで寝ている時よりも孤独、自分だけの時間を手にた気持ちになります。その中で考える事といえば、やはり小説の事や、実生活の事、そして自惚れを含めた世相への意見など。結構様々な事が脳裏を過る訳ですが、何を考えても決して卑屈にならず、寧ろ心地よい精神性を保った状態で時を過ごす事が出来るのです。

 団体、集団行動が好きな方は、これを独り上手などと言って揶揄するかもしれません。それでも自分は一向に構わないのですが、この孤独感は本当に心身共に良い効果があるように思えて仕方ありません。

 自分のような準脈の薄い人間でも他者と交わる、いや交わらないといけない事は多々あり、それが人間社会の常っであり、性(さが)であるとも思える訳ですが、やはり、どう考えても一定数の孤独を味わう時間は精神的な意味だけではなく、医学的にも物理的にも必要性を表していて、それなくして人間という生命は生きて行けないような気もします。

 皆さんも時にはこの『孤独』というものと真剣に向き合ってはどうでしょうか。決して悪いものでも無いような気がします。

 

 という事で以上、アホ丸出しな自分の孤独についての持論、論評でした。主観だけでなく、客観性を以て語って来たつもりですが、結局は自分語りをして来ただけのような気もしないではありません。主観と客観の関係性も所詮は自意識から生じた自我に執着する思いに過ぎないのでしょうか。自分としてはその限りでもないと信じたい所なのですが、その辺の哲学的な話はもっと勉強する必要がありそうですね。

 このままでは万年ワナビーで終わってしまいそうなサッカツ。いやそんな弱気ではダメですね。確実に進歩、成長している筈だと思って精進して行かねばなりません(笑)

 では皆様ごきげんよう。また会える日まで 😉