人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  十三話

 

 

 海中に見る美しい光景。小魚の群れが一団となって素早く華麗に舞い上がる姿は見るものを圧倒する。

 まるで鍛え上げられた騎馬隊のような、或いは入念な稽古を熟した踊り子のような。この魚群というものはそんな練習でもした上でここまでの舞台を演じているのだろうか、それとも意図せずに自然に身に付いた業なのだろうか。

 鮮やかなに彩られた一団の姿は精妙巧緻にして優雅、勇ましくも繊細な優美な曲線を描きながら海の中を縦横無尽に踊り続ける。

 天衣無縫とはこの事か。生まれたての天使がその澄み切った心根で表す有形無形の動作は正に天為とも言うべく神々しいまでの光を放ち、些かの邪念すら寄せ付けないであろう華奢ながらもしなやかで絹のような柔軟なオーラには崇高な力を感じる。

 社会人になって自分がどう変わったのかは分からないし興味もない英和だった。何故ならいくら年を取ろうとも何があろうとも変わらないといった純粋無垢な青春の志を超える、生涯を通しての一貫性というものに惹かれていたからだった。

 言うは易し行うは難しでそう簡単に出来る事でもないような気もするが、果たしてそうだろうか。無論長い人生に於いて様々な経験を積んで行く上では変化という事自体を否定する訳ではないまでも、核の部分というものは変えたくても変えられない強固な意志に依って作られていると思える。

 そういう観点ではどちらかというと康明よりは義久を好いていた英和だったが、その心に依存性が芽生えていた事までは承知していなかった可能性はある。

 何時も通り仕事を終えた英和は帰り道で偶然義久に会うのだった。はっきり言ってこの三人の中で一番知性に乏しかったと思える彼が大学に進学出来たのはそれこそ偶然とも思える訳だが、まず進学した動機が理解出来ない。余計なお世話であっても敢えてそこを突く事が出来るのも旧知の仲であるが故の特権みたいなものだろう。

 義久は相変わらずの能面のような無表情で接して来る。その中にある真の表情を未だ見た事が無かった英和は取り合えず世間話などをして場を和ませようとする。

「おう義、最近どないや? この前あの店でダボみたいに連チャンしとったおっさんがおったでな、あれ桜ちゃうんか?」

 ギャンブルの話ともなれば直ぐに喰いつく短絡的な義久だった。

「あれな、俺も訊いたけど多分桜やろな、でも羨ましいでな、実はあの台何回も打った事あるねんけどな、あんな古い台が今頃出るとは誰も思わんやろ、桜じゃなかったらおかしいわ」

 おぼこい笑みを浮かべながら話す義久の何かぎこちない、いや全く似合わないスーツ姿は滑稽にも見えるが、或る意味では反転性を味方にしたとも思えるその形姿には天衣無縫とまでは言わないまでも、幼子が着るスモックのような微笑ましい美しさが理屈抜きに窺える。

 この時点で笑いを堪える事が出来そうもない英和は正直に笑って見せる。すると笑われているにも関わらず自分も釣られるようにして笑い出す義久だった。

「この恰好は俺も嫌やねん、でもスーツで出勤する決まりになっとうし、作業服なんかに着替える手間もない今の仕事も結構ええけどな」

 神経質な英和はこの作業服なんかという言い方に動揺しつつも話を続ける。

「ところでお前、前借りする癖は治ったんか? 新聞配達しとった頃色んな噂訊いたで、それはそれでおもろかったけどな」

 ここで初めて義久が少し怪訝そうな表情をするのだった。触れられたくない過去であったのか、それとも未だにそうしているのか。

 英和の予想では後者を選ばざるを得なかった。それを証明するのが今の義久の表情に相違ない。干渉するつもりは無くとも明らかな悪習を取り除こうとする英和の想いもまた親友に対する思いやりであって、人様の事を言えた義理でもない彼ではあっても互いが切磋琢磨する事に依って将来の展望を明るくしたいといった正直な願いは通じる筈だと思い込んでいた。

 しかしその想いに反する義久の言は一瞬にして場を凍り付かせる。

「お前な、俺の親でもなかったら兄弟でも親戚でも何でもないやろ? 何でそんな上から目線でしかもの言われへんねんて」

 英和としても嫌な予感はしていた。だが軽率に放った訳でもない己が想いを頭ごなしに否定しようとする義久こそが上から目線ではないのか。自分はただ親友としての意見を述べたに過ぎない。それなのに何故ここまで嫌がるのだろうか。

 でも打っても何一つ響かなかった今までの義久の変化したであろう為人は僅かながらも英和を安堵させる要素を孕んでいた。それは対峙する二人にしか分からない事象であろうとも核心除いた部分での成長であり、核の部分を十分に感じられたからこそに齎される安心感でもある。

 英和の純粋な心根に感化されたのか義久も正直に答えるのだった。

「じゃあはっきり言うわ、俺は今の会社に入社して以来、一回もまともに給料貰った事ないで、毎月前借りしとうわ、お陰で何時馘になってもおかしくない状況やわ」

 流石の英和もここまでの答えを欲してはいなかった。でも訊いてしまった事は確実に彼の心に刻まれ、笑いの中にも暗鬱な一滴の汚濁がその穢れた色を以て自分の潔癖な内心に忽ちにして醜い破門を拡げようとする。

 一旦落とされた色はどんなに抗っても元の色には戻らない。余りにも不器用、余りにも馬鹿正直で稚拙で遊びが利かない彼の精神構造はもっと汚れる揉まれる必要性があるのかもしれない。

 それを考慮した上でもそうはしたくないと頑なになる英和。康明といいこの義久といいたった二人の友人との間柄にも真実を見出したいと願う心は逆に副作用ばかりを発揮してしまう。

 両者の中にある目には見えない蟠り。それを模倣するように俄かに曇り出した天を見上げながら帰途に就く英和であった。

 

 家に着いた英和は久しぶりに母と談笑していた。母が殊の外上機嫌だったのは何かがあったに違いない。無関心な英和はたとえ母であろうともその詳細を訊こうとはしなかったが、母の方から教えてくれるのだった。

「今日天野さんとお茶飲んどったんやけど、娘さんが結婚するらしいで、あんたも知っとうやろ? 昔近所におった天野さん」

 英和は懸命に記憶を辿ろうとする。確かにそんな人が居た事は覚えている。しかしまだ幼かった頃の思い出は言わば神話の時代ともいうべく淡い記憶で、そこに登場する者達の姿形はその輪郭だけに留まってしまう。

 その娘さんは保育所は同じだったが小学校からは別の道を歩み、その辺で会ったどころか噂話すら訊いた事はなかった。

 ここでもう一人の女性の姿が追憶を邪魔する。直子が何故こんな所に割って入って来るのだろうか。二人の情愛が齎した因果なのだろうか。でも彼女は何か不機嫌な顔をしている。その真意はまるで理解出来ない。そして姿を見せたと思えばまた直ぐに消え去ってしまう。

 英和は心の中で叫んだ。

「直子! 何処に行くんだー!?」

 彼女は後ろを振り返る事なく声もかけないままに消えてしまった。幻に違いないこんな情景にも気が気でならない彼はもはや追憶に浸る事さえ叶わなかった。

 そんな息子の異様な変化を鋭く見抜いた母はこう言う。

「どないしたん? 何か変やで、無理に思い出す事ないで」

 その言は優しい注意に聞こえた。優しさの中に見え隠れする厳しさ。それを既に母から授かっていた英和はその親心にも勝る人の情けという無形の心根を改めて知ったような感覚を味わう。

 意志的な性格に感覚的な意識。それを言葉に表す事が出来ない自分がやるせなかった。もっと饒舌で豊かな表現力があれば、もっと器用に生きて行く事が出来たら。男は度胸、女は愛嬌などという古い文言に捉われるつもりなどさらさら無かった彼であろうとも、どちらかと言えば男は無口で女は喋るのが好きといった外見上の雰囲気は今でも明確に感じられ、それに対する語彙力や話術というものを手にしたい。

 ここで念を押しておきたい事は一言に話術と言ってもそれはあくまでも本音を巧く表現したいだけであって、見せかけだけのコミニュケーション力などは似て非なるものであると断言出来る。

 しかしただ訴えるだけでも互いの心情に軋轢を生じさせる結果になる事は明白で、如何にして温和に静謐に打ち解けて行くかが重要とも思える。だが上辺だけの馴れ合いを徹底して嫌う彼のような非力な者が事を成就するにはかなりな経験を積まなければ返って災いを引き起こす可能性もあるだろう。

 正直な感情表現をする者が不器用とするならば巧く誤魔化せる者が器用なのか。そんな筈はない、それなら思想の自由という権利までもが剥奪されてしまうし、個性自体の必要性が無くなってしまうではないか。

 またまた葛藤と戯れていた英和は徐に顔を上げ母に問うのだった。

「ま、うる覚えではあるけど今思い出したわ、そやけど何でそんな事言って来たん? 俺にどうして欲しかったん?」

 母は小さい溜め息をついてから答えた。

「あんたはほんまに気の小さい男やな~、そんな事では何時になっても結婚なんか出来ひんで、ええ加減大人になったら?」

 その言葉は図星を突いていたとはいえ、浅はかで短慮な響きがあった。でもそれ以上の口答えをしたいと思う英和でもなかった。

 自然の力というものを人間如きが手にする事は不可能なのだろうか。そこにすら己惚れがあるのだろうか。

 物思いに耽る事を嫌わない英和はあるがままの純粋な心根で、世の中を見渡すような細めた眼差しでカッコを付けるようにして窓外の風景を遠くに眺めるのだった。

 

 

 

 

 

 

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