人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

短編日記小説 #1 無風景


 烈しい工事の機械音。車両の走行音。行人がスマホから上げられる会話や音楽。隣人が立てる、生活音を超える騒音。それら様々な、醜いだけの雑音、騒音が常態化した街、という空間に美を見出すのは至難の業であると思える。強いて挙げるならば、人に対しては癒しの効果しか齎さないであろう、可愛い雀の鳴き声ぐらいか。それは大仰に言えば、妖精の囁きにすら感じられなくもない。
 冴えない面と陰に籠る内心を隠しながらする職場での挨拶は、無為な細風となって虚しく自然的に飛散したが、コンクリートの床に刻む尖った靴音と、比較的長身な体躯だけは、辛うじてその者の存在を顕示し得る。
 人という生物が人ではない機械、或いはロボットとして動く工場にあって、唯一の心の拠り所は休憩時間に限られるのか。hは日々、この短い休憩時間を一秒洩らさず、最大限有意義に使おうと心掛けていた。
 大手の工場内に点在する数々の休憩場所。皆が一堂に会する場所を嫌うhが、急がず慌てず速やかに赴く、小さめで怪し気な雰囲気が漂う、電灯すら差し込まない裏路地のような休憩場所に腰を下ろしたと同時に、そのが身体は、金縛りにでも遭ったように微動だにしなくなったのは、彼が頑なな拘りの発露か。まるで地蔵のように、唯に大人しく坐っているだけのその姿から感じられる生気は、水溜まりの中にて、何れは沈みゆくアメンボウ程にの過少なものであった。
 部屋の大きさに譬えると凡そ四畳半ぐらいの、この狭い空間にて、孤島の如く孤立したhが感覚は、静かな寺に座禅している時の研鑽に与る。僅かな空気の乱れすら見逃さない程に。
 自動で動き続ける機械音に阻まれる事なく侵入を果たす靴音と、その有形無形からなる人の気配が、hの感覚意識を優しく刺激したのは、休憩が始まってからちょうど一分後の事であった。
 徐に眼を開けるhも、その精神は未だ無に傾倒し、言葉は胸底深くに沈殿したまま出て来ようとはしない。
 対する村岡というhの同僚も、にこやかに微笑む程度で、遅々として会話を試みようとはしなかった。
 ───。二人が吸う煙草の煙だけが虚しく舞い上がる。時が止まったかのような静寂が、却って恐ろしくも感じられる。
 其処に揺蕩う両者が心事は、シンプルにも複雑な、複雑にもシンプルな色合いを為しながらも、ぷかぷかと呑気に独りでに泛かびあがらんとする、心の泡沫が、精神の器を冒して外界に這い出るのは時間の問題であった。
「ふっ...」
 微笑を零し、互いに眼を合わした二人は、照れ隠しでもするような態で再度煙草に火をつけ、溜息を乗せた煙を吐き上げた後に、満を持して、漸く口を開くのだった。
「あ。これは村岡さん。おはよう御座います。お早い事で。もう出勤ですか? 流石ですね。ええ天気でなによりですわ」
「うん。hさんこそ御壮健でなによりやわ。で、昨日の競馬はどうやったん? 儲かった?」
「まぁ~トントンですね。プラス2千万ぐらいですか。トータルではまだまだぼろ負けですけどね」
「ええやん。そんだけあったら何時でも仕事辞められるやん。羨ましいわ。今度奢ってよ」
「はい、何時でも。ちょうど今から辞表出しに行こうと思っとったんですよ。ついでに爆破予告と遺書もね」
「なるほど。hさんらしい考えやな...」 
 下らない会話であっても、休憩時間を潰した事には違いなかった。真に休息が摂られたのは始めの一分ぐらいな気もするhではあろうとも。
 
 残る昼と午後三時の休憩に村岡が姿は無かった。皆が集う休憩所にも、更衣室にも。何か含む所でもあるのだろうか。彼も彼なりに、自分独りだけの時間を大事にしているだけか。
 決して爽快とは言えない汗を掻き、大勢の社員達を縫うようにして帰途に就くhは、季節感のなくなった、この初夏たる六月の蒼穹に、雪さえ降る真冬の情景を見るのだった。皙に透徹された、淋しく麗しい、水彩画のような情景を。己が殺風景な心の景色に重ね合わせながら。