人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

小説

汐の情景  六話

翌日も晴天だった。まだ少し眠気が残る英和ではあったが早朝の肌寒さはその身体に程好い刺激を与え、吸い込む空気は何時になく新鮮に感じる。 日も昇らない静寂に包まれた街並みに人影などは無いに等しく、車さえも殆ど走っていない状況は英和が乗る自転車を…

汐の情景  五話

景色が人の心に齎す影響力を数字に表す事は不可能と思える。無論そんな必要性などないとも思えるが、自然の情景は言うに及ばず、たとえ人為的なものであっても見惚れてしまうほどの深い感動を覚えてしまう事が人間の性ではなかろうか。 幸か不幸か結局雨まで…

汐の情景  四話

天為とも呼べる気象が時として思いも依らぬあからさまな意思表示をする事は往々にしてあるだろう。正に小春日和であったここ数日の穏やかな気候が俄かに曇り始めたのは何かの兆しを示唆するものなのだろうか。 とはいえ雨や嵐でもないこの現状は憂慮するにも…

汐の情景  三話

地元の者ばかりで形成されている公立中学と違い、色んな地域の者が通う高校には柵がないという点では幾分気楽な印象を受ける。 それまではどちらかと言えば自分に固執し過ぎていたような英和も羽を伸ばすといっては大袈裟だが、比較的自由奔放に高校生活を送…

汐の情景  二話

一緒に銭湯に行こうと提案して来た義久という友人は英和に輪をかけて口数の少ない人物であったが、一言に大人しいといっても少々短気な英和と比べて遙かに鷹揚なその為人は康明同様に或る意味では真逆なタイプのようにも思える。 それを証拠に恐らくは喧嘩な…

汐(しお)の情景  一話

一章 秋の夕暮れ時に吹き付ける少し冷たい海風は頬に心地よい刺激を与えてくれる。遙か彼方に佇む真っ直ぐな水平線と、薄っすらと覗く美しい稜線は幻想的に映る。 細めた目で遠くを眺めながら黄昏れていると自ずと切ない気持ちになり、向こう岸に見える淡路…

哂う疵跡  十二話

正式に社長の座に就いた一弘ではあったがその表情に明るさは感じられなかった。彼の心に翳を落とすものの正体がグループの逼迫した経営状況である事は言うまでもないのだが、それと同等の重さを持っていたものは他ならぬ幸正の存在であろう。 幸正が一弘に与…

哂う疵跡  十一話

会長は悔やんでいた。一弘に止められたとはいえ何故幸正などを易々と入れてしまったのか。いや、奴が現れてしまったというその因果自体を。 その後幸正は強引に追い出されはしたものの、一弘の胸の内には彼が口にした事がはっきりと刻み込まれてある。兄と違…

哂う疵跡  十話

神なびの みむろの山を秋ゆけば 錦たちきる心地こそすれ。一将の進んだ道は決して神聖なものとは言えないが、烏滸がましくもこの歌のような心持にさせてくれる秋という気節自体が神聖で尊ばしいものである。 その天為に応えるべく日々精進して行く人々の有り…

哂う疵跡  九話

また一つ橋を渡り終えた二人は互いの身体に内在する力を分け与えるよう、そして倍増させて行くような逞しい男女に成長して行く。 一将の凛々しくも愛らしく、豪胆にも堅実な為人は優子を安心させ、優子の聡明でお淑やかながらも威風堂々と事にあたる荘厳な佇…

哂う疵跡  八話

森羅万象。樹木が限りなく茂り並ぶ森羅、万物のあらゆる現象である万象。是れ全ては宇宙に存在する一切の現象であってものでもある。然るに有形無形に象られる人の心の赴きには常が無いと解釈する事も出来るのであるとすれば、今回一将が執った所業も決して…

哂う疵跡  七話

多少なりとも優しく感じ始めた陽射しに大人しく聴こえる蝉の鳴き声。風に揺らめきながら色を変えて行く樹々や草花の涼やかな様子は人の心を和らげ、快活に登校する子供達の姿は元気を与えてくれる。 まだまだ残暑が厳しいこの時期ではあるが夏の到来を喜ぶ童…

哂う疵跡  六話

宇佐美組長の功と、両親に報いたいという一将の志も虚しくグループの経営状態は悪化の一途を辿っていた。 無論その理由は低迷し続ける景気に依る所が大きかったのだが、もっと言えば時代の流れそのものにあると言っても過言ではないような気もする。千変万化…

哂う疵跡  五話

一将の下に吉報が齎された。約束通り宇佐美は話を付けてくれたのである。流石は天下の宇佐美組長、信じてはいたもののその喜びは計り知れない。昨日の優子との逢瀬といいこの事といい一将には力強い追い風が吹いているようにも感じられる。でもその割にはい…

哂う疵跡  四話

一将には交際している女性も居た。高校時代からの仲であった優子は聡明にして重厚、華麗にして妖艶といった淑女の気品に聖母マリア、或いは観音菩薩のような美しさと包容力を兼ね備えた才色兼備な女性であった。 彼女は大学を卒業してから医療の道に進んでい…

哂う疵跡  三話

幸正が運転する車を飛ばすこと約30分。街はずれの少し人通りの少ない路地裏に山誠会系神田組の事務所はあった。 先々代の頃から山誠会に懇意にして貰っていていた西グループはこの神田組とも旧知の仲であったのだが、年々強まって行く暴対法の影響に依ってそ…

哂う疵跡  二話

一将には弟が一人居た。まだ大学生である一弘もまた兄同様に西グループの業務に従事しており、兄弟揃ってがっちり二人三脚、西グループを背負って立つ者としてその将来を嘱望されていたのだった。 一弘と部下の幸正は特に仲が良かった。皆同世代とはいえ年齢…

哂う疵跡  一話

2005年(平成17年)の夏は暑かった。例年のように厳しい暑さを訴える夏という気節は有難い反面鬱陶しいようにも思えないでもない。 勇ましくも煩い蝉の鳴き声、燦然と照り輝く強烈な陽射し、青々しい樹々に草花、汗を拭いながら道行く人々に意気揚々と走り回…

甦るパノラマ  最終話

物言えば唇寒し秋の風。せっかく面会に訪れたというのにいざ英昭を前にするとなかなか言葉が出て来ないさゆり。彼の姿に大した変化は見受けられなかったものの、何かが邪魔をしているような気がする。それは英昭とて同じで言いたい事、訊きたい事は山ほどあ…

甦るパノラマ  三十二話

英昭の母の容態は連日のように如才無い献身的な看病をしてくれていたさゆりと、その胸襟を開いた会話に依って思いの外早く回復して行くように見える。 医師から軽い脳貧血と言い渡された彼女はしっかりとした養生をするよう指示を受け、薬を貰って退院する。…

甦るパノラマ  三十一話

病室に入ったさゆりが目にした光景は御労しくも嘆かわしい、同情を禁じ得ない実に不憫な英昭の母の姿だった。 既に眠っているであろう彼女の手をそっと握り瞑想するさゆり。すると彼女は徐に目を開けてか細い声で語り掛けて来る。 「さゆりちゃん、来てくれ…

甦るパノラマ  三十話

罪を認めた英昭は取り合えず警察の留置所で一夜を明かす事になった。主犯である義正も既に取り調べを受け留置されているとの事だった。 初めて味わう罪人としての処遇。それは今までの彼には想像もつかない話であった事は言うに及ばず、いくら夏とはいえこの…

甦るパノラマ  二十九話

それからの二人は以前のような仲の良い恋人として恙ない日々を送っていた。毎日のように連絡を取り合う間柄は初恋を思わせるような初々しさで互いの心を刺激しながらも和やかな雰囲気を自らに与えてくれる。 張りのある生活とはこのような事を指すのだろうか…

甦るパノラマ  二十八話

酒に十の徳ありと言うが今の二人には幾つの効果が齎されたであろう。気分的には愉快である事は言うまでもないのだが、別に悩みが一掃された訳でもない。無論そこまで高望みする訳でもないのだが、愉快に微笑みながら談笑する表情の中にも何処か翳を感じてし…

甦るパノラマ  二十七話

まだ二十歳過ぎである英昭にとって600万円という金額は大金だった。初めて手にする金。札の幅は同じだが厚さは約60mm(6cm)、とてもじゃないが財布には入らない。勿論入れる気も無い。ならば何処に保管するのか。金融機関に預けるのはヤバい。となれば自ず…

甦るパノラマ  二十六話

現場に着いた二人は手筈通りに防犯カメラにスプレーを吹き付け辺りを警戒しながらも素早く行動する。英昭はシケ張り、義正はATMが置かれているハウスぎりぎりに付けていたトラックの上から直接重機を操縦する。 華奢なハウスは一瞬にして潰れ去りATM機が姿を…

甦るパノラマ  二十五話

案ずるより産むが易し。どうせ一回きりの人生ならたとえそれが悪い事であっても、大して人に迷惑を掛ける訳でも無かったら人を殺める訳でも無い、所詮はあくどく儲けているサラ金業者の金ではないか。ならばいっそそれを奪う事に依って正義の証とする事も出…

甦るパノラマ  二十四話

何とも薄汚れた、見窄らしい恰好をしている義正には清潔感や若さが全く感じられなかった。皺だらけのシャツに洗ってもいないような擦り切れた薄っぺらいズボンに黒ずんだ白い靴。髪もボサボサで風呂に入っている様子もない。虚ろな目つきに光は無く死んでい…

甦るパノラマ  二十三話

都会の喧騒とはいうが、敢えてそこに身を窶す、ギャンブルに嵌っているこの現状に憂き身を窶す事に依って何がしかの突破口を見出そうとする思慮も決して間違ってはいない気もする。堕ちる所まで堕ちないと底が見えない、と言えば浅はかな感じもするのだが、…

甦るパノラマ  二十二話

英昭が社会人になってから早や3年という歳月が経った。22歳になった今その生活は更に荒み、劣化の一途を辿っているように見える。もはや彼はまともな人生を歩む気すら無くしてしまったのだろうか。勤務態度も悪化し無断欠勤する日も多い。始めの内は母に対し…