人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

小説

汐の情景  最終話

康明からの連絡は彼の母御が亡くなってから数日が経った、通夜も葬儀も終えた後だった。何故もっと早く知らせてくれなかったのかと訝る英和。たとえそれがここ最近の経緯に依るものであろうとも納得しかねる。 でもそんな事を言っている場合でもないこの状況…

汐の情景  三十話

時刻は既に午後11時を過ぎていた。街外れにぽつんと佇むこの店の賑やかな灯りは、外から見れば都会のオアシスのような感じに映るかもしれない。 英和がこれまで飲んでいた酒の量は余り好きではなかったビールを康明に付き合ってグラス2杯、あとは自分の好き…

汐の情景  二十九話

約束していた次週の水曜日、英和は喫茶店のリフォーム工事に取り掛かる。マスターから頼まれていたのは壁の一部とドアの補修であったが、それだけでは余りにも味気なく、亦補修した所が却って目立ってしまいセンスに欠くという理由で、厨房を除く三方の壁面…

汐の情景  二十八話

貧しいようで豊か。裕福なようで貧困。世の無常の中にも特に日本という国はそういう漠然性を帯びているような気がする。 それは好不況だけといった経済的な概念で表される単純なものだけでなく、人が皮膚感覚で覚える世界観のようなもので、個人差はあれど戦…

汐の情景  二十七話 

仕事を辞めてからというもの、英和は毎日を暇潰しのような感覚で過ごしていた。それはともすると人生自体が暇潰しに過ぎないといった余りにも虚しい、惰性的で悲観的な考え方をも生じさせる。 それもその筈。仕事もせずギャンブルに明け暮れ、何の目的意識も…

汐の情景  二十六話

陰と陽。速さ遅さ。強さ弱さ、脆さ。これら世に現存する様々な対照は相反性だけを表すものではなく、それ自体が二極一対、表裏一体で、どちらか片方だけでは成り立たない、片方だけが存在する事は不可能だろう。 だが普通の人間なら良い方だけを選び、悪い方…

汐の情景  二十五話

まだ時間に余裕があった英和は帰る途中にそのまま村上と会う事にした。仕事の影響があるとはいえ、人と会う時は何時も夕暮れ時になる事を宿命と感じながら。 艶やかな髪を風に靡かせながら相変わらずの清々しい顔をして現れた村上の様子に不審な点はなかった…

汐の情景  二十四話

一行は後味の悪い思いで店を出て、親方の指示で一度事務所に戻った。閑散とした夜半の誰もいない事務所には仕事に使われる資材や道具などが淋しく横たわっていた。 静寂に立ち尽くす一同に対し、親方は満を持して辛辣な表情で問い質す。 「お前ら、何時もこ…

汐の情景  二十三話

工務店に新しい職人が入って来た。職人といっても素人の見習いで、大卒であるにも関わらず大工になりたいという単純な志望動機で入社して来たらしい。 村上健司というその男は実に礼儀正しく凛々しく聡明で、それでいながら可愛らしい顔立ちをしており、毅然…

汐の情景  二十二話

三章 風が吹き付ける。そして当たり前のように流れ去って行く。川水も、海の潮汐も、人も動物も時も、森羅万象全てが一時たりとも留まる事なく常に変化しながら生滅を繰り返し世の無常を物語っている。 不変性を夢見る者の心情に己惚れがあろうとも、そうあ…

汐の情景  二十一話

英和としてはひとり酒に浸りたい気分だった。家ではなく店で。それは駅やパチンコ店などで感じる群衆の中の孤独感みたいなものだろうか。それを良質なもので提供してくれる場所も今では少なく感じる。 だがそれは裏を返せば自分の世界を見出し、確立する事が…

汐の情景  二十話

無気力無関心な為人でありながら正月が大好きであった英和にとって、昨今の日本の正月感の稀薄さは憂うるに足る空虚な淋しさを投げ掛けているように感じられた。 自分が幼い頃は駒回しに凧あげ、歌留多に百人一首に羽根つき、餅つき、そして年末年始恒例の大…

汐の情景  十九話

数日後の或る朝、英和は仕事現場へ向かう道中に車を運転していた康明の様子を訝らずにはいられなかった。 口笛を吹きながら運転する彼のテンションは必要以上に高く感じられる。車中に流れる音楽のボリュームも何時もより大きい。違和感を覚えた英和は素直に…

汐の情景  十八話

まだ日も昇らない外の仄暗い景色はその寒さと共に英和の純粋な焦燥を煽って来る。夢から覚めたばかりの彼には未だに現実との区別がはっきりつかないのか、まるで夢の続きを演じさせられているような思いで康明から訊いていた病院に急行する雰囲気が感じられ…

汐の情景  十七話

「はぁ~......」 道中で先程から何度となく耳にする義久の溜め息。英和には単にパチンコに負けた悲嘆だけを表しているようには思えなかった。 人が時として覚える嫌な予感とは当たり易いものなのだろうか。逆に良い予感などは当たらないどころか、した事す…

汐の情景  十六話

何も考えなくていい。何も思わなくていい。何も感じなくていい。そんな心理状況になれる場所とはどんな所だろうか。 出来るだけ広く、殺風景で、綺麗でもなければ醜くもない大した印象を受けない場所とは。例えば見渡す限り緑が広がる一面の野原。樹々や草花…

汐の情景  十五話

夜の帷が下りる頃、恋人達の心には自然と愛の焔が灯される。先程の黄昏れに物足りなさを感じ、亦煽動されるようにして英和と直子はまた無意識の裡に人目を避けながら現世のエリシオンを目指して歩き出していた。 吹き付ける風は二人の共通意識と相乗し不規則…

汐の情景  十四話

或る日英和は仕事の休憩中に親方である康明の親御さんから苦言を受ける。 「英和君、ええ加減博打は辞めといた方がええで、お母さんも心配しとうと思うし」 仕事以外、いや仕事も含めて苦言を呈された事など初めてではなかろうか。だからこそその言葉には何…

汐の情景  十三話

海中に見る美しい光景。小魚の群れが一団となって素早く華麗に舞い上がる姿は見るものを圧倒する。 まるで鍛え上げられた騎馬隊のような、或いは入念な稽古を熟した踊り子のような。この魚群というものはそんな練習でもした上でここまでの舞台を演じているの…

汐の情景  十二話

二章 送る月日に関守なし。気がつけば春、気がつけば夏、秋、冬と、人という生命には情緒的にも少し呑気な感傷にふける習慣があるように思える。 それは当然年齢にも直接影響して来る訳で、数えで25歳になる春を迎えた英和は花見の時期が終わった頃合いを見…

汐の情景  十一話

大会が終わって数日後、部活動が始まる前に顧問の先生が例の約束を果たしてくれる。てっきり大会場から帰る時に奢って貰えると高を括っていた英和はこの時間差攻撃を喰らわして来た先生のお手々に嫉妬してはいたものの、律儀に約束を果たそうとするその心意…

汐の情景  十話

或る日英和は何時も通っていた銭湯でばったり義久と出会う。彼の底を見せぬ相変わらずの無表情な顔つきには未だに釈然としないものがあったが、どうせパチンコで負けたであろうと予測する英和は貸した金が返って来る事に期待はしなかった。 風呂場に入った時…

汐の情景  九話

後ろを振り返る事を嫌う者はいても、一度だけでも過去に戻りたいと思う者は結構な数で存在するのではなかろうか。 前向きな精神に虚勢を感じるとは言わないまでも、その人生に於いて只の一度も昔に戻りたくはないといった思想には多少なりとも無理があるよう…

汐の情景  八話

数ヶ月が経ち英和が高校一年生を終業した頃、家庭裁判所からの呼び出し状が届く。外はまだ少し寒い冬の面影を残し、吐く息の白さは一刻も早い春の到来を期待すると共に昨年度という過去に秘められた万感の思いを表すように自らを切なくさせる。 移り行く気節…

汐の情景  七話

幼い頃に夢や将来像を訊かれる事はよくあると思えるが、英和が夢見ていたものとは一体何だったのだろう。 思い起こしてもこれといったものは浮かんで来ない。強いて言えばバスや電車、船の運転手に、野球やサッカー選手などの如何にも男子が謳いそうな定番の…

汐の情景  六話

翌日も晴天だった。まだ少し眠気が残る英和ではあったが早朝の肌寒さはその身体に程好い刺激を与え、吸い込む空気は何時になく新鮮に感じる。 日も昇らない静寂に包まれた街並みに人影などは無いに等しく、車さえも殆ど走っていない状況は英和が乗る自転車を…

汐の情景  五話

景色が人の心に齎す影響力を数字に表す事は不可能と思える。無論そんな必要性などないとも思えるが、自然の情景は言うに及ばず、たとえ人為的なものであっても見惚れてしまうほどの深い感動を覚えてしまう事が人間の性ではなかろうか。 幸か不幸か結局雨まで…

汐の情景  四話

天為とも呼べる気象が時として思いも依らぬあからさまな意思表示をする事は往々にしてあるだろう。正に小春日和であったここ数日の穏やかな気候が俄かに曇り始めたのは何かの兆しを示唆するものなのだろうか。 とはいえ雨や嵐でもないこの現状は憂慮するにも…

汐の情景  三話

地元の者ばかりで形成されている公立中学と違い、色んな地域の者が通う高校には柵がないという点では幾分気楽な印象を受ける。 それまではどちらかと言えば自分に固執し過ぎていたような英和も羽を伸ばすといっては大袈裟だが、比較的自由奔放に高校生活を送…

汐の情景  二話

一緒に銭湯に行こうと提案して来た義久という友人は英和に輪をかけて口数の少ない人物であったが、一言に大人しいといっても少々短気な英和と比べて遙かに鷹揚なその為人は康明同様に或る意味では真逆なタイプのようにも思える。 それを証拠に恐らくは喧嘩な…