人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  二十四話

 

 

 一行は後味の悪い思いで店を出て、親方の指示で一度事務所に戻った。閑散とした夜半の誰もいない事務所には仕事に使われる資材や道具などが淋しく横たわっていた。

 静寂に立ち尽くす一同に対し、親方は満を持して辛辣な表情で問い質す。

「お前ら、何時もこんな感じなんか? 俺の知らん所でクソ下らん人間関係でも構築しとんかいやオラ!? おー! どないやねん!?」

 誰も答ようとしない中で、既に腹を括っていた英和だけが泰然たる態度で口を開く。

「親方、皆さん、本当にすいませんでした、この通りです、自分が辞めます、これでケジメをさせて下さい」

 親方は溜め息をついて英和の顔をじっと見つめていた。どう見ても本心に違いないと悟った彼は続けて息子である冴木裕司の表情を窺う。裕司は俯いたまま顔を上げようとはしなかった。無言の裡に双方の腹の内を斟酌する彼は改めて英和と相対する。

「何でお前が辞めんとあかんねん? 今回の事は裕司が悪いだけや、そやろ裕司?」

「.......」

 裕司は何も言い返せなかった。

「な、見てみーや、こうつは何時もそうや、自分に疚しい事があったら直ぐ黙り込むねん、せこいやっちゃで、みんなもこいつに要らん気遣っとんやろ、情けない話やで、そやからお前が辞める必要なんか何処にもないねん、分かったな」

 親方の言に恣意的な思惑が感じられなかった英和は一礼してから答える。

「有り難う御座います、自分みたいな者に勿体ないお言葉です、でもそれだけで十分です、先輩に山返した事には違いありませんから、もう決心した事なんです、本当にすいませんでした、御世話になりました、有り難う御座いました」

 深々と頭を下げて立ち去ろうとした時、新入りの村上健司が英和を引き留める。

「ちょっと待って下さいよ! こんな辞め方おかしいですよ、自分の事なんかで短気を起こさないで下さい、カッコつけ過ぎですよ、英和さんが辞めたら自分もこのままではいられませんよ、勝手に辞めないで下さいよ」

 新入りとは思えない悠然たる態度で発言を試みた彼に一瞬動じた英和は、気障ったらしい返事で返す。

「......、別にお前の為だけでもないしな、せっかくの歓迎会やったのに悪かったな、ま、頑張ってくれや、じゃーな」

 振り返った英和はそれだけを言い置いて姿を消してしまった。

 親方は裕司を思い切りぶん殴った。

「どうせお前酷い事ばっかりして来たんやろ、前にもそんな事あったでな、はっきり言うてお前よりあいつにおって欲しかったわ、ダボタレな」

 一同の酔いなどはとっくに覚めていた。この期に及んでも裕司や年配の職人達は何も言おうとしない。その姿を見て更に落胆する親方。

 それにしても英和は何故こんな衝動に出てしまったのだろうか。前々から決めていたのだろうか。如何にも狷介な彼がしそうな事でもあるが今回に限っては優柔不断な所は全く見られな。もし決めていたのなら不義理を働いた事になり、親不孝に当たるとも思える。それにこんな辞め方をしていれば社会人失格の烙印も押されかねない。

 村上が言ったようにただカッコをつけただけなのだろうか。それだけではないような気もする。だとすれば自分に科した訓戒、それを自らが破った事に対する罰を受けたつもりなのかもしれない。つまりは贖罪を果たしたという事か。

 これこそカッコをつけた、少々飛躍した、世間の一般常識から乖離した話と受け取られる可能性はあるだろう。でもそれは単に冴木に、人様に手を上げてしまった、非人道的な衝動に出てしてしまったという事に対するケジメだけではなく、決心していたとはいえその抱懐はそれ自体が元々不本意な事であり、自己欺瞞を働いた反動でなけなしの矜持を自分自身で害してしまった事に対するケジメであった可能性はある。

 要するに潔癖であった彼は何時も自分との闘いに没頭していた訳だが、器用な者ならいざ知らず、彼のような不器用極まりない人物に最良の手段があるとすればそれは何なのか。もっともっと人に揉まれて社会経験を積み、莫迦になって行く事か。或いは狡賢く立ち回り人を蹴落とす術を磨いて行く事か。将又感情自体を捨て去る事か。

 どれも気が進まないだろう。ただ人間社会に辟易していた、いや元々人嫌いであった彼なら最後の感情を捨てる事を選ぶ可能性は十分考えられる。でもそれをしてしまえばそれこそ彼が忌み嫌う、意思も神経を通っていないと見下さずにはいられない現代人と同じになってしまう。

 意識が高いのではなく純粋で潔癖で、寧ろ脆弱な精神だからこそ義務付けられてしまう自省と当為。他者を気遣い過ぎるが故に空回りしてしまう半端な優しさ。遠回りを選ばざるを得ない人生観。

 偶然必然を問わず感覚的意識に依って強いられてしまったその人生の道をどう歩み、どう切り開いて行こうというのか。苦行と言うには大仰ながらも、人生を楽に歩むつもりもなかった英和であった。

 

 これで晴れて義久と同じ無職になった英和は取り急いで就活に励むような真似はせず、余裕をかます訳でもないが敢えて自堕落な日々を送っていた。

 仕事をしていない彼にとって毎日の生活に張りを持たす方法といえば自然とギャンブルが浮かび上がって来る。不甲斐ない話ながらもこればかりは自分でもどうしようもない性が災いしてしまうのだった。

 パチンコに公営ギャンブルに麻雀など、その悉くを経験していた彼は日頃の憂さを晴らすべく、現実逃避でもするかのようにしてギャンブルに打ち興じる。

 その中でも今専ら嵌っていたのはボートレース(競艇)で、毎日のように現場(競艇場)や場外舟券売り場に姿を現す英和。

 彼はボートに惹かれるのにも一応の理由はあった。その最たるはやはり6艇しかいないボートは当て易いという事に尽きるだろう。そしてパチンコのような客側が完全な受け身であるギャンブルと違って予想が立てられるという強みもある。

 何れにしてもギャンブル自体が愚かしいものである事は重々承知していたのだが、パチンコ店の中で踊らされているだけの客を滑稽極まりないと思ってしまう彼なりの見解が感覚的にそれを嫌い、多少なりとも能動的に感じられる公営ギャンブルはそんな彼にとっても格好の遊戯となっていたのだった。

 だがボートレースというものは競馬などと違い全国に24場もあり、年中無休で毎日開催されている。その為青天井でいくらでも負けられるという非情な法則も成り立つ。

 だからこそネット投票などで舟券を購入していれば忽ちにして破産してしまうといった、ネット社会の歪みとも言うべく因果な運命が待ち受けている訳だが、それを踏まえた上でも敢えて身を窶すギャンブラーの精神構造というものはやはり麻薬に冒され理性を失った者の憐れむに足る、稚拙にも健気な忘我の態を表しているようにも見える。

 それに当たり易いといっても6艇しかいない為、配当も安いといった表裏一体の法則性もあり、或る程度重ねて勝負に行かない事には大して儲からないという欠点もある。

 確かにどんな事柄にも一長一短、痛し痒しなオチがある訳で、楽な、有利な道などは無いに等しいだろう。百歩譲って大儲け出来たとしてもそれだけで成功者などとは間違えても呼べないだろうし、困窮しているからといって人生の負け組と決まった訳でもない。要は自分の気持ち次第でどうにでもなる世の中であり、人生であるとも思える。

 言うなれば金というものは有るに越した事はない、無ければ困るというだけの謂わば一つの事物に過ぎない現実の中にある幻のようなもので、大金を手にした所で真に心が充たされる事はないとも思える。

 では何故ギャンブルをしてまで金儲けをしようとするのか。その理由にも各々、個人差があろうとも少なくとも英和のような風変わりな人物には精神的な刺激を求めていたような節はあった。その刺激に依って生じる昂揚感や陶酔感、優越感。それが病み付きになり無意識に自我に纏わり付き忘れる事が出来ないのだろう。

 その鎖のように幾重にも屈強に連結された感覚を捨て去る事こそ至難の業で、刺激に溺れる英和はそんな禍々しい幻覚の中で彷徨い続けるのだった。

 朝から昼間にかけてのいわゆる前半のレースには大した選手は出ていない。こんな所で金を捨てる事ほど愚かしい行為もなく、彼は当たり前のように後半のレースに挑む。

 ボートレースはイン(1号艇や1コース)が有利で勝率は場所にも依るが、優に40%を超えている。だからインに強そうな選手がいれば、その選手を軸にして少ない通りで予想が組み立てられるという塩梅になる。

 最初に買ったレースは或る競艇場の後半10レースで、結構名の通ったA級レーサーがインにいるレースだった。

 買い方までシンプルにしないと気が済まない英和はそのインの頭から3着にちょっと弱い6号艇の選手を入れて2着を流す、ネット用語にもなっている1-9(流し)-6という買い方をした。

 まずインは逃げるだろう。問題は6なのだが、たとえ展開が向かなくても3着ぐらいには入って来れる筈。そう睨んでいた彼はその舟券をポケットに蔵(しま)いこみ、レースが始まるまでの僅かな時間に窓に近付き、外の景色を悠然と眺めていた。

 これも彼なりの拘りみたいなもので、レースが映されるモニター近くにいち早く立ち並ぶ者達を内心では揶揄していたのである。これぐらいの余裕がなければ勝負になど勝てる道理がない。一見尤もらしい考え方のようにも思われるが裏を返せばただ落ち着きたい、カッコをつけているだけといった風に見えなくもない。

 やがて発走の時刻が来る。発走のファンファーレが鳴ってもまだ動かない。そこから1分ほどが経ってようやく動き始める英和。これもスタートするまでの下らない進入作戦などを一々見たくないといった拘りからだった。

 そしてスタートが切られる。取り合えずは同体のスタートだった。これならインの逃げ切りは待間違いないだろう。そんな確信のもとに冷静ながらも真剣な眼差しでレース実況を見ていた彼はその自信を一瞬にして打ち砕かれるのだった。 

 インの選手がスタートを切って直ぐの1Mのターンマーク付近でいきなり転覆してしまったのだ。正に天地雷鳴、驚天動地、彼の中に凄まじい戦慄が走る。

 場内は騒然とし、転覆した選手に対する烈しい罵声、罵倒が響き渡る。阿鼻叫喚。亡者の叫びは辺り一帯に木霊し、暗澹たる雰囲気に包まれる。

 気を悪くした英和はこの一瞬だけで舟券を破り捨て立ち去ってしまった。とても次のレース予想など手に付かない。これはこれで負けを増やさないと思えば良い心掛けであるようにも思える。でも彼はこのレースに結構な金額を投資していたのだった。だからこれ以上の勝負はしたくても出来なかっただけである。

 悲嘆に暮れる英和は項垂れたまま帰途に就く。そんな時、予想もしなかった村上健司から連絡が入って来るのだった。

 

 

 

 

 

 

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