人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  二十五話

 

 

 まだ時間に余裕があった英和は帰る途中にそのまま村上と会う事にした。仕事の影響があるとはいえ、人と会う時は何時も夕暮れ時になる事を宿命と感じながら。

  艶やかな髪を風に靡かせながら相変わらずの清々しい顔をして現れた村上の様子に不審な点はなかったが、微笑を浮かべながらも少し神妙な面持ちで相対する英和。

 立ち話もなんだからという事で二人は取り合えず喫茶店に入る事にした。

 窓際じゃないと落ち着かない英和も相変わらずだった。窓外から差し込む眩しい夕日は二人の顔を必要以上にライトアップし、その繊細な表情の変化までは見抜けない。でもそれが却って気を遣わせない材料になっていたのも事実で、気兼ねなく膝を交えて話を始める二人だった。

「久しぶりやんけ、頑張っとうか?」

 村上は何時もながらの冷静沈着な様子で答える。

「はい、お陰様で何とか頑張れていてます、英和さんの方はどうですか?」

 英和はなるべく卑屈になるまいと勤めていたが、馬鹿正直な性格は自ずとその表情を曇らせる。

「ま、ぼちぼちな、で、今日はどうしたん? 何かあったんか?」

 村上は星屑を鏤めたような輝かしい目つきで英和の顔を見つめていた。彼にはその可愛らしい顔つきに似合わず何処か人の感情を見透かす鋭い洞察力が備わっていたように感じられる。だからこそ初対面の時から一目置いていた英和でもあったが、こうしてサシで話をしているとその能力が如何にも本物らしく思われ、何か形容し難い怖さ漂わせていた。

 少し間を置いて話し始める村上は、柔らかい口調にもいきなり核心を突いて来る。

「ボート負けたんですか?」

 この問いには少なからず動揺する英和だった。確かにその通りなのだが、何故彼はこんな事を口にするのだ。俺を揶揄ってるのか。神経質な英和は一々裏を読まねば気が済まない質で、徐々に険しい表情になって来る自分に気付いていた。

「......、何でそんな事訊くん? その通りやけどな」

「そう怒らないで下さいよ、英和さんが博打好きなのは会社の人に訊いたんですよ、別に悪気はありませんから、気に障ったら謝ります、すいませんでした」

 この言い方自体が癇に障る。それなら初めから言わなければいいではないか。それをわざわざ口に出して、そのうえ予め用意していたように詫びを入れる。村上という男はそんな男だったのか、そんなに器用で狡猾な人物だったのか。

 ちょっとやそっと話しただけでそう決め込んでしまう英和にも人間的な欠陥はあろう。でも不器用な彼はたとえその性格が災いし、自分が不利になる事を怖れてはいなかった。

「ま~ええやん、で、要件は何やねん?」

 つい口調が荒くなってしまった英和を少し上から目線で眺める村上はこう言う。

「じゃあはっきり言います、戻って来て貰えませんか? もう冴木さんは何も思っていないようですし、やっぱり英和さんがいない事には面白くないんですよ」

「おもんないとはどういう意味やねん?」

「だから深く考えないで下さいよ、ただ戻って来て欲しいだけなんですよ、親方もそう思ってる筈です、頼みますよ」

 だから。この一言に憤りを隠せなかった英和はとうとう怒りをぶちまけてしまう。

「お前、変わったな、最初に見た時はそんな感じには見えんかったけどな、俺の勘違いか? 久しぶりに会うたらえらい大そうな口利くようになったやんけ、この前辞めたばっかりやのにそう簡単に戻れる訳ないやろ、あんまり調子乗んなよ、な!」

 それでも村上は躊躇う事なく言葉を続ける。

「分かりました、本当にすいませんでした、言い過ぎました、ならうちの組に来ないですか? 親父も歓迎してくれます」

 英和は少し戸惑った。

「何や組て? 親っさんヤクザかいや?」

「そうです、小さい組ですけど一応シノギはあるみたいです」

「ほう、そうやったんか、道理でお前にも箔が付いとう筈やでな普通の人間とはちゃう思とったわ、でも断るわ、せっかくやけど、悪いな」

 そう言ってなけなしの有り金を叩いて二人分の料金を払い、店を出る英和。

 断った理由は実に単純明快だった。多少なりともヤクザに感心があった彼だが、どう見ても自分はヤクザの器ではない。少々短気であっても己が身分だけは弁えている。分不相応な事だけはしたくない。

 それだけを胸に今日まで生きて来た彼は、どんな時代になろうともその信念だけは曲げるつもりは無かった。それは調子に乗る事を嫌うのは言うに及ばず、それ以前に感覚的にその根柢に根差していた頑なな信条。それを覆す事は自分でも出来ないし、するつもりもない。そして人に勧められて何かをするのも嫌だった。あくまでも己が意思に依って道を歩みたい。仮にどれだけ険しい道でも、他者に案じられようとも行く道は行くし、行かざる道は推されても行かない。ただそれだけなのだ。

 でもその単純な事も現代社会、というよりは人間社会で遂行しようとすればかなりの反感を生み、数多くの障壁に阻害されるに相違ない。でもそれこそカッコをつける訳ではなく、たとえ自分のような名も無い者であっても退く訳にはいかない。

 このような拘りを担保しているものとは何だろうか。孤独を厭わない強靭な精神力か、それとも死を覚悟するが故の投げやりな性格か。

 決してメンタルが強くもなかった彼にあったのは恐らく後者だろう。今の時代に死を覚悟するなどと言えば忽ちにして毛嫌いされるに違いない。それをも跳ね返すだけの精神力が彼に備わっているとは思えない。

 未だ沈まぬ日。自分の蟠りを持ち去って早く沈んでくれと言わんばかりに、そんな光景に苛立ちを覚えながら独り帰って行く英和だった。

 

 質は違えど或る意味では同じような惨めな人生を送っていた康明。彼もまた世間と、自分自身と闘いながら晴れぬ悩みを抱き、出口のない迷路を彷徨っていたのだった。

 彼には英和と同等に親しくしていた荒木茂邦という友人がいた。この茂邦も英和や義久同様小学生からの仲でそこそこの友好関係を築いてはいたものの、余程馬が合ったのか最近では専ら康明とばかり付き合いをしていた。

 父親は他界してからというもの定職に就かず、ふらふらとあちこちでバイトをしていた康明はこの日家に帰ってから茂邦と語らっていた。

 茂邦は言い方は悪い痩せ型のひ弱そうな男で、滅多な事では人の悪口など口にしないどちらかいうと人から好かれるタイプの人物だった。

「バイト頑張っとん?」

 訊かれた康明も優しく答える。

「ま~な、給料はめちゃくちゃ安いけどな、ま、そのうちビッグになるやろ」

 三十代半ばにまでなってまだこんな余裕をかます事が出来るのも彼が元々根明だった証なのだろうか。愛想笑いをする茂邦は深くは詮索せず、世間話に移行する。

「最近おもろいテレビ番組あんの? 誰が流行っとん?」

「欽ちゃんやろ」

「何時の話やねん? 誰かおらんのかいな?」

「じゃあ俺らでコンビ組むか? 行けるんちゃうか~」

 彼等は何時も何時もこんな調子で他愛もない話に打ち興じ、互いのろうを労っていた。でも英和のような者から見ればこれが鬱陶しくて仕方なかった。何の軋轢もない、何の問題も、何の蟠りも。それは即ち面白みに欠けるという事で、自分の想いを人に強要するつもりはないまでも、大袈裟に言えば虫唾が走るほどだった。

 でも言うなれば馴れ合い仲良し倶楽部とも言える二人の仲は意外と長続きしており、結構な固い絆で結ばれてもいた。それはそれで結構な話なのだが、ここに英和が居れば直ぐにでも帰っていたであろう。それを知る二人は敢えて英和の話題に花を咲かす。

「ところで英和はどないしとん? 大工しとったんかな?」

 康明はありのままを教える。

「この前辞めたらしいわ、何があったんかは知らんけど、どうせまた下らん拘りから辞めてもたんやろ、あいつらしいけど勿体ない話やでな、アホや」

 茂邦は笑いながら続ける。

「そこまで言うたんなよ、あいつにもあいつの考え方があるんやろ、手に職があんねんから心配はいらんやろうけど」

 康明は少々真剣な眼差しになり、ムキになって答える。

「いや、なんぼ技術があっても無理やろ、あいつはええ奴やけど今の時代、いや、人間に向いてないんちゃうか」

「何やねん、えらい言うな、確かにあいつには何か言い知れん変な怖さがあるわな、俺も嫌いではないけど好きでもないみたいな感じかな」

「そやろ、あいつは人が好過ぎるねん、俺は好きやけど、そのうち訣別する可能性もあるわ」

 彼等がこんな話をし始めたのも30を超えたぐらいからであった。二十代や十代の頃には思ってはいても、実際に口に出す事はあってもここまで真剣に考えるには至らないとも思える。それが年を重ねるに連れて深く追求してしまうのも人間の性なのだろうか。この辺りから芽生え始める人間関係の深みとは一体何を示唆し、何を求めんとするのだろうか。

 神経質な英和であってもこんな面倒くさい人間社会は嫌いで仕方なかった。それは自分の陰口を叩かれている事に対してではなく、自然とそういう事を口にする、考えてしまう人間そのものに備わった感覚的な意思、意識であり、それを煩わしいと判断してしまう己が器量にこそあった。

 だがこればかりは誰がどんなに頑張り尽力した所で変えようのない事柄で、たとえ神仏でさえもどうする事も出来ないだろう。

 つまりは煩悩。喜怒哀楽全てが煩悩なのである。それを消し去るには完全なる解脱を果たすしか道はない。その解脱とは生きたままに果たせるものなのか。死なない事には到達する事が出来ないのではあるまいか。

 無意識的な意識。それは何なのか。地球は意思に依って自転しているのだろうか。風は涼やかに頬を刺し、身体を媒介して精神に浸透し、無意識に吹き抜けて行く。水は清らかな流れを絶やさず決して逆流する事なく常に下方に進み行く。空気の流れ、太陽、月や潮の満ち欠け全て然り、人間もまた然り。

 これら全ては自然の理に依って絶えず流動しているのだろうか。だとすれば何を迷い、何を悩むというのか。

 部屋での長話を終えた康明と茂邦の二人は互いに、

「じゃーな、また」

 という当たり前の声掛けを優しい表情で交わし、別れるのだった。 

 

 

 

 

 

 

 

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