人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  十一話

 

 

 大会が終わって数日後、部活動が始まる前に顧問の先生が例の約束を果たしてくれる。てっきり大会場から帰る時に奢って貰えると高を括っていた英和はこの時間差攻撃を喰らわして来た先生のお手々に嫉妬してはいたものの、律儀に約束を果たそうとするその心意気には少なからず敬服していた。先生は言う。

「おう林田、奢ったるわ、食堂行こうや!」

 まさかとは思ったが学校の食堂で奢ってくれるというのか。今学校に居る訳だからその可能性は十分予期出来たまでも、それを実行する先生の思惑とは一体何だったのだろうか。単に経済的な意味でそうせざるを得なかったのか、それとも初めからそのつもりで己がセンスをひけらかしたかったのか。

 食堂に入るなり先生はこう語り掛けて来る。

「うどんでええか?」

 英和は考えるまでもなく即答する。

「はい、有り難う御座います」

 食堂のうどんは結構美味しいと評判だった。そのうえ一杯たったの150円という破格の安価はいくら高校生であっても嬉しい限りで、実際英和もここのうどんはしょっちゅう食べていたのだった。

 食べ終えた英和は礼の他は敢えて何も言わなかった。それは先生に対する気遣いというよりは、その美味しかったうどんに純粋な謝意を表していただけだった。

 そうしてこの日も何ら危険を感じる事なく練習に励み、無事に帰途に就く英和はその煩わしくも身勝手な憂慮から解放された状況に安堵するのだった。

 彼が危惧していた事とは言うまでもないあの一件で、それを警察が学校に知らせたのではないかといったものだった。康明と義久は警察から絶体に学校には連絡しないと言われていたにも関わらず結局は薬局で知らされており、その罰として校庭の草刈りを命じられていたのだった。

 そして英和の担任の先生は特別といっても良い程の生真面目な性格で、曲がった事が嫌いという点では共感出来れど、自我に糊着して離れない、拭い去りようのない後ろめたさは先生の為人に依って更に強化されてしまう。

 あれからというもの一日一日が重かった英和は正にその日暮らしでも強いられたかのように、何時皆の前で発表されるか分からないといった恐怖と闘いながら登校していた。

 最後のホームルームで毎日のように同じ台詞を口にする先生。

「え~、実は今日みんなに言うときたい事があるんやけど......」

 これは部活動顧問の先生と同じ何か芸の一種なのだろうか。連絡事はいくらでもあろうとも、一々こんな物言いをする必要があるのか。

 その度に物怖じする神経の細い、肝の小さい英和の胸に立ち込める想いには悔恨の念よりも遙かに大きいと言える周知の事実になってしまう事に対する気恥しさが顕著に見て取れる。

「最近常々思ってる事がある、メンチ切られたとかいう理由で喧嘩沙汰が増えてるみたいやけど、人間というものは目ぐらい合わすやろ!? そんな事で一々揉めてたら社会人になんか成られへんど、ええ加減大人になれよ、な!」

 どんな急報かと思えば何の事はない。確かに先生の言にも一理はあるが、そこまで改まって言うべき事なのか。だが先生の真剣な眼差しには底知れぬ人間の矜持が感じられる。だからこそ皆も黙って訊いていたに違いなく、英和としても尊敬の念を抱かずにはいられなかった。

 そして下校する頃、彼はこの調子ならあの件がバレるのも時間の問題と腹を括りながら街に佇む堂々とした美しい樹々に草花、その景色に感化されるように、前向きな精神の中にも哀愁を込めた表情を泛べるのだった。

 

 暫く姿を見せなかった康明はアルバイトに精を出していた。英和と違ってどちらかというと人好きで車好きだった彼はガソリンスタンドの店員という接客の仕事に従事していたのだった。

 いつの間にか自動二輪中型の免許と危険物乙種という資格を取得していた彼は職場でも皆に可愛がられ、快活に仕事を熟す。その献身ぶりは価値観の多様性を勘案したとしても褒められこそすれ、貶すまでの行為を許すものではなく、彼なりの正直さを以て示される実直な意志には或る意味では英和と類似する所があるようにも見える。

 彼は先輩達の目を盗むようにして同じバイト仲間の女性と付き合い出していた。他者が干渉するのも烏滸がましい話だが、その女性は康明とはどう見ても不釣り合いな少し気の強い男勝りな女性で、仕事中でも全く媚びる事なく、誰かれ構わず気を遣わずに話をするといった礼儀知らずとも言える雰囲気を醸し出していた。

 そんな性格が裏目に出てしまったといえば大袈裟だが、彼女は或る常識では考えられないような行動を執るのだった。

 康明が務めていたこのスタンドがある場所は地元でも有名な結構ガラの悪い地域にあり、亦時代背景もあってかそのガラの悪い近隣住民が用もないのにまるで自分の庭みたいな感じでスタンドに遊びに来るといった事が屡々あった。

 それもただ部屋に入って寛いでいるだけならまだしも、店員に絡み客にも絡んで行く暴挙には店長でさえも手が付けられない、というよりは対岸の火事を決め込んでいて、警察までもが駆け付ける状況には宛ら暴走族の乱闘騒ぎのような雰囲気があった。

 この日はその如何にも調子に乗っていると言わんばかりの改造車に乗った男達が給油に来ていて、それに目を付けた彼等は野生の動物が獲物を見つけたかの如く鋭い眼光で颯爽と遅い掛かって行く。

「おい兄ちゃん、ええ車乗っとうやんけ、われ何処のもんどいや? おー!」 

 その車に乗っていた三人のヤンキー丸出しな男達は一瞬怯みはしたものの、売られた喧嘩は買わなければいけないといった責務を無理をしてまで果たすようにして健気にも果敢に立ち向かって行く。

「何や? 何もんやねんコラ」

 こんな言葉は正に渡りに舟みたいなもので、言われた地元の連中は喜び勇んで暴れ始める。

「出て来いゴラ!」

 強引に車から引きずり出されたヤンキー達はその場でボコボコにされて歯向かう事すら叶わない。地面に這いつくばる身体を掴み上げ更にシバき上げる彼等は財布を取り車まで乗っ取って、辺りを暴走し始める。不甲斐なくやられてしまったヤンキー達は成す術もなく、呆然とした様子で立ち尽くしていた。

 康明は関わり合いにならないようにただ静観していたが、あろう事かその彼女はヤンキーに対し煽り文句を浴びせ掛ける。

「お前ら、このままでええんかいや? やられてカエシもせーへんのか? 情けないな~、それでも男か? ヤンキー魂でも見せたらんかいやゴラ! それすら無いか~......」

 笑いながら言う彼女に業を煮やした連中は所詮女だとでも思ったのか、力を振り絞って攻め掛かって来る。それをも見越していた彼女は手負いとはいえ三人の男を一瞬にして叩きのめすのだった。

「女一人でもこの様やでな、ダサ過ぎるわ、ふっ」

 居ても立ってもいられなくなった康明はここでようやく彼女を制止する。

「彩花、もう辞め! ええ加減せんとまたパクられるぞ!」 

 今まで暴れ放題暴れていた彼女は康明の一言だけで掌を返すように大人しくなる。

「あぁ、悪かったな、こんな雑魚相手しとったら弱いもん虐めになってまうもんな、この辺にしとくか......」

 彼女がそうした理由はまるで分らない。そこまで康明に惚れ込んでいるのだろうか。それとも康明をすら試していたのだろうか。

 店長が通報してから20分ぐらいが経った頃に警察が駆け付け、暴走する者達もようやく捕まり、一同は連行されて行く。

 遊びに来ていた地元の男達は去り際に言う。

「彩花、おもろかったな、また暴れようや!」

 彩花はニコっと微笑んで余裕綽々といった感じで彼等を見送っていた。被害者のヤンキー達はただ項垂れながら沈鬱とした表情で誰とも目も合わそうとしない。

 そんな光景を憐れみ、儚むように目を細めて眺めていた康明は自分の中に巣食っていた或る想いが弾けそうで弾けない、表現するにはまだ早いという世の趨勢を見守ると言えば大袈裟ながらも、何か世の中、人類自体を悲観するような憐憫にも似た憂愁感を葬り去る事が出来ずにいたのだった。

 

 時は過ぎ英和達は早や卒業の時期を迎える。この高校生活三年間の中に印象深く残っているものは不起訴になったとはいえ警察に捕まった事と、直子との恋路ぐらいなものだろうか。他はどうでも良いとまでは言わないが、さして思い当たる事などは無いに等しい。

 入学した当初も、水泳部に入部した事も、二年生の頃に行った修学旅行も然程思い出には残っていない。かといってそれらを軽視するつもりもなく、先生や同級生、先輩達、そしてバイト先の方々にもそれなりに感謝している。

 しかし彼の胸に内在する想いは高望みをする訳ではなかろうとも、もっと自分の心を揺さぶってくれる、突き動かしてくれるような刺激を欲していたのだった。

 それならば自分でやれば良いだけの話なのだが、そこまでの人物でもなかった彼は常に他者にそれを求めていたのかもしれない。

 新聞配達も水泳も直子との交際も、全て自分なりに努力したつもりだった。それでも何故か何処か物足りない、やり切れないといった想いは何時になっても払拭出来ない。ただ贅沢なだけなのか、それともまだ努力が足りないのか。狷介な人物であるが故の宿命(さだめ)なのか。

 高く据えた理想だけを追い求める事は理には適っていないのか。いやそんな筈はない。それなら所詮人間という生命は最初から敷かれたレールの上でしか踊る事は出来ないのではあるまいか。

 無論その敷かれたレールすら歩めない者もいるだろう。持って生まれた才能を踏まえたとしても強い志を以て挑めば結果如何に関わらず後悔は無い筈。ならば自分はやはり努力が足りなかたっという結論に行き着く。

 根は正直であっても何があっても素直に喜べない、素直に怒る事も出来ない。感情表現が苦手である以前に何かが邪魔をする。それは決して目には見えない或る種の邪念の類かもしれない葛藤にも勝る徒な衝動を含めた心の動揺。

 それを排除する事が出来たなら人はどれだけ楽な人生を送れるだろうか。倖せとはその困難の悉くを超えた先に感じる事が出来るものなのだろうか。

 哲学者でも無ければ心理学者でも無い英和のようなただ少し繊細で神経質な者がそれを悟るにはまだ結構な時間を要するだろう。

 ともあれあの件が皆の知る所にならないままに卒業する運びになった現状は英和にひと時の安らぎを齎す。それは彼の努力の賜物などではなく、あくまでも自然の所作に相違ない。

 これからはそれを自分の手で切り開いて行かねばならない。そう覚悟する彼の周りに佇む自然の光景は何時もながらにその精神を癒やし、そして勇気付けると共にまた数ある人生の障壁を漂わすのであった。

 

 

 

 

 

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