人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  二十九話

 

 

 約束していた次週の水曜日、英和は喫茶店のリフォーム工事に取り掛かる。マスターから頼まれていたのは壁の一部とドアの補修であったが、それだけでは余りにも味気なく、亦補修した所が却って目立ってしまいセンスに欠くという理由で、厨房を除く三方の壁面の腰壁までの高さを新しくやり直すという提案をしたのだった。

 僭越ながらも謙虚に構える英和に対し、規模が大きくならない事を条件に快く承諾してくれるマスターの心根は有難かった。

 予算を気にする英和は前に見た覚えのある杉の羽目板を拝借しに、今一度康明の母御が入院する病院を訪ねた。

 母御も快く承諾してくれたが、その際に一言だけ告げるのだった。

「英君、家にあるもんなんかなんぼでも使ってくれてええねんけど、あの子の事頼むわな、あの子だけが心配でなぁ~......。」

「分かっています、康明君とは親友なんで、何の心配もいりませんよ、本当に有り難う御座います」

 受け取り方次第では取って付けたような台詞であろうとも、紛う事ない本心を謳う英和だった。

 元の親方である康明の父親は塗装以外にも建築関係を中心に色んな仕事や趣味を多岐に渡って熟していた為、自宅の倉庫にはありとあらゆる道具や材料等が蔵われてあった。中には絵画の道具までが置いてあり、何度も観た事のあるその数々の風景画には、親方の優しく誠実な為人と、精妙巧緻な技術、才能、感性が際限なく表れている。

 目を移すとまだ描きかけの人物画が壁に立てかけられてあった。康明を描いたものだった。まだ幼い頃、恐らくは小学生時分の彼の絵か。まだ輪郭も定まらない、あどけない表情で微笑を浮かべる彼の顔は一切の穢れを知らない純粋無垢な、正に昔の康明そのものだった。

 この頃は皆同じであろうとも、写真ではなく絵として見た場合に感じられるその形容し難い幻想的にも抒情的な情景は、親方の素晴らしい写実性を以て更に引き立つ。

 残るは顔と背景の細かい色付けぐらいなものか。これを完成させる前に他界してしまった親方の心中は如何ばかりだったろうか。 

 つい昔を懐かしむ英和は一時的にもここ最近の康明との経緯を忘れ、彼がこの絵を完成させてくれる事を願わずにはいられなかった。

 そうして英和は大切に保管されていた羽目板と少々の材料、道具等を拝借し、知り合いの壁紙店でクロスを買い求め、現場である喫茶店に向かう。

 店では愛想の良いマスターがテーブルや椅子を隅に纏めて待ってくれていた。

「おはようございます」

 軽快に挨拶を交わした英和は颯爽と仕事に取り掛かる。久しぶりに大工作業をする彼の目は輝いていた。

 今日一日で済まさなければならない工程の中、彼は老朽化っした壁板を素早く取り去り、代わりの板を貼り、羽目板を横方向の乱貼りで貼り付けて行った。

 腰壁と既存の壁板の境に見切り材を取り付け、軽くオイルステインを塗る。元の壁はそのままでも良かったが、買って来た少し柄の入ったクロスを貼る事にした。

 ドアは建付けを直して、薄い木の壁材を貼り、椅子やテーブルの安定性も修復したのだった。

 余り広くない店であった為、仕事は数時間で早々と済んだ。マスターはその出来栄えに大喜びしてくれ上機嫌だった。

「ありがとう英君、見違えるなぁ~、まるで新装開店みたいやん、これで商売も繁盛するで、な!」

 英和は照れながら礼をする。

「有り難う御座います、自分でもいい感じで出来ました、マスターのお陰です」

 片付けを済ませた彼はマスターに入れて貰ったお茶を飲みながら暫く語らっていた。

「ところで英君、これからどうすんねん? 大工したらええねん、勿体ないで、一人親方で独立してやったらええやん」

「自分なんかに親方の器量はないですよ、金もありませんし」

 少し卑屈そうな様子で答える英和にマスターは語気を強めて言う。

「そんな弱気でどないすんねん、大工なんか元々親方みたいなもんで、みんな独立してやっとうやんけ、金なんか大していらんやろ、問題はヤル気ちゃうか?」

 英和は考えていた。確かにその通りだった。ろくに中には登記もせず口コミだけで凌いでいる者もいる。技術さえあれば何とかなる世界でもある。でも何故か気が進まない。それは自分がギャンブル依存症とかいう事以外の、自分でも未だに掴めていない内なる元凶。その元ともなっている蟠りを解かない事には身体が動かないのである。

 でもその元凶が何なのかは理解出来ているようで理解出来ていない、謂わば掴みどころのない雲のような形をして何時までも宙に舞い続け、果ては飛散してしまうという始末に負えないもののように思える。

 それこそ人生を歩んで行く上で習得し、亦削り取って行かねばならない彫刻家のような世界なのかもしれない。

 でもそれは或る意味では大工にも共通するのではなかろうか。ふとそう思った彼は少しだけでも前向きになれた感じがした。

「マスター、ほんまに有り難う御座います、マスターが言われるようにちょっと考えてみようと思いますわ」

 マスターは顔色を変え、明るく答えてくれた。

「おう、そうや、前向きに行かんとあかんでな、こっちこそありがとうな」

 お茶を飲み終えた英和に、マスターはその場で工事代金を手渡してくれるのだった。

 

 数日が経った頃、また康明から電話があり、英和は飲みに行く誘いを受ける。もはや訣別したつもりでいた彼にとってこの連絡は愕くに足るものだったが、母御の言とあの絵を観てからというものどうしても邪険にする気にはなれない。とはいえどう接して良いのかも解らない。

 こういう時にこそ彼の優柔不断で人の好過ぎる性格が災いするのか。気は進まないまでも結局は一緒に飲みに行く事にするのだった。

 英和にあった酒の飲み方というのは、常に腰を据えて飲みたいという些か主観に偏りがちながらも、他者の習慣を顧みない一般論にも似た概念を含んでいた。

 だが敢えてそれを強いる必要性があったのも事実で、酒の席に限らず、この前の喫茶店に銭湯、家を訪ねた時、遊びに行った時等、何時も僅か数十分で帰ってしまう康明の常軌を逸した行動を抑えたいという希望から生じたものだった。

 夏の夕暮れ時はその額にかいた汗を優しく浚ってくれ、他の季節のような憂愁感を齎さない。それだけでも幸いとも思えるのだが、黄昏れを求める英和としては少し物足りない感もあった。

 通い慣れた道にある歩道橋の下で待っていた康明はこの前の事など早くも忘れた様子で、軽い笑みを湛えながら立ち尽くしていた。

 その素っ頓狂な表情から神経が通っていないのかと訝る英和は、そんな短絡的な気持ちを抑えながら近づいて行き、こう念を押すのだった。

「おう、先に言うときたいんやけど、お前飲みに行ってまでソッコーで帰ったちすんなよ! それさえ守ってくれたらなんぼでも付き合ったるから、な!」

 康明はまた面倒くさそうに答える。

「あぁ、分かったから」

 そして二人は歩き始める。なるべく知り合いに会いたくなかった英和は路地ばかりを歩いて店に向かう。下町である地元に数ある酒屋の中から一軒を選ぶのも面倒くさかったが、やはり慣れた店が良いという事で二人はその店に入った。

「いらっしゃい!」 

 景気の好い声に誘われた二人は座敷席に坐る事にした。ここなら二人でじっくりと話が出来る。直ぐ帰る気にもなれないだろうと踏んだ英和だった。

 康明は好きなビールを頼み、英和も取り合えず初めの一杯だけはビールに付き合う。

「乾杯!」

 康明はそのビールをいきなり一気飲みしてしまった。愕く英和は一応拍手をして、

「お前、凄いな」

 とベンチャラを言うのだった。直ぐ様おかわりを頼んだ康明はその後も立て続けにビールを一気飲みし続け、何時の間にかその顔は赤く染まり出していた。

「おいおい、お前何しとんねん!? え! 大丈夫かいや!?」

 英和の言にも全く耳を貸そうとしない康明はついに疲れ果て、

「もうあかん、これ以上は無理や、悪いけど先帰るわ」

 と言って金をテーブルの上に置いて立ち去ってしまった。残された英和は何が起こったのか俄かには理解出来ない様子で呆気に取られていた。

 そんな状況を見ていた店主が駆け寄りこう告げる。

「おい英君よ、あの子大丈夫かいや? 言うたら悪いけどあの子多分病気やで、鬱病と思うわ、顔見て一発で分かったわ」

 確かにそんな気配はあった。だがあれだけ根明だった康明がそう簡単に鬱病に冒されるものだろうか。医学的な事などさっぱり解らない英和であっても、こう判断してしまう事も決しておかしくはないと思われる。

 喫茶店の時と全く同じ。これは夢なのか現実なのか。また後を追おうとした英和だったが、既に酒が入ったこの状況は幸か不幸かそんな短慮を封じてくれるのだった。

「親っさん、ま、心配せんとって下さい、あいつやったら直ぐにでも回復すると思いますわ」

 これはあくまでも自分に対する気休めだった。他者を通じ、声に出す事に依ってそれが恰も真実であるように自分に思わせたかったのである。

 動くのが面倒ながらも一人では悪いと判断し、自らカウンター席に移る英和。

「あ、悪いな、別に混んでもないからそのままでも良かってんけどな」

 と言って、店主もテーブルに置いてあった酒等をカウンターに運び込んでくれた。

 それから英和は店主や常連客達と語らい合いながら酒を飲んでいた。取るに足りない他愛もない世間話が殆どだったが、そこにも歴とした酒の席での温かい人情が通っていてそれなりに盛り上がる一同だった。

 2時間ぐらいが経った頃、ふと気付くと、座敷に居た女性同士のグループが席を立ち店を出ようとしていた。

 その中に何処かで訊き覚えのある声が混ざっていた。その方向に目を向ける英和。彼の目に映ったのは直子だった。恐らくは会社の付き合いか何かだったのだろう。彼女は相変わらずの朗らかな表情で皆と打ち解けるように佇んでいた。

 何故今まで気が付かなかったのだろう。さっきからその声は聞こえていた筈だ。それなのに何故。

 だが今更会った所でどう対応して良いかも解らない英和は、その顔を伏せるようにしながらも彼女達の動向を横目で窺っていた。

 料金を支払った一同は店先で少し語らった後、当たり前のように帰って行く。

 この時英和は気恥しさと悔恨と切なさが同時に襲い掛かって来る気配を感じたのだった。それは余りにも残酷な、可愛らしさを微塵も感じさせない羞恥と、取返しが付かないのではないかと思われるほどの悔恨に、何のドラマもない切なさであった。

 悲嘆するでもなく、慌てるでもない英和は呆然とした様子で酒を飲み続けた。酒だけがその気持ちを紛らわしてくれるのである。何故気が付かなかったというよりも、何故こんな時に直子の姿を見てしまったのだろう。これは偶然なのか、それとも因果因縁なのだろうか。

 神経質な彼は勝手ながらもこんな思惑を巡らすのだった。

 それからの英和は打って変わって誰とも話さず、いい加減な相槌を打つ程度でひとり酒に酔いしれていた。彼が独りの世界に埋没する際の決まり事は夢想であった。

 その夢想の裡に観る世界にはこれまた決まって誰かが登場するのである。その者は英和の肩をそっと叩き、優し声を掛けて来る。

「何しとん? また起きたまま夢でも観とん? 早くせんとあの樹に辿り着かれへんで、さ、早く行こうよ!」

 これは以前観た夢と全く同じだった。その時は結局その大きな樹に辿り着く事は出来なかった。どうせ今度もそうだろう。

 そんな風に相変わらず物事を悲観視する彼は、ここに来て感覚的、肉感的な刺激を味わうのだった。

 思わず振り向いた眼前に直子が立っているではないか。これは幻なのか、いやそうではない。今覚えた肩の感覚は確かに人為的なもので、夢などではない。直子はそのまま隣に坐ってまた可憐な笑みを浮かべる。

 我に返った英和の耳には常連客達の笑い声が聞こえて来る。そんな中、改めて対峙する二人はまだ幾ばくかの蟠りを残しながらも、決して卑屈になる事もなく、飲み直しと言わんばかりに明るい面持ちで酒を酌み交わすのであった。

 

 

 

 

 

 

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