人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  十七話

 

 

「はぁ~......」

 道中で先程から何度となく耳にする義久の溜め息。英和には単にパチンコに負けた悲嘆だけを表しているようには思えなかった。

 人が時として覚える嫌な予感とは当たり易いものなのだろうか。逆に良い予感などは当たらないどころか、した事すら殆ど記憶にない。

 それは取りも直さず英和という男の小心で悲観的な人物像が窺い知れる自明の理で、哀れむに足る苦労性など廃棄した方が良いというのが皮肉を込めた世間の一般論かもしれない。さりとて本能や理性、偶然必然を問わずそれを感じる事が出来る、元来人間に備わった性能というものも実に侮り難いもので、その性能無くしては備えあれば憂いなしという故事なども成り立たないのではあるまいか。

 夜風が必要以上の冷たさで頬を突き刺し余所余所しく通り過ぎる。肉感的な刺激は精神にも影響し、一抹の不安を投げ掛けて来る。

「おい義久よ、お前落ち着かへんな~、何や? 焦っとんか?」 

 つい言葉に表してしまった英和の本意は義久を苛立たせる。

「あ~、先になんぼ奢ってくれるんか教えてくれへんか?」

 意味不明、理解不能。彼は一体何が言いたいのだろうか。いくら奢ってくれるなどという言葉は訊いた試しもない。

 義久の性格を熟知していた英和であってもこれだけは見当もつかない。いくらとは読んで字の如く金額を指しているのか。もしそうなら飲み食いしてみない事には分からないし、遠慮しているのなら水臭いとも思える。

 だが義久の表情から遠慮などという思惑は些かも感じられない。ならば何なのか。答えに窮する英和の様子を訝る義久はまた同じ事を訊いて来るのだった。

「だから、なんぼ奢ってくれるんやって? はっきり言うてくれや!」

 その無駄に強気な義久の態度に反感を覚えた英和は売り言葉に買い言葉といった感じでカマシを入れる。

「何どいや? 何怒っとんどいや? せっかく奢ったる言うとんのに、お前まさか金が欲しいんか? 現金かいや?」

 それでも義久は何ら悪びれる様子もなく至って平然とした面持ちで答える。

「そら金しかないやろ? 他に何があんねん?」

「......はぁ~」

 今度は英和が溜め息を零す。こいつは何を言ってるんだ、何故そんなに賤しいんだ。これが長年の付き合いである親友ともいえる者の言う事なのか。

 返って自分が情けなく思えてしまうこのやりとりは一瞬にして場を凍り付かせ、優柔不断な英和をさえ呆れさせるに十分だった。

「お前な、普通奢る言うたら飲み食いの事を言うやろ? ちゃうか? 誰が現金奢ったらんとあかんねん! そんなんやったら止めとこか、行く気失くしたわ、アホくさ......」

 義久は尚も食い下がる。

「それはあかんで、奢る言うてんから奢って貰わんと困るでな」

「われダボちゃうんかい眠たいんちゃうんかい! 誰も金あげるとは言うてへんでな、それとも何や、契約書でも交わしたんか? 冗談は顔だけにしとけや」 

 流石の義久もここまで言われて黙ってはいなかった。

「舐めとんか? おー?」 

 英和は必死に堪えていた。これ以上は何を言っても同じだろう。ならばいっそ叩きのめしてやるか。いくらなんでも義久如きの負けるとは思えなかったが、本当に手を上げてしまえば弱い者虐めになってしまう。

 それは己惚れではなくせめてもの慈悲、そして幼馴染であるが故の腐れ縁から来る哀れみを加味した人情。貧しい家庭に生まれ育った両者の本音は必ずしも金の貸し借りを否定するものでもなかったが、ここまで露骨に言われてしまえばどうしても憤りが込み上げて来る。

 飲みに行き、酒を酌み交わしながらならたとえ少額でも貸してやらない事もなかったのに何故彼はここまでの短慮に失するのだろうか。一応大学も出ていて学歴も上、勤め先もそこそこの企業で英和のような塗装工よりは収入も多いだろう。それなのに何故こんな不甲斐ない姿を躊躇する事なく露見しようとするのか。

 無駄な論議を好まなかった英和は人情に負けて何も口にしないままに3000円という金だけを渡す。受け取った義久は物足りないと言わんばかりの顔つきで、謝意の欠片も感じられない軽い礼だけをして背を向ける。

 やはり康明が言っていたように義久などとは縁を切った方が良かったのだろうか。今となっては悔いても及ばぬ事だが、その康明とも仲違いしてしまった英和は改めて孤独を感じる。

 この孤独も自らが欲したもので所詮は自業自得なのかもしれない。しかし全く非がないとは言わないまでもそこまで卑屈になる必要もないだろう。

 狷介な者に鷹揚過ぎる者、楽観的過ぎる者。この三者は何れも極端な性格で絆を深める事には無理があるのだろうか。だがそんな三人だからこそ釣り合いが取れるような気もする。

 一筋縄でいかない人生だからこそ面白いという者もいる。それは漫画やアニメ、ドラマや映画といった物語に代表されるように起承転結、紆余曲折。色んな出来事があってこそ成り立つストーリーであろうとも、とにかくシンプル好きな英和としてはその色んな事自体が鬱陶しく思えてならなかった。

 だからといって順風満帆過ぎるのも好きではない。ならばどうすれば良いというのか。自分が思い描くストーリーでなければならないのか。それこそ不可能だろう。

 何れにしても儲けた事で少々舞い上がっていたとはいえその好意が仇になろうとは。ここ最近の内省は逆に自壊を欲し、酔う事でそれを充たそうとした英和は純然たる面持ちで独り酒屋へと向かうのだった。

 

 いつの間にか訪れていた冬という季節は人に何を告げようというのだろうか。ただ寒さだけを漂わす冬に見る夢とは。

 酔い潰れて帰って来た英和はそのままの状態で眠りに就いた。毎晩のように夢の世界に誘われる眠りが浅い彼にとって酒はどう影響して来るのだろうか。

 目の前は見渡す限りの雪景色。その白の情景は寒さという現象を除くと春や秋にも勝る優美な見晴らしで、白一色で塗り潰された光景には全てを無に還すような愛憐に充ちた神々の意思が感じられる。

 降る雪は緩やかな風に舞いながら蛍の光のように明滅している。それは見方を変えると夥しい霊魂の欠片のように、亦無数の星屑のようにも映る。

 積もった雪道は歩くのに多少困難ではあったが、まるでホットケーキの表面のようなふっくらとした形は美味しそうにも見え、行く先にあるであろう何か得体の知れぬ存在には幻の中にある壮大な威厳を放ちながら待っているような漂いが感じられる。

 後方から差し込む陽射しに依って作られた全面にある自分の影を踏みながら歩いていると、今現在の自分を踏みにじり、打ち砕き、潰しているような錯覚を覚える。でもそれは英和自身が望んでいた事かもしれなく、内なる咆哮を躊躇う事なく外界に向けて発射出来るこの空間は有難い限りだった。

 蛍の光と星屑はその艶めかしい姿を保ったまま彼の案内役に勤めてくれていた。分かれ道すらないこの空間でまで迷う彼でもなかったが、妖精のような可憐な笑みを浮かべながら案内してくれる姿は何処か面妖な雰囲気もあった。

 こういうシチュエーションでありがちな少しでも後ろを振り向けば忽ちにしてこの世界が消えてしまう、そして自分の存在さえも抹殺されてしまうといったストーリーは英和の欲する所でもあったが、今回だけは敢えて振り向かない事に徹していた。

 それは当然の事ながらこの夢物語の結末を見たいという好奇心と、いっそこの世界に未来永劫浸っていたいという現実逃避な思慮に依るものだった。

 もうそこそこの距離を歩いたに違いない。でも心身共に全く疲れてはいない。これこそが幻の世界に与えられた特権であるのだろうか。音すら聴こえないこの状況はシンプル好きな彼にとってもまたとない絶好の機会で、遙か彼方に聳えている筈の水平線すら見えない一面の白の情景は来る者の心を浄化し、喜怒哀楽全ての感情から解放するほどの力を顕現している。

 もしかするとこの中にあってまだ感情に苛まれているようであれば、彼は永遠に人間としての性能を失ってしまうのではなかろうか。その不安すら災いするのだろうか。いや、ならばこの世界に誘われた意味そのものが無いという事になってしまう。

 ならば何も感じず、何も見ないようにして進んで行くしかないのか。英和はそんな訳の変わらぬ問答を繰り返しながらもひとまず目を瞑って歩く事にした。

 何もない空間の中にも風を受け、雪道を踏みしめる感触だけは辛うじて伝わって来る。風を受ける頬は少し痛く、足音は鈍い金属音のように聞こえる。音にも敏感だった彼は一旦休もうとした。すると何処からか鳴り響く声に気付く。

「何休んでるんだ、早く来いよ、間に合わないぞ」

 その声に一瞬怯みはしたものの、何処か崇高で神秘的で透き通るような美しい声には人を癒やす優しい心根が窺える。それは夢とはいえ何処かで訊いた声のようにも思える。だがどうしても思い出せない。

 とにかく歩き続けるしかない。疲れを知らないこの世界で歩き続ける事だけは至って簡単だった。もはや妖精の案内すら要らないこの道は英和の心理状況をそのまま画にしたようなものであった。

 ようやく辿り着いたであろうその場所には雪さえもない、何もない情景が待っていた。これが無なのだろうか。無というものを人間が感じる事など出来るのだろうか。これ以上は進めない。かといって戻る事も叶わない。

 そこでまたもや先程の声が聴こえて来る。

「やっと来たか、ここがゴールではないぞ、分かってるな、問題はこれからだ、言うまでもないが決して戻ってはいけない、立ち止まってもいけない、どうするかはお前次第だ、いいな.......」

 行も退くも出来ないこの状況に於いて彼はどういう道を辿るのだろうか。徐に開けた目で見たものは部屋の天井だった。これは何の夢だったのか。いくら夢であるとはいえ自分でも説明のつかないこのストーリーは何を訴えようというのか。あの声は神の、天の声だったのか。

 目が覚めた英和が確かめたのは十数回にも及ぶ康明からの着信だった。こんな時間に何をしているのだ。致し方なく電話してみる。康明は一方的に言葉を放つ。

「おい、親父が倒れたんや!」

 その言葉は英和を戦慄させた。時刻は早朝5時過ぎ。彼は直ぐ様作業服に着替え家を飛び出して行くのだった。

 

 

 

 

 

 

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