人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  二十二話

 

 

      三章

 

 

 風が吹き付ける。そして当たり前のように流れ去って行く。川水も、海の潮汐も、人も動物も時も、森羅万象全てが一時たりとも留まる事なく常に変化しながら生滅を繰り返し世の無常を物語っている。

 不変性を夢見る者の心情に己惚れがあろうとも、そうありたいと願う心意気に偽りはなく、天為に準じ幾多の試練に立ち向かいながら己が信条を貫こうとする健気な姿にも美を感じなくはない。

  歳月人を待たず。二十代に別れを告げもはや35になる年を迎えた英和は、その月日の流れる速さに戸惑い、亦儚むようにして良く言えば仙人、悪く言えば世捨て人のような情調で万感の思いを胸に秘めながら日々を過ごしていたのだった。

 こんな風に物事を客観的に捉え始めたのも30を超えたぐらいからだろうか。それとも幼い頃からか。何れにしても彼に主体性が欠けていた事は事実で、何時も眼前の光景、そして自分の存在でさえも遠くから眺めているような節はあった。

 でもそれは物事を静観、傍観する無気ながらも狡猾な態度を示すものでもなく、あくまでも己が意思に依って生きて行きたいという本心に由来するもので、自分の意を介さないような事象にはたとえ仕事であっても気が乗らないといった些か我儘で主観的な考えであったのかもしれない。

 この事柄は如何にも相反し矛盾を来しているように見えるが、感覚的意識というものが本来人間に備わったものだと考えると何とか解釈の余地があるようにも思える。

 清らかな川の流れを止める事は出来ないし止める必要もない。海も風も人も時同じく。美しい流れにこそ美しい心、美しい物語がある事は言うに及ばず、それを見る者の感性にも美が要求されるだろう。

 無論それは醜い事から目を逸らすだけで手に入るような簡単な性能でもなく、否応なしにそちら側に目を向けざるを得ない時もある。そんな時にまで逃げるような所業は正に短絡的でしかも狡猾な、軽率極まりない愚行で、謂わば反対意見には一切耳を貸さない独裁者の如く稚拙で狭量な姿を体現しているようにも思える。

 とはいえ自分と対極に位置するような者を寛容な目で見る事は誰にでも出来る簡単なものでもなく、それこそ神仏や仙人にでもならない限りは至難の業だろう。か

 英和の優柔不断な性格はこういう所に起因していたのかもしれない。それが災いして別れる事になってしまったかまでは分からないまでも、直子に告げられた最期の言葉には優しくも厳しい哀切な響きがあった。

「あんたの考えとう事分からん訳でもないけど、今の私には無理があるかも、でもあんたの事は今でも好きやで、だからあんまり深く考えんともうちょっと肩の力抜いて生きて行って欲しいねん、私も独りになって生きて行くつもりやから.......。」

 こんな風に思われているであろう事は英和にも理解出来ていた。それなのに何時まで経っても逡巡と戯れ率直な行動が取れない自分自身に嫌気が差していたのも事実で、それを優しく見守っていてくれたのが直子だった。

 俺は何をそこまで悩み続けるのか、何が不満なのだ、どうしたいんだ。そんな自問自答が何年も繰り返される。その問いに答えはあるのか、出口はあるのか。それさえ分からない。分かっていればもっと早くに自分の道を発見出来ていただろう。

 迷いながら生きて行くしかない人間社会といえども、それを好んでいるように思える彼の人生にあるものとは一体何なのか。ただでさえ女性に対し奥手でもてない彼のような小心者に、直子のような美しい女性と別れる事は実に勿体なく思える。

 でも別れた今でもそこまでの悔恨はなく、頭が真っ白に、無機質な状態にさせてくれた直子には感謝している英和でもあった。

 彼は親方が亡くなってからも康明と共に仕事に精を出していたのだが、如何せんこの両者は営業力に乏しく、ついには会社が立ち行かなくなってしまい、英和は現場で知り合った大工の棟梁に雇ってもらい大工職人として、康明は定職には就かずにアルバイトなどをして生計を立てていたのだった。

 元々手先が器用であった英和には少々の大工の経験もあり、直ぐに仕事を覚え、他の職人達とも対等に渡り合うほどに習熟を深めていた。

 性格が不器用でありながら手先だけは器用というのも何とも滑稽で皮肉に感じる所だが、それで生きて行けるのなら僻むにも値しないだろう。

 しかし問題は人間関係で、いくら技術があっても所詮は中途採用で、中には遊び半分で弄って来る先輩もいたのだった。

「お前、ほんまは塗装屋の方が良かったんちゃうんかい? 毎日シンナー吸えるしな」

 英和は必死に堪えていた。そんな光景を眺めていた親方も英和の様子をしっかりと窺っていたのだった。

 いくら英和が惰弱な男であってもこんな先輩の一人ぐらい打ちのめす自信は十分あった。でもそうしなかったのは親方や先輩に対する非礼を考慮するだけではなく、あ亦年甲斐もなく暴れる事を恥じたり、その先輩を蔑む訳でもなく、ただひたすらに親孝行がしたいと念じる正直な心根から来るものだった。

 とはいえ先輩に対する恨みが完全に消えた訳でもなく、何とか今日一日をやり過ごした彼は依然としてやり切れない想いのまま帰途に就くのであった。

 

 家で夕食を済ませた頃、久しく会っていなかった義久から連絡が入る。また金の無心かと警戒する英和にもこの連絡には何故か気が逸り、無視する事は出来なかった。それは義久に対する哀れみなどではなく、旧知の仲が表す腐れ縁という事に他ならなかったのかもしれない。

 英和が一日の中で一番好きな時間帯であった夕暮れ時に、少し項垂れた様子で義久は現れる。相変わらずの何も考えていないようなその顔つきにも、悩み事をしているような感はあり、それを訝る英和はそれとなくこう切り出した。

「おう、久しぶりやんけ、何や、元気なさそうやけど何かあったんか?」

 義久は安心させる為か作り笑いをしながら答えるのだった。

「実はな.....」

  英和は途中で遮る。

「ちょっと待てや、また金の話か? それやったら無いからな」

 義久は溜め息をつきながらも慌てる事なく言葉を続けた。

「ちゃうねん、訊いてくれって、実は俺会社馘になってん」

「何でや?」

 その理由はらしいと言えば如何にも義久らしい実に浅はかで稚拙で滑稽な話で、同情にも値しない彼の勤務態度には笑わずにはいられないコント染みた物語があった。

 義久が言うそのコント劇とはこうだった。

 彼は生粋のパチンコ好きで入社当初から遅刻早退欠勤を繰り返し、前借りばかりをしていた為一ヶ月分の給料をまるまる貰った事は少ないぐらいだったという。そうなれば当然ボーナスなども無いに等しく、社内での人事評定も著しく低かったに相違ない。

 同期の者達がみるみる出世して行く姿を見て気が萎えたのか或いは初めからそのつもりだったのか、仕事も全く手につかず、あろう事か最近では出勤したあと、中抜けをしてまでパチンコに興じていたというのだ。

 外回りの営業職でもあるまいしそんな事をしてバレない訳はなく、最初は注意されるだけで済まされたものの、二度三度と繰り返すうちについには執行部に呼び出され退職勧告をされたとの事だった。

 それを訊いた英和は言う。

「お前、ダボやろ? そんな事ばっかりしとったら馘になるに決まっとうやろ、バカボンのパパやありまいし、何や、最初から辞めるつもりやったんかい? え?」

 義久は少し怪訝そうな表情を泛べたが、抗う素振りは見せずに淡々と語り続ける。

「でもな英、お前も何回かは経験あるやろ? 途中で仕事場から抜け出す時の昂揚感はたまらんでな、そこまで悪い事か? 犯罪でもないやろ?」

 ただ呆れる英和だった。でも経験がないまでもその気持ちは分からないでもなかった。その理由は国民の義務になっているとはいえ、勤労こそを美徳とするような日本の情勢に何処か疑いを感じるもので、真面目に働く者に対する礼賛とは裏腹に覚える客観的見地からの憂い心であった。

 とはいえ義久のよな短絡的な衝動を肯定するつもりなどは一切なかった。そしてそんな時にだけ姿を現す彼の温(ぬる)い性格にも憤りを感じる。でも今の英和は義久を咎める気にはなれなかった。

 彼といると何故か心が安らいで来る。自分でも不思議な事なのだが、強いて言うとすればこれだけの情けない話をいくら旧知の仲とはいえ何の躊躇いもなく、包み隠さずに打ち明けてしまうその余りの素直さに感服するといった所だろうか。

 それは上下二元論で論じるのも憚られはするが、自分よりも下に位置するであろう者と一緒にいる時に感じる生産性のない単なる気楽さのようなもので、何一つ飾る事なくありのままの剥き出しの心で話が出来るという空間の中には他者を思いやるという常識やモラル以前に、人間が持って生まれた正直な感覚的意思が無意識の裡に発揮されるのである。

 そこにある言葉は言葉ではなく情愛や情義、情念であり、表情や所作などは取るに足りない演出に過ぎない。だからこそ英和も義久を快く迎え、義久も深く考える事なく会いに来たのだろう。

 それにしてもこの両者の恋愛と仕事に纏わる失敗談はどちらが勿体ない話だろうか。何れも憂い憐れむに足るものとも思えるが、それを先に告げた義久の方に曲がりながらにも一分の理があるようにも思える。そういう意味合いでは義久にも或る種の度量の深さを感じなくもない。

 やがて日は暮れ、海は満ちて行く。遙かに聳える水平線を眺めながら二人は軽く笑って立ち去って行くのだった。

 

 

 

 

 

 

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