人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  七話

 

 

 幼い頃に夢や将来像を訊かれる事はよくあると思えるが、英和が夢見ていたものとは一体何だったのだろう。

 思い起こしてもこれといったものは浮かんで来ない。強いて言えばバスや電車、船の運転手に、野球やサッカー選手などの如何にも男子が謳いそうな定番の夢を発表していた覚えはある。でもその何れもが本気で抱いていた訳でもなく、あくまでも惰性で口にした余りにも漠然とした夢であった。

 無気力無関心だった彼に元々夢や目標などは皆無だったのかもしれないし、それを持たなければいけないような概念的な風潮自体に疑いを秘めていた可能性もある。

 それがここに来てとても人前で堂々と語る事は出来ないであろう、夢と呼ぶには浅ましく不純な或る野望を抱き始めていた。 

 新聞配達のアルバイトは一日も休まず真面目に熟していたものの、一度纏まった給料を手にするとどうしてもその邪な気持ちが込み上げて来る。

「林田君、一ヶ月ご苦労さん、よう頑張ってくれたね、はい給料、これからも頼むで」

「有り難う御座います」

 店主の朗らかな笑顔に感化された英和は取り合えず家に帰り、頂いた7万円の給料のうち2万円を母親に手渡す。すると母も喜んではくれたが、一応の念を押すのだった。

「なんぼ貰ったんか知らんけど貯めときよ、今はパチンコが流行っとうみたいやけど絶体行ったらあかんで」

「分かっとうて、あんなアホな事するかいや」

 裏表のない性格の母は息子の言葉を額面通りに信じ切っていたのだった。その人を疑う事を知らない生真面目な母の澄んだ瞳は返って英和の胸を苦しめる。

 そうなる理由はやはり彼の中にある邪念が自ずと後ろめたさを誘引していた事に尽きるだろう。まだ何もしていないのに罪悪感を覚えるのもその為だろうか。

 一瞬芽生えただけの単純な意思が時としては抑えようのない意志に発展してしまう事も往々にあるとも思えるが、その衝動を起こす人の感情に脆弱性があろうともどちらかというと悪い方向を示唆する時が多いと認識してしまう所以は経験不足が災いする浅はかな思慮に依るものなのだろうか。

 ギャンブルが完全悪ではないとしても、英和の親孝行したい意志に反してまで芽生えた純粋な悪の意思は刻々とその身体と精神に浸食して来るのだった。

 急いで夕食を済ませた英和は散歩と偽ってパチンコ店へと向かう。彼がパチンコをするのは実は今回が初めてでもなく、既に二三度の経験があったのだった。

 最初にしたのはまだ幼い頃で、父親に連れられてただパチンコ台のハンドルを握っていたぐらなのもか。次は義久と共に僅かな小遣いを叩いてまでした記憶がある。

 もはや訣別したといっても良い義久の事など思い出したくもない英和ではあったが、その時の昂奮だけは今でも忘れられず鮮明に心に刻まれている。

 そんな想いを胸に秘めたまま彼が訪れた店は家からは歩いて数分の所にある昔ながらのレトロなパチンコ店であった。時刻は午後6時過ぎでちょうどイブニングというイベントが行われている時間帯だった。

 それはセブン機ではどのような数字で当たっても交換しなくて済むイベントで、7時までのたった1時間とはいえ仕事帰りの客で賑わう店は一時的にも鉄火場と化す。英和は母に渡した分を差っ引いた残りの金を全て持参し、このイベントに掛けるべく素早く空いている席に着き颯爽と打ち始める。

 するとプレイし始めて僅か数分で彼はいきなり大当たりを掴むのだった。眼前でピカピカと光る数字は2のゾロ目だった。当時はまだノーマルリーチしか無く、三つ目の数字が何処で止まるかは全く予想がつかない。だがこのノーマルリーチこそが真のスーパーリーチのようなもので、三つの数字が揃った時の凄まじいまでの昂揚感は一瞬にして人の感覚を麻痺させる。

 理性が効かなくなるとはこの事だろうか。いくらギャンブルであるとはいえ高々目の前で三つの数字が揃っただけで恰も何千万もの宝くじでも当たったかのように動揺する人の気持ちとはどれだけ素直なのだろうか。人前で声を上げるほど勇気のある英和ではないにしろ、その昂奮は自ずと顔に出てしまい隣に坐っていた見知らぬ客までもがその喜びを共感するようにして拍手を贈ってくれる。

「お兄ちゃん良かったねぇ~、まだ連チャンするで」

 英和も思わず礼をする。

「ありがとう、姉さんももう直当たるでしょ」 

 普段なら冗談でもそんな社交辞令など一切口にしない英和だったが、ギャンブルという言わば麻薬のような遊戯は人の性格まで変えてしまう力を備えているのだろうか。 

 隣の人が言うように英和の台はその後も連チャンを重ね、見る見るうちに出玉は増えて行く。気がつけば足下には7、8杯の箱が積み上げられている。その光景を錯覚と捉える彼の心はそこから抜け出そうとする意思よりも、逆にこれで飯が食って行けるのではないかといった幻想に浸ってしまう。

 気付けば時間は9時過ぎ。連チャンが収まった頃合いで遊戯を止めるとカウンターには数十人という客の列が出来ていた。出玉を流し手にした景品のメダルを全て交換した金額は実に10万円を超える大金だった。

 人生で初めて味わった不思議な昂揚感。それがギャンブルという些か穢れたものであっても今の彼の気持ちに刺激を与えた事は確かで、滑稽ながらも不純な野望の達成感に酔いしれるその心は完全に足元を見失っていた。

 

 家に帰った英和は部屋で寛いでいた母に近付き、笑顔を見せて徐に語り掛ける。

「母さん、さっき渡した金は安過ぎたやろ、これも取っといて」

  そう言って渡された数万円の札を見た母は態度を急変させ、烈火の如く怒り大声を張り上げて襲い掛かって来る。

「何やこれ? パチンコでも行って儲けて来たんかコラ! えー! はっきり言うたらんかいや!」

 母が怒った時の恐怖を十二分に経験していた英和は返す言葉に詰まり、ただ身震いしていた。言論だけで言い負かす事は出来たかもしれない。だがそれをも超える母の強烈なまでの純粋な怒りは如何に論理的な反論をした所で収める事は出来ないだろう。

 そう悟った彼は敢えて抗おうとはせず正直に答える。

「そうやパチンコで勝ったんや、でもせっかくやねんから取っといてくれや」

 母は暫く考えた後で手渡されたうちの半分の金額を受け取りこう言うのだった。

「遊び程度でするんやったらええけど、出来ひんのやったら今直ぐ足洗い、言うとう意味分かるな?」

 言うは易し行うは難しで、如何に母の言葉が胸に響いた所で今の英和にはそれを実際に体現する事が出来るのだろうか。

 朱に染まれば赤くなるとは言うが、その朱が明らかな悪であった場合に生じる人の警戒心は無意識の裡に発生しようとも、抽象的なものであった場合にはつい戸惑ってしまうのも人の性ではあるまいか。

 無論それを盾にして防御を敷くつもりは無いまでも、母の言う節制する必要性と英和の芯の弱さを比較した時、自ずと英和の薄弱な精神が負ける事は目に見えていて、それをもカバーするような強靭な力や奇策などはこの世に存在しないとも思える。

 自室に上がった英和はドアを閉め窓を全開してから横になる。涼しい夜風は多少なりともその身体を癒やし、脳に対する優しい刺激は恍惚感さえも与えてくれる。

 彼の心の葛藤はギャンブルだけに収まらず、母に言われるまでもなく先んじて発生していたもので、それを払拭するにはまだかなりの時間が掛かるだろう。甘える訳でもないがその中に僅かな功名を見出す手掛かりがあるとすればそれは何なのか。今か将来か過去か、それとも来世か。

 生きとし生けるものが赴かざるを得ない果てしなく続く心の連鎖。それを超えて行こうとする心意気にこそ真実があるのだろうか。

 英和が持ち帰っていた一個の真ん丸なパチンコ玉は一時的に静止する事はあっても、平坦な床に置くと一定の姿を現そうとはしなかったのだった。