人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  二話

 

 

 一緒に銭湯に行こうと提案して来た義久という友人は英和に輪をかけて口数の少ない人物であったが、一言に大人しいといっても少々短気な英和と比べて遙かに鷹揚なその為人は康明同様に或る意味では真逆なタイプのようにも思える。

 それを証拠に恐らくは喧嘩など一度たりともした事がないであろう平和主義に徹する義久の信条は、今の時代には大いに賛同を得ていた可能性はあるだろう。

 保育所からの付き合いであるにも関わらず英和とは口論をした事すら殆どない義久であっても、誰とでも話を合わせられるような器用さまでは持ち合わせておらず、彼なりの生き方があった事も理屈抜きに感じられる。

 だからこそ英和としても康明以上の親近感を持ち、どんな事でも包み隠さず話が出来るその間柄は親友といっても過言ではないだろう。 

 小さな町にも当時はまだ選ぶほどの銭湯が多く存在しており何処へ行っても良かったのだが、二人は家から一番近くにあった大藤湯に行く事にした。その理由は比較的客が少なく、何時も悠々と風呂に浸かる事が出来、一目を気にせず色んな話に花を咲かせる事が出来るといった些か短絡的な思考から来るものだった。

 英和にとっても大袈裟に言えば育ての風呂とも言えるこの店のドアを開けると、番台に坐っている経営者が愛想の良い声を掛けてくれ、250円とう安価な料金を払って脱衣所で素早く服を脱ぐ。

 そして風呂場に入ると凄まじいまでの湯気が立ち込めるその空間には、まるで霧に包まれた湖や森林、或いは先の見え難い高速道路のような幻想的にも少し胸が高鳴る異世界にも似た感動を覚えなくもない。

 真っ先に椅子に坐り頭を洗い始める義久に対し、それを嫌う英和は真っ先に湯舟に浸かり疲れを癒やすが如くその快楽に酔いしれていた。

 そしてようやく入って来た義久に徐に話し掛ける。

「そんな綺麗に頭洗ってどないすんねん? で、学校はどないなん?」

 訊かれた義久は何ら躊躇う事なく答える。

「そうやな、相変わらずおもんないけど、はっきり言ってどうでもええわ」

 これは英和にとっても想定内の意見で、物足りなさを感じた英和は思わず義久の噂話の真相を確かめようとする。

「ところでお前、同級生からビビられとうたしいやんけ、何かしたん?」

 義久は少し怪訝そうな顔つきをしたが、その余りの楽観的な為人は他者に対して警戒を敷くという策を講じようとはしない。

「その話か、あれは周りが勝手に思い込んどっただけやねん、俺もまんまと神輿に乗せられてもたけどな、情けない話やで」

 詳しく訊いてみた所では義久は高校に進学した当初、出身中学が結構有名な武闘派で知られていた事もあって、同級生から畏怖される存在になっていたのだとういう。

 だが義久自身は全くの無名であり、怖れられていた理由はあくまでもその出身中学の名前だけに起因するものだった。

 それなのに要以上に持て囃して来るものだからつい乗せられてしまったというオチなのだが、論理的思考を巡らす事に乏しかった彼は冗談半分とはいえ後先を考えずその神輿に自らが乗り込み、学校の廊下などを肩で風を斬って歩いていたらしい。

 入学当初の数日はそれだけでも流石と言わんばかりに感動していた同級生達であろうとも、若者のネットワークの敏なる事は日が経つに連れ見事に真実を暴き出し、義久の為人は確かめるまでもなく暴かれてしまうのだった。

 その後の義久が一気に窓際に追いやられてしまった事は言うまでもない訳だが、いくら旧知の仲であるとはいえ自らがその諸事情を包み隠さず話してしまうという彼の全く裏表のない、馬鹿正直で屈託のない性格も英和にとってはやはり羨ましく思える。

 普通ならまず黙っていそうなものだが、義久という男には恥も外聞も何も備わっていないのだろうか。でも自虐的とはいえ面白い話でもあり、話題に欠く事は無かった。

 二人がそんな話で盛り上がっていると常連の客達が入って来る。地元で知り合いが多かった為、英和は愛想良く挨拶をしていたのだが、義久はまるで対岸の火事を決め込むようにただ一瞥するだけで決して言葉を発しようとはしない。でありながらも、

「あのおっさんよう知っとんねん」

 などと戯言を口にする彼に対し、英和は今更ながらにその神経を疑う。だがそれをも覆すような義久の呆気らかんとした表情には皮肉を含めた器の大きさも感じられる。

 そうして風呂を上がって脱衣所でまた語らっている時、義久は神妙な面持ちで言葉を告げるのだった。

「英、お前最近康明と単車乗っとうらしいやん、俺も寄してくれや、ええやろ?」

 英和は考え込んでいた。四分六で付き合いの長い義久を仲間外れにする事は確かに冷たい仕打ちかもしれない。しかし大人しい性格に加えて運動神経も低いこの男を入れてしまえば返って足手まといになる可能性も否定は出来ない。とはいえ三人で連るめばもっと楽しくなる可能性もある。錯綜する想いは繊細な神経を持つ英和を大いに悩ませ容易く答えを出そうとはしない。

 遠き慮りなければ必ず近き憂いありとは言うが、それがいざ身近な者同士の話であった場合にこそ当事者として最善の策を取る事は返って難しいのではなかろうか。無論それを理由に短絡的な行動に出るつもりもな英和は取り合えず返事を保留する事にした。すると義久は少し暗鬱な表情を泛べて言う。

「ま、考えとってくれや」

「分かった」

 たったこれだけのやり取りで会話は終わってしまった。未だ葛藤する英和は己が言葉の足りなさを悔いていたものの、義久のおぼこい顔つきはその憂慮がまるで杞憂に過ぎなかったかのように優しく解き解してくれる。

 必要以上に思慮を深めてしまう英和はやり神経質なのだろうか。風呂上りに湯冷めする事を懸念した二人はあっさりと帰途に就くのだった。

 

 家に帰った英和は時間的な事もあり直ぐに横になり布団を被って眠りに就く。浅い眠りが幸いして夢を観る事はなかったものの、夜中にトイレに起きてしまった彼は徐にテレビをつけて窓を開け煙草に火を付ける。

 深夜という事もあり既にテレビ放送が終わっていたこの状況に思い付いた事はゲームであった。ゲームが好きだった彼は何度もクリアしていたドラクエをし始める。

 ドラクエシリーズで一番好きだったのは3だった。世界地図をモチーフにしたこのゲームは自らが世界旅行をしているような旅情を味わわせてくれる。各地にある城や町、洞窟や祠、ダンジョン等はロールプレイングゲームを好む者を魅了するに十分で、つい嵌り込んでしまうといった依存性を齎して来るのだが、繊細な割に少しせっかちな英和は戦闘が多いダンジョンを嫌い町の近辺で小銭を貯め、武器防具を買い揃えるといった姑息な手段で冒険する事が多かった。

 銅の剣から鋼の剣に格上げした時の昂揚感はたまらなかった。攻撃力が一気に跳ね上がるのを確かめるとまるで最強の戦士にでも成ったかのような錯覚を覚える。ただでさえ虚像の中で体験している事をさも実体験かのように感じてしまうゲームという媒体は人の神経を麻痺させてしまう力を持っているとも思える。

 それを免疫が無い幼子がプレイした場合に引き起こす副作用には麻薬のような悍ましい幻覚を与える力があるとも思えるが、ネット社会同様それが当たり前と思い込んでいる世代にとってはそれを省みる思考すら働かないのではなかろうか。

 それにしても早くクリアしたいと思っていた英和はその幻覚からいち早く脱する事よりも、ただ物事をシンプルに済ませたいという感覚の方が勝っていたのかもしれない。だとすると一体何から脱出したいというのか、何から逃れたいとうのだろうか。現時点ではいくら考えても答えが出ない。

 母を心配させる事を怖れた彼はキリの良い所で自ずとゲームを止めるのだった。そしてまた眠りに就く。今の彼には康明や義久の事よりも自分の事で頭が一杯だったのであろう。彼等を利用するつもりなど一切無かったまでも、とにかく他者を気遣う事を知らなかったのかもしれない。若気の至りとはいえ余りに軽率なその考え方はこれからの人生にどう響いて来るのだろうか。それすら憂慮せずに眠る彼の表情は意外と安らかなものだった。

 

「ご飯出来とうで~、早よ起きよ~」

 母の軽快な声は家中に木霊していた。それを訊いた兄弟は颯爽とダイニングへ赴き朝食を取る。弟の英之は真面目に食事を済ませ中学校に登校する。妹の由佳は女同士という事もあったのか母と大いに語らってから小学校に登校する。

 そして一番距離が離れているにも関わらず悠然と登校する英和はただ余裕をカマシていただけのようにも見えるが実はその限りでもなかった。

 それを誰よりも感じ取っていたのは他でもない母だったに違いない。でも母は大した事は口にしなかった。そこにも親心があったのだろうか。何時ものように、

「行ってらっしゃい!」

 と優しく声掛けをしてくれる。登校するのにも余り気が進まない英和だったが、思いの外足取りは軽い。それは貧しい家庭ながらも高校へと進学させてくれた親に感謝する気持ちと、ただ暇を潰せるという主観に依るものだった。

 昨晩ゲームに夢中になっていた所為か朝露に濡れた樹々から零れる水滴を確かめた彼はここに来て初めて曇り空である事を知る。空を見上げると一時的に止んでいるとはいえ今にも雨を降らせるような積雲が幾重にも重なりあって黒く映るその光景は、案ずるよりも先に英和の心を弾ませる。

 傘を持つ事を嫌う彼はそんな空模様を逆に味方に付けたかのような頼もしさを胸に快活に歩き始める。学校の授業も手に付かないこの状況で登校した所で彼は一体を求め、何を得て帰って来るのだろうか。

 自分の将来にさえ然程感心がない英和は真に繊細な人物と言えるのだろうか。また俄かにパラついて来た小雨はじめじめとした湿気を以て、彼の心情を見透かすようにその身体に直接浸透来るのだった。