人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

阪神大震災27年 「神戸の壁」 ~テレビ初出演

 

 

          麗らかな  自然美さえも  無常かな  

 

 

 1.17。地元神戸民としては実に感慨深いものがあり、毎年この日が訪れるとどうしても胸が痛くなります。

 震災について語り出せば何時間あっても足りないぐらい色んな思い出がありますが、今となっては遠い昔の話で、懐かしくさえ感じます。

 一言にノスタルジックと言っても、そこには当然失われたものへ対する万感の思いがあり、憂愁に包まれる心の中に光を当てる事は容易ではないでしょう。

 震災自体は勿論、今日はその辺の人の心情といったものを中心に語って行きたいと思います。

 

地震に依る衝撃

 当時自分は18歳で、高校三年生でした。年が明けてもはや卒業を待つばかりのその時期は学校も殆ど休みだったのですが、1995年(平成7年)の1月17日は三連休明けで、登校する予定があったと記憶しています。

 それがこの日の早朝5時46分。地震は起こりました。新聞配達のアルバイトをしていた自分は5時過ぎには配達を終え自宅に帰り、それから約1時間の仮眠をとってから登校していました。

 ただ横たわっているだけの浅い眠りの中に、はっきりと感じた地震の揺れ。その揺れはそれまでに経験した単なる地震ではなく、凄まじいまでの強大な烈しい揺れで、怪しく禍々しい気配が伝わって来るのを感じました。

 はじめの揺れは単なる何時もの地震といった感じで、

「あ、揺れてるな」

 と何気ない漠然とした感覚しかありませんでした。

 しかしその横揺れは数十秒と実に長く続き、違和感を覚えた瞬間、

「ガーン!」

 という感じの強烈な縦揺れが襲って来ました。

 そんな揺れを感じたのは生まれて初めての事で、一瞬身体が宙に浮いたような感覚に見舞われた自分には戦慄が走りました。

 これは只事ではない、本格的な地震だ。小さな部屋に置いてあった家具類が寝ている自分の身体に覆い被さり、自力では起こせない状況に陥りました。幸い真冬という事もあって分厚い掛け布団を被っていたので怪我などはありませんでした。

 弟に助けて貰い何とか身を起こし外に出てみると、そこには昨日までとは違う、大袈裟に言えばまるで異世界、世紀末のような悲惨な光景が広がっていました。

 自宅の損壊状況はそれほどでも無かったのですが、周りには全壊した人家も多数あり、地震の強さをまざまざと感じました。

 いくら大地震とはいえこんな簡単に建物が潰れて良いものかと思いましたね。いくら自然が好きな自分でも、この時ばかりは自然の力を恨みました。 

 近くの商店街では大火災も起こり、紅蓮の焔に包まれ、みしみしと嫌な音を立てて崩れ去る家屋。或る人は泣き喚き、或る人は目を潤ませながらも必死に涙を堪え、歯を喰いしばって拳を強く握り締め、そして亦或る人はただ呆然自失とした表情で立ち尽くしている。

 天はここまでの試練を与えたのでしょうか。悲嘆に暮れる人達の姿はとてもじゃありませんが、直視する事が出来ませんでした。

 喜怒哀楽。この四つの感情の中の怒と哀は未だ消える事なく、その人の心に燃え続けていると思います。

 

復興

 良く言われる復旧と復興の違い。これをどう捉えるかは人それぞれの価値観に依る所が大きいとは思います。ですが、物事に順番というものがあるのなら、まずは復旧をしなければならないのではないでしょうか。

 震災後の普及状況には目覚ましいものがありました。当初は何処から手を付けて行くのかと不思議なくらいに感じていましたが、倒壊した建物は次々に解体され、空き地が荒野のように広がる地元の街は、もはや街ではなく、ただの土地、ただの地面、ただの学校のグランドみたいな風にも見え、そこには果てしない虚無感だけしかありませんでした。

 それを一日も早く復旧したいという想いは自然的ではあります。でも街をそこまで早く立て直す事自体に無理があり、不自然性があるような感じもします。

 

 震災後僅か数年間で街は見違えるほどに復興しました。知人にも、

「あの辺えらい綺麗になったなぁ~、え、凄いでな」

 などと言われた事が何度かあります。確かにその通りです。震災当初にここまで復興するとは誰が予想していえたでしょう。道路は綺麗に舗装され直し、高層建物が表す街の近代化は、以前の光景を忘れしまうほどに見事なものでした。

 神戸の長田という街は恐らくは全国でも有数の下町で、その情緒、義理人情、景観には他所には無い素晴らしい文化が内在されていると思います。

 それを復旧という名の復興が全てを無に還してしまったのです。綺麗な街には成りました。便利にも成りました。しかし、以前のような賑わいは無いに等しく、もはや下町の景観などは消え去ってしまったと言っても過言ではないでしょう。

 その事で運動をしていた地元の有志達もいましたが、今ではその力も弱くなり、結局は時代に流されるしかないといった現状です。

 最近になって伯父に言われた事があります。

「今の時代に下町の義理人情なんか言うとったら笑われるだけやで」

 と。そんな時代になった事は自分でも理解しています。でもそこまで露骨に口にする必要があるのでしょうか。余りにも無慈悲なのではないでしょうか。そこまで自分が保守的で、狷介で、古い型の人間なのでしょうか。

 愚痴を言っても始まりませんが、自分はたとえ万人に否定されようとも、こういった考え方だけは変えるつもりはありません。それが災いして失った友人も居ます。でもカッコをつける訳でもなく、後悔はしていません。

 はっきり言って今の世の中に足りないものは都会でもなければ田舎でもない、下町の存在だと確信しています。こればかりはそういう地域に生まれ育った者にしか分からない事かもしれませんが、下町文化というものの素晴らしさはなにものにも代えがたい、正に自然と同じ、人類の花鳥風月でもあるのです。

 この地域には震災の有無に関わらず、以前から再開発の計画があったと訊いています。何故お上は近代化ばかりを優先させるのでしょうか。何故古き良き文化を滅ぼそうとするのでしょうか。莫迦正直な自分はその疑いを葬り去る事が出来ません。

 でもテレビなどでは頻りに、

「震災を風化させてはいけない」

 とか相反性のある、尤もらしい事を言い続けています。これこそが社会の不条理で、言うなれば世の常なのでしょうか。

 そう簡単には割り切れない自分がいます。

 

テレビ初出演 

 

www.nhk.or.jp

 

 この番組にある「神戸の壁」これは自分も知りませんでした。情けない話です (;^_^

 ただこのギャラリーには結構足を運ぶ事があって、一週間ほど前にそこを訪れた時、たまたま撮影をしていたという事です。

 

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 ポケットに手を入れるな! という話ですよね(笑) 

 このニュース動画の5分17秒から23秒辺りでしょうかね。自分のような名もない凡人が数秒間も映る事が出来たのは嬉しく有難い限りです^^

 このギャラリーの直ぐ近くにパチンコ店があるのですが、馬鹿々々しくてとっくに足を洗った自分はそこに用事があったのではなく、他の用事を済ませた後、たまたまそこを訪れた時に、カメラに収まっていたようです。

 何か撮影をしているなとは思っていましたが、邪魔にならないよう端の方で写真を眺めていました。後にして思えばそのスタッフ達と二三話をすれば良かったなとも思いますね。

 様々なメディアがある今の時代にちょっとテレビに映ったぐらいでは何の自慢にもならないでしょうが、初めての経験だったので、これを知人に知らされた時はつい愕き、喜んでしまいました。

 この神戸の壁というのは本当に素晴らしいと思います。こういうものは未来永劫語り継いで行って欲しいですね。それこそが震災を風化させない志だと思います。

 

 世は人に連れ、人は世に連れ。去る者は日々に疎し。何れは忘れ去られてしまうであろう事を何時までも覚えておく事は確かに難しいかもしれません。

 でも忘れて良い事、寧ろ忘れるべき事と、忘れてはならない事は絶体にあると思います。人間にはそれを感覚的意識の中に蔵(しま)い込んでおく、優れた能力が備わっている筈です。それさえ放棄してしまえば人間という生命の存在価値自体がなくなってしまうような気もします。

 美しい樹々や草花でさえもその姿を変化させ、何れは枯れ果てて行きます。でも季節が来ればまた見事に咲き誇り、晴れやかな情景を齎してくれます。

 自分も自然のように前向きに、心身共に美しくありたいと願うばかりであります 😉

 そして被災された方、亡くなられた方々には改めて追悼を捧げたいと思います。