人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  最終話

 

 

 康明からの連絡は彼の母御が亡くなってから数日が経った、通夜も葬儀も終えた後だった。何故もっと早く知らせてくれなかったのかと訝る英和。たとえそれがここ最近の経緯に依るものであろうとも納得しかねる。

 でもそんな事を言っている場合でもないこの状況は英和の足を急がせた。目に映るもの、心に感じるもの全てが虚しさだけを表しているようだ。ちらほらと咲き始めた彼の大好きな紅葉にさえ何も感じない。こんな時に限って進行方向へと追い風が吹いていたのは皮肉以外のなにものでもなかった。

 康明の家は当然のように静まり返っていた。喪に服す彼の様子は凄まじいまでの憂愁感を湛えていたが、それ以上に伝わって来る彼の落ち着きの無さ、ぎこちなさは何を物語っているのだろうか。

 香典を置いて神妙な面持ちで線香を焚き、合掌礼拝する英和。寺社仏閣などで拝む際、何時も無心に勤めていた彼にも康明の母御の急死は未だに信じられず、この光景自体が幻であるかのような不思議な感覚を覚える。

 彼は実に長い時間拝んでいた。拝んでも拝んでも拝み足りないような気がしてならなかった。

「もうええやろ」

 冷たく低い声で口を開く康明の手元は震えていた。これは貧乏ゆすりの一種か、苛立っているのか。彼の情緒不安定を優しく見守る英和は一礼をしたあと、その肩にそっと手を触れ、暫く無言で康明を見つめるのだった。

 言葉にならない言葉、想いにならない想いが康明に告げられ、その後無慈悲にも儚く宙に舞って飛散して行く。

 今一度仏壇に向かい母御の顔写真を眺めると、その明るくも自分達の倍以上の辛苦を味わって来た豊富な人生経験に依る一人間としてのが慎ましやかな矜持が、慈愛に充ちた表情の裡に伝わって来る。身内でもない英和が言うのも烏滸がましい話だが、親方同様、奥方も安らかな気持ちで往生したように思われる。

 人の悪口や愚痴などを一切零さなかったこの二人の性格に特に感銘を受けていた英和は未だに未熟な自分を恥じていた。生まれ育った環境や親子の血筋、その人生観に於いても生じるであろう差異。だが彼等と接しているとそんな個人差すら言い訳に過ぎないような寛大な厳しさを感じていたのも事実で、不遜ながらも一目を置かざるを得ない英和であった。

 だからこそその空間の中には、康明との関係性などといった話が取るに足りない戯言となって自然消滅してしまうのだった。

 しかしこの世に不変の定理などは存在しなく、時代背景や状況に依って変化する事象は、英和のような神経質で人脈の薄い者をして更に看過出来ない由々しき事態を孕んでいるように見えて来る。

 未だに手の震えを抑えられない康明は、

「もう済んだやろ、悪いけど帰ってくれへんか」

 と不愛想な言葉を言い表すのだった。

 独りになりたい気持ちを斟酌する英和は何も言い返さずに大人しく立ち去る。その足取りは実に重く、哀切の情感を漂わせていた。

 ただ黙って部屋に居坐る康明はもはや抜け殻になった様子で食べるものも食べず、飲むものも飲まずに、項垂れて横になっては家の中を行ったり来たりと夢遊病のように彷徨い続けていたのだった。

 家に帰った英和は母と共に今回の不幸を悲しんでいた。一人っ子であった康明の気持ちは同情するに余りある。少し年が離れていたとはいえ数年前に亡くした父御に今回の母御。精神的には元気であった母御も寄る年波には勝てず、病に屈服したのだろうか。

 二人の親御さんの志、心意気、心根は息子である康明は無論の事、自分達にも確実に継承されているし、しなければならない。彼等から授かったものは言葉に表す事は出来ないまでも数に表すのも憚られるほど多く思える。

 そして早くに父と死別した英和母子は尚更その心の痛みが理解出来る。ただまだ幼かった英和と比べ、物心がついた、それもいい年になった康明にとってその傷心は如何ばかりであったろうか。まして一人っ子である彼には。

 英和の母も今直ぐ弔問に行くと言って支度を整えようとしていたが、英和がそれを制した。今の康明は誰とも会いたくないに違いない。それは少々筋の通らない、歪んだ優しさかもしれなかったが、母が行く事に依って康明がどういう刺激を受けるとも解らない怖さが無意識の裡に働くのだった。

 

 秋の陽気が何処となく鼻に付く。素直に喜べない英和だった。これも今回の事で動揺し、傷心している英和の心情を物語っているのだろうか。

 鮮やかに色づく紅葉はその美しさの中に哀愁を漂わせ、可憐ながらも大人びた風采で街路に屹立している。

 まだ咲き始めたばかりの紅葉から一片の葉が強い風に掠われ、艶やかに舞いながら地面に落ちて行く。勿体なく感じた英和はその葉を手に取って暫く眺めていた。この葉はこれでその生涯を終えてしまうのか、また土に還り、転生して華々しく咲き誇るというのか。

 それにしても早い、早過ぎる。人間の気持ちなど所詮は自然に届かないものなのか。人間生命は言うに及ばず、自然現象に対する反抗心が不本意ながらも生じてしまう。そこにある感覚的な意思は性格をも覆す強靭な刃となってその身体に込み上げて来る。

 何故優しさだけを表さないのか、何故惑わすのか。それならばもっと厳しく、秋霜烈日な勢いで世を席巻してはくれないものだろうか。そうしてくれたなら人も迷う事なく一筋の道だけを歩めるのではなかろうか。

 でもそれこそが贅沢で不敬不遜な、自分の弱さを棚に上げての訴えである事は英和も十分承知していた。だからこそ尚更惑うのである。何も考えないような気質ならどれだけ楽に生きて行けるだろうか。それが決して出来ない確たる理由でもあるのか。

 思いがけなく飛び込んで来たリフォームの仕事の段取りを入念に整えていた彼の下に一本の電話が入って来た。康明からだった。今になってどんな話があるのだろうか。話始める彼はまた深い葛藤に陥るのだった。

「おう、この前ありがとうな、取り合えず死んでくれへんか? 頼むから死んでくれや、俺の前から消えてくれや、な」

 葛藤の主たる要素は憤りだった。どのような状況にあっても言って良い事と悪い事の区別もつかないのか。そう思う英和は久しぶりに怒りを露わにする。

「お前ええ加減せーよゴラ! 何や、死んでくれて? 意味分からんでな、本気で言うとんか?」

 康明は躊躇う事なく続ける。

「本気に決まっとうやんけ」

「誰がモンキーやねんて言うたらんかいや!」

 康明も言った英和本人も全く笑っていなかった。それは勿論ウケ狙いなどではなく、何時如何なる場合に於いても余裕を持たせたいという彼なりの拘りから来ていた。

 今度は英和の方から一方的に電話を切る。するとその後間を置かずに何度も掛け直して来る康明。それでも頑なに電話に出ようとしない英和。両者の児戯にも等しいこんな争いも今に始まった事ではなかった。

 仕事の段取りを終え、一日を終えた所で改めて着信回数を確かめると、実に数十回という康明からの着信に愕く。そこまでして俺に死んで欲しかったのか。否、そこまで彼の心は疲弊し切っているのか。それでも電話を掛け直す気にはなれない英和は酒を飲んだあと、そのまま眠りに就く。やり切れない想いを胸に秘めたまま。

 

 数ヶ月後、英和は元の大工職人として立派に独り立ちしていた。田中さん宅のリフォームを完成させた功に依って様々な仕事が舞い込み、念願の一人親方となって日々を忙しく過ごす英和。

 その勢いに乗じて冴木の親方に頼み、村上健司をアシステントとして遣うまでに至ったこの現状は英和の母にとっても大変喜ばしい限りで、その雰囲気には洋々たる明るさが漂っていた。

 もはや兄弟同然の仲を呈する英和と村上の二人は仕事以外でも付き合いを共にし、酒は無論の事、魚釣りやドライブ、ツーリング、果てはギャンブルにまで興じていたのだった。

 しかし良い事ばかりは続かない。康明は何をどう血迷ったのか、自分の持ち家である実家を飛び出し、行方知れずになっていたのだった。それを間接的に訊いていた英和は何度となく康明に連絡するが一向に出る気配はなかった。以前のやり返しでもしてるつもりなのか。それを踏まえた上でも納得は出来ない。

 この日英和と村上は国道を単車で走り、舞子浜で休憩していた。昔康明と何度も訪れた事のあるこの浜辺。ここにある風景は何も変わっていない。そんな光景を懐かしむ英和はベンチに腰掛けながら村上に語り掛ける。

「お前、知っとうか?」

 間髪容れずに答え始める村上。

「知りませんけど?」

 英和は微笑を湛えながら話を続けた。

「まだ何も言うてないでな、ま、おもろいからええけど、須磨ぐらいから西に掛けて潮が速くなるねん、釣りしとったらよう分かるわ、とにかく西へ西へと浮きや釣り糸が流されて行くから」

「そうなんですか、それやったら投げ釣りが良いかもしれませんね」

 煙草を煙を吐いてから答える英和。

「そうやな、ところでお前、煙草の煙で輪っか作れるか?」

 普段煙草を吸わない村上は英和の吸いかけの煙草を拝借して見事な輪っかを作り出すのだった。それを見届けた英和は思わず拍手をして褒める。

「流石やな、何でも出来るねんな、油断しとったら立場は逆転するかもな」

 村上は愛想笑いで誤魔化し、柄にもなく英和を真似するように遠くに海を眺める。

 その横顔は相変わらずの美男子の装いを崩す事なく、見惚れるほどの浪漫に充ちた眉目秀麗な優しさを象っていた。

 不甲斐なくも静観する英和はこう告げる。

「お前、何でそんなに男前やねんて? 何か悩んだりせーへのか? ま、親っさんがヤクザの親分やったらそんな心配すら要らんか」

 村上はそのまま海を眺め、目線を動かさずに答える。

「親なんか関係ありませんよ、それに自分はあんな親好きにはなれませんし、知ったかぶりするつもりはないまでも英和さんの悩みにはだいたい察しが付きますよ」

 それ以上話さなかった二人はその静寂の中に口にすべき言葉を選んでいた。でも言葉は出て来ない。

 そしてその心は、この海の潮汐は何を物語っているのだろうかという自問自答に自ずと転換して行く。外から見る限りは美しい海面。だがその中にあるであろう凄まじい潮の流れは夕暮れ時の景色と重なり合って混沌とした情景を齎して来る。いっそ海に潜ってその心の流れを確かめたい衝動に駆られる英和。

 少し早くに姿を現した半月は夕暮れ時には冴えて映らない。切ない表情で佇む英和に対し、村上はこう告げる。

「そのうち報われますよ、余り深く考えない方が良いと思いますよ」

 その一言を胸に徐に立ち上がる英和はこう返す。

「そやな、考えても無駄なんかもな」

 短い夕暮れ時は贅沢な黄昏れを与えてはくれなかった。黄昏れを好むのも早過ぎるのだろうか。保守的過ぎる性格の為せる業なのか。

 蛍の光を華麗に明滅させる明石大橋を臨む海の情景。それは美しくも儚い、プラトニックながらもシリアスな浪漫を投げ掛けていたのだった。

 

                                  完

 

 

                   

 

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汐の情景  三十話

 

 

 時刻は既に午後11時を過ぎていた。街外れにぽつんと佇むこの店の賑やかな灯りは、外から見れば都会のオアシスのような感じに映るかもしれない。

 英和がこれまで飲んでいた酒の量は余り好きではなかったビールを康明に付き合ってグラス2杯、あとは自分の好きな焼酎ばかりを5杯ほどと、そこそこのものであった。

 でも彼はそこまで酔ってはいなかった。言うなればほろ酔い程度のものか。それは酒に強かったのではなく、寧ろ弱い方だからこそ思う存分酩酊出来なかっただけのような気もする。彼は元々賑やかな酒の席が余り好きではなく、そういう場所に自分が不似合いな人物である事を自覚していた。それでいながら酒屋などを訪れていた理由は言わずもがな酒自体は好きであった事と、少し意味合いは違って来るが、パチンコ店や都会の喧騒と同じく、群衆の中の孤独感に酔いしれたいという彼らしい発想から来るものだった。

 それに引き換え、直子は結構いい感じに出来上がっていた。顔は仄かなピンク色に染まり、可憐ながらも少し潤んだ酔眼はいまいち焦点が定まらない様子で、席に着くなり英和に凭れ掛かって来るのだった。

 彼女の身体から艶めかしい、懐かしい感触が伝わって来る。照れながらも平静を装いつつ酒を飲む英和はこう語り掛ける。

「えらい久しぶりやな、会社の飲み会やったん?」

 そんな話はどうでも良いといった雰囲気で朧げに話す直子。

バツイチの会よ、酒でも飲まんとやってられへんやろ」

 直子が結婚していた事は人づてに聞いていたが、離婚の話は想定外だった。彼女が結婚したと訊いた時は正に万感の思いで、慶賀、安心、妬み、悲哀、様々な想いが胸に込み上げて来たものだ。

 だがまだ独り身である英和であっても別れるぐらいなら初めから結婚などしない方がまし、寧ろ離婚する為に結婚しているのかといった少々傲慢で慈悲心に欠ける持論も有していたのだった。

 それこそ現代社会を客観的に見る憂い心の表れなのかもしれない。でも直子のような大袈裟に言えば淑女とも言える、亦交際していた過去のある女性に対しては如何にお節介でナンセンスであろうとも等閑視は出来ない英和。

「何や、俺もせっかく安心しとったのに、勿体ないなぁ~......。」

 直子は全く表情を変えずに酒を飲んでいた。

「何言うとん、ほんまは喜んどんちゃうん? 私は晴れて独り身になったんやで、これからは......」

「これからは、何?」

 少し間を置いて答える直子。

「何でもないわ、もうこんな話どうでもええやん」

「そやな、こんなおもろい話ばっかりしとう場合ちゃうわな」

「何処がおもろいねん」

 ようやく落とし所を見つけた二人は話を切り替え、昔話などをして談笑し始める。気を利かせてくれた店主は酔い覚ましにと大根のおひたしを作ってくれた。

 食べている時の直子の表情はやはり憂愁感を含んでいた。その上でも明るい話や気の利いた事を言えない英和は自分を恥じていた。しかし無理をしてまで繕った言葉に何の意味があるだろうか、それこ虚しさしか残らないのではなかろうか。彼女もさっきの酒宴で大いに弾けていたに違いない。もう結構な時間だし、落ち着く頃合いだろう。

 そう判断した英和は水を一杯貰い、飲み始める。すると直子は険しい表情で言う。

「あんた、何水なんか飲んどん? もう帰んの? まだ早いやん、今日は久しぶりなんやしもっと飲もうよ、今日は朝まで飲み明かそう!」

 急にハイになった直子に愕く英和。その昂奮の仕方は明らかにぎこちなかった。恐らく本心ではない筈。ここにこそ英和の出方が試されていたのだろうか。躊躇しながらも水を飲み、煙草をふかす彼は直子の所作に康明の姿を重ね合わせて思うのだった。

 直子に鬱病の気配は感じられなくとも、二人は或る種の病的な躁状態に陥っているのではないか。それは酒の影響に依る単なる昂揚感に過ぎないかもしれない。そんな光景は何度となく見て来た。でも今の直子にはそれとは明らかに違った彼女らしからぬ雰囲気が漂っている。それが何であるかは分からずとも。

 病気の気配がしないのに病的に感じてしまう。この相矛盾する二つの事象には医学だけでは説明をつけ難い、非合理的ながらも人間生命に由来する原理的な性質が内在されているような気がする。

 それは道理を弁えずに駄々をこねる幼子のようなもので、意思と感情の関係性に他ならない。つまりはそのバランス感覚が崩れ去り、一時的にも理性を失ったそれらが突発的に独り歩きしてしまうといった衝動を伴った意識現象のように思える。

 要約すると意思と感情はそれぞれが違う性質とはいえ、元は同じものという原理的思考に依る法則性が成り立つ。

 直子は更に昂奮して言う。

「もうええ、次行こ! な!」 

「何処にや? まだ飲み足りひんのか?」

「皆まで言わせんなって! あんたも行きたいんやろ? 正直なとこだけがあんたの取柄やったやんか、ちゃうの? 今更カッコつけるなって」 

 人間が硬い英和はこういうノリが嫌いだった。確かに直子が言うようにこれから二人っきりで時を過ごしたいというのが本音ではあった。でもそれこそ自分の正直な意思がそれを拒む。今でも直子を愛するが故の純粋な意思だった。

「今日は帰るわ、また今度落ち着いて会おうや、な」 

 直子は溜め息をついてから答える。

「今度はないよ、あんたもほんまに相変わらずやな、そんな子供みたいな気持ちでは何時まで経っても結婚出来ひんし世の中渡って行かれへんで、康明君にも嫌われる筈や、真っすぐ過ぎて怖いぐらいやわ」

 直子はそう言って店を出て行った。英和は何も言い返せなかったし、言い返そうとも思わなかった。

 既に酔いが覚めていた彼は、何時ものように項垂れた様子で家路に就くのだった。

 

 夏の終わりというものは何とも言えない切なさを漂わせている。ここ数年、いやその人生に於いて毎年のように夏らしい事を殆どして来なかった英和にとってもその切なさは少々の悔恨を含み、彼の特技とも言える虚無的で無機質な優しい追憶を儚さの中に誘発させる。

 ならば高校生時代のように水泳でもして夏を謳歌すれば良いとも思えるのだが、長年ギャンブルに嵌っていたとはいえ若々しい事を何もして来なかった所以は怠惰や自己欺瞞の下に成り立つ、要らぬ客観性を含んだ、主体性のない恣意的な世界観の解釈に浸って来た事に尽きるだろう。

 ただ爽快に空を飛び回る鳥のように成りたい。優雅に水中を泳ぐ魚達。すくすく育つ樹々や草花。獲物を狙い生殺与奪に明け暮れる野生の動物。朝になれば昇り、夕方には沈む太陽に、夜に現れる月。果てはそれを実証する地球や星々の自転や交転。

 これらは意識的に動き続けているのだろうか。もしそうだとすればどのような意志が働いているのか、無意識だとすればそもそも何故動いているのか。それこそが神秘的な原理性なのか。

 他者の事は解らずとも、一々考えて行動してしまう人間という生命の性を悲観視する癖のあった英和のような者はやはり安楽に生きて行く事は出来ないだろう。

 そんな折、彼の下に喫茶店のマスターから連絡が入って来た。今直ぐ店に来てくれないかとの事だった。

 英和は慌てる事なく悠然とした様子で店に向かう。道中に煩く聞こえて来る蝉の鳴き声を全身で受け止めながら。

 店に着くと何時もの調子でマスターと常連客が朗らかに語らっていた。この前補修した壁とドアは自分でもなかなかのものと思える出来栄えに見える。

「こっちこっち!」

 と声を上げるマスターに誘われてカウンター席に赴く英和。マスターの真正面には一人の年配の男性が落ち着いた様子でコーヒーを飲んでいる姿が目に映る。 

「どうしたんですかマスター?」

 訊いた英和の顔をじっくりと見つめる年配の男性。そして彼はこう語り始めるのだった。

「君か、この壁造ったんは?」

「はぁ、そうですけど」

 少し訝りながらも謙虚に答える英和。するとその男性は軽く頷いて言葉を続ける。

「なかなかの男みたいやな、いや実はな、わしの家もリフォームして欲しいんや、どうや、頼まれてくれへんか? わしはマスターみたいなケチちゃうから、思う存分好きなようにやってくれたらええで」

 英和は含み笑いを堪える事が出来なかった。これでまた大工として活躍出来るのか、また人生を謳歌出来るのか。その嬉しさは言葉では表現出来ないほどの、感覚を超越した理屈抜きの恍惚感を齎す。

 心の何処かではそうなって欲しいと願っていただけにその喜びは一入だった。それを露骨に表現する事を恥ずかしがる英和は改めて毅然とした態度を装いながら礼を言う。

「有り難う御座います、是非やらせて下さい、お願いします」

 英和の心境を見透かしていたのか、男性も含み笑いをしながら答える。

「そうか、やってくれるか、じゃあ頼むわ」

 工事の詳細と連絡先を訊いた英和はその男性の隣に坐り、気を遣いながらもお茶を飲み、その場をやり過ごすのだった。

「英君、良かったな、田中さんは金持ちやし人脈も広いから、先行きは明るいで、頑張ってな」

「ほんまに有り難う御座います、全てはマスターのお陰ですわ、これで自分も生まれ変われますわ」

「ちょっと大袈裟な子やな、はっはっ」

 優しい笑顔を見せる田中さんだった。

 意気揚々と家に帰る英和はその事を早速母に告げる。母も当然喜んでくれて、豪勢な夕食を振る舞う約束までするのだった。それも大袈裟だと感じた英和であろうとも、親孝行が出来ると確信する気持ちは紛う事なき満足感であり、思わず涙腺が弛むのを感じる。でもその涙は懐深く蔵っておいた。これも敢えて精神的豊かさを、油断を嫌う彼ならではの思惑だった。

 だがこの現状にあっては憂慮する事など何一つないような気もする。仕事を熟す自信は勿論、この期に及んでまでギャンブルに逃げる筈もない。その他取るに足りない悩みなどは身体を動かしてさえいれば自ずと消え去って行くだろう。

 まだ時間は早かったが祝いを兼ねて部屋で酒を飲む英和だった。この前の苦い思いで飲んだ酒の味を払拭させてくれるような甘美な香りが全身を包んでくれる。この優越感はなにものにも代え難い。未だ沈まぬ日にまで軽く礼をして拝む。こんな気持ちになったのは何時以来だろうか。覚えている限りでは幼少の頃ぐらいだろうか。

 早々と二杯目の酒をグラスに注ごうとした時、電話の着信音が烈しく鳴り響く。康明からだった。

「おう、どうしたんや、実は今日ちょっとええ事があってな......」

 康明は全く耳を貸す事なく、英和の言葉を掻き消すように低いトーンで喋り始める。

「おかんが死んでもたわ......」

 英和は電話を床に落としてしまった。今康明は何を言ったんだ、鬱病の影響で悪い冗談でも言ってしまったのではないのか。いや流石にそれはありえないし、言う方も受け取る側も不謹慎過ぎる。

 それでも一応訊き直す英和。

「ほんまかいや!? 何でや? おばちゃん元気やったやんけ!」

「ほんまに決まっとうやろ!」

 そう言ってまた一方的に電話を切る康明。

「プー、プー、プー」

 電話から聴こえる音は淋しさと虚しさだけを物語っていた。

 

 

 

 

 

 

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汐の情景  二十九話

 

 

 約束していた次週の水曜日、英和は喫茶店のリフォーム工事に取り掛かる。マスターから頼まれていたのは壁の一部とドアの補修であったが、それだけでは余りにも味気なく、亦補修した所が却って目立ってしまいセンスに欠くという理由で、厨房を除く三方の壁面の腰壁までの高さを新しくやり直すという提案をしたのだった。

 僭越ながらも謙虚に構える英和に対し、規模が大きくならない事を条件に快く承諾してくれるマスターの心根は有難かった。

 予算を気にする英和は前に見た覚えのある杉の羽目板を拝借しに、今一度康明の母御が入院する病院を訪ねた。

 母御も快く承諾してくれたが、その際に一言だけ告げるのだった。

「英君、家にあるもんなんかなんぼでも使ってくれてええねんけど、あの子の事頼むわな、あの子だけが心配でなぁ~......。」

「分かっています、康明君とは親友なんで、何の心配もいりませんよ、本当に有り難う御座います」

 受け取り方次第では取って付けたような台詞であろうとも、紛う事ない本心を謳う英和だった。

 元の親方である康明の父親は塗装以外にも建築関係を中心に色んな仕事や趣味を多岐に渡って熟していた為、自宅の倉庫にはありとあらゆる道具や材料等が蔵われてあった。中には絵画の道具までが置いてあり、何度も観た事のあるその数々の風景画には、親方の優しく誠実な為人と、精妙巧緻な技術、才能、感性が際限なく表れている。

 目を移すとまだ描きかけの人物画が壁に立てかけられてあった。康明を描いたものだった。まだ幼い頃、恐らくは小学生時分の彼の絵か。まだ輪郭も定まらない、あどけない表情で微笑を浮かべる彼の顔は一切の穢れを知らない純粋無垢な、正に昔の康明そのものだった。

 この頃は皆同じであろうとも、写真ではなく絵として見た場合に感じられるその形容し難い幻想的にも抒情的な情景は、親方の素晴らしい写実性を以て更に引き立つ。

 残るは顔と背景の細かい色付けぐらいなものか。これを完成させる前に他界してしまった親方の心中は如何ばかりだったろうか。 

 つい昔を懐かしむ英和は一時的にもここ最近の康明との経緯を忘れ、彼がこの絵を完成させてくれる事を願わずにはいられなかった。

 そうして英和は大切に保管されていた羽目板と少々の材料、道具等を拝借し、知り合いの壁紙店でクロスを買い求め、現場である喫茶店に向かう。

 店では愛想の良いマスターがテーブルや椅子を隅に纏めて待ってくれていた。

「おはようございます」

 軽快に挨拶を交わした英和は颯爽と仕事に取り掛かる。久しぶりに大工作業をする彼の目は輝いていた。

 今日一日で済まさなければならない工程の中、彼は老朽化っした壁板を素早く取り去り、代わりの板を貼り、羽目板を横方向の乱貼りで貼り付けて行った。

 腰壁と既存の壁板の境に見切り材を取り付け、軽くオイルステインを塗る。元の壁はそのままでも良かったが、買って来た少し柄の入ったクロスを貼る事にした。

 ドアは建付けを直して、薄い木の壁材を貼り、椅子やテーブルの安定性も修復したのだった。

 余り広くない店であった為、仕事は数時間で早々と済んだ。マスターはその出来栄えに大喜びしてくれ上機嫌だった。

「ありがとう英君、見違えるなぁ~、まるで新装開店みたいやん、これで商売も繁盛するで、な!」

 英和は照れながら礼をする。

「有り難う御座います、自分でもいい感じで出来ました、マスターのお陰です」

 片付けを済ませた彼はマスターに入れて貰ったお茶を飲みながら暫く語らっていた。

「ところで英君、これからどうすんねん? 大工したらええねん、勿体ないで、一人親方で独立してやったらええやん」

「自分なんかに親方の器量はないですよ、金もありませんし」

 少し卑屈そうな様子で答える英和にマスターは語気を強めて言う。

「そんな弱気でどないすんねん、大工なんか元々親方みたいなもんで、みんな独立してやっとうやんけ、金なんか大していらんやろ、問題はヤル気ちゃうか?」

 英和は考えていた。確かにその通りだった。ろくに中には登記もせず口コミだけで凌いでいる者もいる。技術さえあれば何とかなる世界でもある。でも何故か気が進まない。それは自分がギャンブル依存症とかいう事以外の、自分でも未だに掴めていない内なる元凶。その元ともなっている蟠りを解かない事には身体が動かないのである。

 でもその元凶が何なのかは理解出来ているようで理解出来ていない、謂わば掴みどころのない雲のような形をして何時までも宙に舞い続け、果ては飛散してしまうという始末に負えないもののように思える。

 それこそ人生を歩んで行く上で習得し、亦削り取って行かねばならない彫刻家のような世界なのかもしれない。

 でもそれは或る意味では大工にも共通するのではなかろうか。ふとそう思った彼は少しだけでも前向きになれた感じがした。

「マスター、ほんまに有り難う御座います、マスターが言われるようにちょっと考えてみようと思いますわ」

 マスターは顔色を変え、明るく答えてくれた。

「おう、そうや、前向きに行かんとあかんでな、こっちこそありがとうな」

 お茶を飲み終えた英和に、マスターはその場で工事代金を手渡してくれるのだった。

 

 数日が経った頃、また康明から電話があり、英和は飲みに行く誘いを受ける。もはや訣別したつもりでいた彼にとってこの連絡は愕くに足るものだったが、母御の言とあの絵を観てからというものどうしても邪険にする気にはなれない。とはいえどう接して良いのかも解らない。

 こういう時にこそ彼の優柔不断で人の好過ぎる性格が災いするのか。気は進まないまでも結局は一緒に飲みに行く事にするのだった。

 英和にあった酒の飲み方というのは、常に腰を据えて飲みたいという些か主観に偏りがちながらも、他者の習慣を顧みない一般論にも似た概念を含んでいた。

 だが敢えてそれを強いる必要性があったのも事実で、酒の席に限らず、この前の喫茶店に銭湯、家を訪ねた時、遊びに行った時等、何時も僅か数十分で帰ってしまう康明の常軌を逸した行動を抑えたいという希望から生じたものだった。

 夏の夕暮れ時はその額にかいた汗を優しく浚ってくれ、他の季節のような憂愁感を齎さない。それだけでも幸いとも思えるのだが、黄昏れを求める英和としては少し物足りない感もあった。

 通い慣れた道にある歩道橋の下で待っていた康明はこの前の事など早くも忘れた様子で、軽い笑みを湛えながら立ち尽くしていた。

 その素っ頓狂な表情から神経が通っていないのかと訝る英和は、そんな短絡的な気持ちを抑えながら近づいて行き、こう念を押すのだった。

「おう、先に言うときたいんやけど、お前飲みに行ってまでソッコーで帰ったちすんなよ! それさえ守ってくれたらなんぼでも付き合ったるから、な!」

 康明はまた面倒くさそうに答える。

「あぁ、分かったから」

 そして二人は歩き始める。なるべく知り合いに会いたくなかった英和は路地ばかりを歩いて店に向かう。下町である地元に数ある酒屋の中から一軒を選ぶのも面倒くさかったが、やはり慣れた店が良いという事で二人はその店に入った。

「いらっしゃい!」 

 景気の好い声に誘われた二人は座敷席に坐る事にした。ここなら二人でじっくりと話が出来る。直ぐ帰る気にもなれないだろうと踏んだ英和だった。

 康明は好きなビールを頼み、英和も取り合えず初めの一杯だけはビールに付き合う。

「乾杯!」

 康明はそのビールをいきなり一気飲みしてしまった。愕く英和は一応拍手をして、

「お前、凄いな」

 とベンチャラを言うのだった。直ぐ様おかわりを頼んだ康明はその後も立て続けにビールを一気飲みし続け、何時の間にかその顔は赤く染まり出していた。

「おいおい、お前何しとんねん!? え! 大丈夫かいや!?」

 英和の言にも全く耳を貸そうとしない康明はついに疲れ果て、

「もうあかん、これ以上は無理や、悪いけど先帰るわ」

 と言って金をテーブルの上に置いて立ち去ってしまった。残された英和は何が起こったのか俄かには理解出来ない様子で呆気に取られていた。

 そんな状況を見ていた店主が駆け寄りこう告げる。

「おい英君よ、あの子大丈夫かいや? 言うたら悪いけどあの子多分病気やで、鬱病と思うわ、顔見て一発で分かったわ」

 確かにそんな気配はあった。だがあれだけ根明だった康明がそう簡単に鬱病に冒されるものだろうか。医学的な事などさっぱり解らない英和であっても、こう判断してしまう事も決しておかしくはないと思われる。

 喫茶店の時と全く同じ。これは夢なのか現実なのか。また後を追おうとした英和だったが、既に酒が入ったこの状況は幸か不幸かそんな短慮を封じてくれるのだった。

「親っさん、ま、心配せんとって下さい、あいつやったら直ぐにでも回復すると思いますわ」

 これはあくまでも自分に対する気休めだった。他者を通じ、声に出す事に依ってそれが恰も真実であるように自分に思わせたかったのである。

 動くのが面倒ながらも一人では悪いと判断し、自らカウンター席に移る英和。

「あ、悪いな、別に混んでもないからそのままでも良かってんけどな」

 と言って、店主もテーブルに置いてあった酒等をカウンターに運び込んでくれた。

 それから英和は店主や常連客達と語らい合いながら酒を飲んでいた。取るに足りない他愛もない世間話が殆どだったが、そこにも歴とした酒の席での温かい人情が通っていてそれなりに盛り上がる一同だった。

 2時間ぐらいが経った頃、ふと気付くと、座敷に居た女性同士のグループが席を立ち店を出ようとしていた。

 その中に何処かで訊き覚えのある声が混ざっていた。その方向に目を向ける英和。彼の目に映ったのは直子だった。恐らくは会社の付き合いか何かだったのだろう。彼女は相変わらずの朗らかな表情で皆と打ち解けるように佇んでいた。

 何故今まで気が付かなかったのだろう。さっきからその声は聞こえていた筈だ。それなのに何故。

 だが今更会った所でどう対応して良いかも解らない英和は、その顔を伏せるようにしながらも彼女達の動向を横目で窺っていた。

 料金を支払った一同は店先で少し語らった後、当たり前のように帰って行く。

 この時英和は気恥しさと悔恨と切なさが同時に襲い掛かって来る気配を感じたのだった。それは余りにも残酷な、可愛らしさを微塵も感じさせない羞恥と、取返しが付かないのではないかと思われるほどの悔恨に、何のドラマもない切なさであった。

 悲嘆するでもなく、慌てるでもない英和は呆然とした様子で酒を飲み続けた。酒だけがその気持ちを紛らわしてくれるのである。何故気が付かなかったというよりも、何故こんな時に直子の姿を見てしまったのだろう。これは偶然なのか、それとも因果因縁なのだろうか。

 神経質な彼は勝手ながらもこんな思惑を巡らすのだった。

 それからの英和は打って変わって誰とも話さず、いい加減な相槌を打つ程度でひとり酒に酔いしれていた。彼が独りの世界に埋没する際の決まり事は夢想であった。

 その夢想の裡に観る世界にはこれまた決まって誰かが登場するのである。その者は英和の肩をそっと叩き、優し声を掛けて来る。

「何しとん? また起きたまま夢でも観とん? 早くせんとあの樹に辿り着かれへんで、さ、早く行こうよ!」

 これは以前観た夢と全く同じだった。その時は結局その大きな樹に辿り着く事は出来なかった。どうせ今度もそうだろう。

 そんな風に相変わらず物事を悲観視する彼は、ここに来て感覚的、肉感的な刺激を味わうのだった。

 思わず振り向いた眼前に直子が立っているではないか。これは幻なのか、いやそうではない。今覚えた肩の感覚は確かに人為的なもので、夢などではない。直子はそのまま隣に坐ってまた可憐な笑みを浮かべる。

 我に返った英和の耳には常連客達の笑い声が聞こえて来る。そんな中、改めて対峙する二人はまだ幾ばくかの蟠りを残しながらも、決して卑屈になる事もなく、飲み直しと言わんばかりに明るい面持ちで酒を酌み交わすのであった。

 

 

 

 

 

 

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汐の情景  二十八話

 

 

 貧しいようで豊か。裕福なようで貧困。世の無常の中にも特に日本という国はそういう漠然性を帯びているような気がする。

 それは好不況だけといった経済的な概念で表される単純なものだけでなく、人が皮膚感覚で覚える世界観のようなもので、個人差はあれど戦後目覚ましい発展を遂げて来た日本を客観的、総体的に見た場合、真に裕福な国だと言い切れる者など居ないようにも思える。

 資源が余り取れない日本に景気の安定性を求めるのも或る意味では酷な話かもしれないが、だからといって外国を羨んだり、市場の近代化、西洋化だけを図ろうとする短絡的思考には嘲笑を禁じ得ない。

 真のグローバリズム、国際化社会というものはあくまでも自国の文化文明を尊び、それを基準とした上で諸外国と付き合って行く思想にあると思う訳だが、今の日本を見ているとただ西洋を初めとする外国に進んで飲み込まれて行こうとしているような脆弱性を感じてしまう。

 何れにしても常に変動する経済も生き物で、それを動かしている人間も自然も万物全てが生き物である以上、怠惰を貪っている者はいざ知らず、何某動いていればどうにか生きて行けるというのが人間社会の理であろう。

 相変わらずギャンブルなどに身を窶す英和もそんな当たり前の思想を胸に秘めながら、葛藤しながらも静寂の裡に日々を過ごしていた。

 このギャンブルというものも摩訶不思議なもので、実に馬鹿馬鹿しい話だが勝ち負けを繰り返しながらも何とか凌いで行ける世界でもある。たとえボロ負けしても、借金しながらでも以外と金は続くのである。

 その裏には当然生活が立ち行かなくなるほどの悲惨で、苦渋に充ちた憐れな倒錯者の感嘆がある事は言うに及ばず、中には自責の念、良心の呵責に耐え切れず自裁を試みる者もいる。

 そこから這い上がる術は悲壮感だけなのである。仮に誰かから大金を授かったとしても何の解決にもならなければ、心が充たされる事もない。亦そこまで自分を追い込まなければ味わう事が出来ない真の射幸心、つまりは刺激なのである。

 よくよく考えてみれば英和のような者はその刺激や悲壮感を得る為に敢えてギャンブルに身を窶していた可能性もあった。それを証拠に彼はたとえ大勝ちしたとしても何か物を買ったり、大判振る舞いをするような事は一切しなかったのだった。それどころか金銭感覚が麻痺しているとはいえ儲かった所でまず喜ぶような事もなかった。

 それはどうせ何時かは負けるだけとただ先々の事を憂慮するだけではなく、金を手にした時点で味わう虚しさを無意識の裡に感じ取っていたからだった。

 ギャンブルだけに限らず、仕事でも交友でも恋愛でも何でもそうだった。彼の人生は何時も虚しさと闘って来たようなものだった。感謝が足りないのだろうか。ロボット人間を徹底して嫌う彼自身が感情表現に貧しければ正に本末転倒である。寧ろそれを得る為にこそ生きているとでも言うのか。

 でも仕事等、ギャンブル以外の事は少なからずギャンブルよりも感性を豊かにはしてくれるような気がする。

 そう思う英和は真面目に就活に勤しむのであった。

 友人、知人、ハローワークに求人誌。本職である大工以外の職業も視野に入れて探していたが、どうもしっくり来るものはない。賃金に拘るつもりがなくとも一般職などは単価が安過ぎる。年齢的な事もあり、ただでさえギャンブルに明け暮れている今の自分にそんな贅沢が言える筈もなかったが、何か気が進まない。いっそ冴木の親方に言ってまた世話になるかとも考えたがそれだけは出来ない。今更どの面下げて会いに行くのだ。たとえ向こう暖かく迎えてくれても自分のなけなしの矜持が許さない。

 途方に暮れる彼は何時もの喫茶店に入り、独りお茶を飲んでいた。客は殆どいなかった。カウンターに坐って寛いでいると、暇そうにしているマスターが語り掛けて来る。

「英君、最近仕事暇なんか? この前も昼間に来とったでな」

 英和は少し照れながらも正直に答えてしまった。

「実は仕事辞めたんですわ、色々あってね」

 マスターは何ら愕く事なく、悠然とした態度で言葉を続ける。

「そっかぁ~、俺の知り合いでもそんな奴ようけおるわ、でも何かしとかんと食って行かれへんやろ? せっかく手に職があるのに勿体ない話やなぁ~」

「自業自得なんでしょうがないですわ、仕事探してはいるんですけど、なかなか見つからんしねぇ......」

 マスターは自分のコーヒーを一口飲んだあと、英和の目を見据えて言う。

「そうや、暇なんやったら、そこの壁とドア直してくれへんか? 勿論金は出すで」

「え?」  

 と言って英和はマスターが指差す方向に目をやった。確かに老朽化が進み壁板が少しふやけて膨らんでいる。ドアも昔ながらの古びた造りで色褪せている。直す価値はあると思うが即答出来なかった彼はこう訊くのだった。

「でもマスター、この昔ながらの情緒ある雰囲気がええんとちゃうますか? 自分はこんな感じが好きですけどね」

 マスターは含み笑いをしながら答えた。

「なるほど、英君はそういう考え方か、それやったら大工なんか出来んわな、でも店主である俺がええ言うとんねんからやってくれへんか? 頼むわ」

「分かりました、じゃあやらせて頂きます」

 気が進まないまでもマスターの情に負けて、というより断る勇気がなかった英和は一応する事にした。

「おう、やってくれるか! じゃあ定休日の水曜日はどないや?」

「はい、それで結構です、有り難う御座います」

 こうして図らずも久しぶりに大工の仕事に励む事になった英和であった。

 

 この頃、康明もまた無職となり就活に東奔西走していた。元塗装工でありながらも技術職には全く興味がない彼は、車好きだった事から運転関係の仕事ばかりを好んでやっていた。

 トラックの運転手、バスの運転手、トレーラー、ラフタークレーン等、多数の資格を有していた彼は様々な仕事に就き精進はしていたものの、如何せん英和と同じく堪え性に欠け、何処へ行っても長続きした試しはなく、職を転々としていたのだった。

 そしてそれこそ暇潰しのように英和に電話をして、愚痴ばかり零すようになっていたのだった。

 英和としても話し相手になる事自体は全く苦ではなかったので、躊躇う事なく電話に出る。ただこの前の一件といい、どうも康明の変容振りには看過出来ないものを感じるのだった。

「おう、まだ生きとったんか? しぶといのー」

 その声だけは相変わらず元気な康明で、卑屈な様子は一切感じられない。

「おう、何とかな、お前はどうやねん? 仕事見つかったんかい? お前はようけ資格持っとうし何処でも行けるやろ」

 康明は少し間を置いて答え始めた。

「お前な、知ったかすんなって、お前に何が分かるねんてな、俺は必死に足掻きながら就活しとんねん、今もそうや、お前なんか博打しとうだけやろ、俺の苦しみが分かってたまるかいや」

 これも相変わらずといえばそれまでだが、ここまで怒る事はないと思う英和。自分な何も言ったつもりはない。それなのに何故ここまで言う必要があるのだ。

 でも怒ってばかりいても堂々巡りになると判断した彼は気を取り直して口を開く。

「分かったから......」

 電話は既に切れていた。話の最中に、それも向こうから掛けて来ておきながら何もい言わず一方的に切るとは無礼にもほどがある。キャッチホンすら認めたくないほど古典的な英和にとってこの仕打ちは正に青天の霹靂、その非人道的で人を侮蔑するような態度には烈しい憤りを覚える。

 更に少々短気であった彼にはこの一瞬で康明に対する恨みが込み上げ、叩きのめしてやりたいという衝動までもが湧き上がって来る。でもそれだけはしまいと冷静を装う彼であろうとも、ならば訣別するしかないといった飛躍した条件が付き纏う。

 やはり康明は変わってしまった。何が彼をそこまで豹変させてしまったのか、ここ数年で何があったのか。付き合いを続けていた英和にもその真相までは解らない。訊いた所で何も言うまい。これで親友と呼べるのだろうか。

 これ以上相手にする事を憚られた英和は何も考えない事にし、家に帰って酒を飲んでいた。

 1時間ほどが経った頃にまた康明から電話が掛かって来た。取る気になれなかった英和はそのままにして酒を飲み続けた。だが何度も何度もしつこく掛けて来る。

 いっそこっちから切ってやるかと思いはしたが、つい電話に出てしまった。

「お前、舐めとんかいや! 何がしたいんどいやゴラ! え!」

 康明は何ら悪びれる事なく発言し始める。

「何を怒っとうねん!? 俺が何かしたんか?」

 英和は電話に出た事を後悔していた。でもこうなった以上は真正面から事に当たるしかない。更に烈しい怒声を浴びせる英和。

「お前ええ加減せーよゴラ、何で途中で電話切るんやー言うねん! で、また掛けて来るんかい! どういうつもりやねんゴラ!」

「そんな事で怒っとんかいや、お前も相変わらずやな~、大人になれよ」

「大人になるんはお前の方やろ、この年なって礼儀も知らんのかいや、頭沸いてもたんか? おー!」

「はいはい分かりました、すいませんでした」

 康明はヤケクソになった様子でまた一方的に切ってしまった。

 この瞬間英和決めたのだった。もう完全に決別する事を。

 それにしても何かがあったには違いない。そう断定する英和は不本意ながらも康明の心理状況を細かく分析しようと試みる。でもヒントすらないこの状況ではいくら考えても答えなど出て来る筈もなかった。

 とはいえもはや電話などする気にもなれない。ここにこそ親友であるが故の切っても切り離せぬ因果因縁というものがあるのだろうか。

 酒も進まない彼は康明の母御が入院しているであろう、近所の有名な総合病院に出掛ける。

 予想は的中して母御はこの病院に入院していた。受付で部屋を訊いた彼は迷う事なく病室に赴き、母御の見舞いをするのだった。

 母御はすっかり痩せこけ、以前のような元気も覇気もない、衰弱し切った身体で横たわっていた。気休め程度の花を持参していた英和はそれを傍らに置いて話し始める。

「おばちゃん、久しぶり、具合どうですか?」

 重たげに瞼を開けた母御は明るい笑みを浮かべながら口を開く。

「ああ、英君、わざわざ来てくれたんか、ありがとうな、ま、私ももう年やからな、何時死んでもおかしないし、でもあと一回ぐらいは家に帰りたいけどな」

 母御の言には何とも言えない哀切な漂いが感じられたが、それとは裏腹に醸し出される明るさは一時的にも哀しさを葬り去ってくれる。これも親子の縁で、生来冗談が好きだったこの母子はこの状況にあっても決して卑屈な表情を人に見せる事はなかったのだった。

 これが英和にとっても悩ましくも羨ましい所で、不器用で何時も真正面からしか事に当たる事が出来ない、なかなか変化球が投げられない自分の急所を衝かれたような気がしてならない。

 ただお節介ながらもこの母御の為人から康明の性格を類推した場合、年の功にも依るとはいえ人間が出来ている母御に対して、息子である康明にはまだ冗談を言って明るく振る舞う事だけに執着している感があり、三十代半ばになる今でもまだ成長し切っていない雰囲気はあった。

 それは別に上からものを見る訳でもなければ馬鹿にするつもりもなく、如何に経験値を積み上げても有事の際には逃げる癖がついているような節が感じられるのだった。

 それに引き換え母御はこの状況でも常に気丈に振る舞い、寧ろ見舞いに来た英和に安らぎを与えてくれるぐらいだ。

 でもその結果、英和は康明の事を訊きそびれてしまった。もしかすると母御は英和の気持ちすら見透かしていたのかもしれない。その可能性を感じた彼は、

「早く元気になって下さい、康明君も淋しがってますし、おばちゃんやったら直ぐ退院出来ますよ、では失礼します」

 そう言い置いて立ち去るのだった。

 

 

 

 

 

 

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汐の情景  二十七話 

 

 

 仕事を辞めてからというもの、英和は毎日を暇潰しのような感覚で過ごしていた。それはともすると人生自体が暇潰しに過ぎないといった余りにも虚しい、惰性的で悲観的な考え方をも生じさせる。

 それもその筈。仕事もせずギャンブルに明け暮れ、何の目的意識も持たない自堕落な日々を送る事は人間の精神を腐敗させるに十分で、意思も神経も何も通っていない、謂わば生ける屍同然なのである。

 たとえギャンブルで儲けた所でそんなものはあくまでも偶然性に依って齎された一時的な幸運に過ぎず、仮に一攫千金を成し得たとしても真に心が充たされる事もなければ倖せを手に掴んだ事にも成らないだろう。

 その辺の道理、理屈を理解しているからこそ苦しまなければならない英和でもあった。一概には言えないまでもギャンブルなどに身を窶す者の多くは金さえ手に出来ればそれだけで満足し、一抹の不安に焦点を置き真剣に将来を憂慮する者など僅かだとも思える。

 そういう者こそ羨ましいと思う英和ながらも決してそう成りたいとも思わない。ならばどう成りたいのか。それも分からない。生来怠け者でなければそこまで金が欲しい訳でもない。でも人間社会を嫌う気持ちだけは人一倍強い。自分でも手に負えないこの厄介な性格は如何ともし難い。

 全ては自己責任で自業自得なのだが、敢えて責任転嫁するならば全体主義に依る弊害のような気もしないではない。

 幼少の頃から学生時代、果ては社会人に至るまで。日本人というものは常に団体の中で飼育され、個性などは限られた僅かな者にしか認められない。協調性だけを重んじ、輪からはみ出す者を良しとはしない。結果その見せかけだけの輪の中に甘んじ、人の眼を気にし、右へ習え、長い物に巻かれろと言わんばかりに下らない空気を読む惰弱、脆弱な精神を有する者ばかりを作り上げてしまった。

 こういう硬い理論を展開する際に、戦後のやり方が悪かった、進むべき道を誤ったなどというもはや一般論にも思える発言をよく耳にする。

 確かにそこにも一理はあるだろう。だが本当にそれだけなのか。戦時中は言うに及ばず、戦前までも日本は大日本帝国憲法の下、教育勅語が表す愛国心は国民に強制的に植え付けられていたのである。

 つまりは大袈裟に言えば昔の日本にも個性は認められず、自由も無かった事になる。更に昔に遡って考察すると幕末の動乱期、明治維新などは素晴らしい日本の将来、夜明けを夢見る志士達が身命を賭して戦っていた筈。その将来が今なのかと思えば首を傾げたくなるし、その心は憂愁感で充たされてしまう。

 でも歴史が好きな英和は当然天皇制には大賛成で愛国心も十分備えていた。無論それは強制されての事ではなく、あくまでも本心だった。

 彼の歴史観というものは長いに越した事はないといった少々偏向的で観念的なものであったが、そこにも悪事や困難は長くは続かない、良いものでなければ長続きはしないといった思想に基づく一応の根拠はあった。

 だからこそ日本の天皇の血筋のように一度たりとも途絶えた事のない悠久の歴史、正に万世一系が表す長く美しい歴史が純粋に好きだったのである。

 それにしても日本人の我関せず、静観、傍観、対岸の火事を決め込み、上辺だけの人付き合いに興じる習性というものは戦後でもなければ戦前でもない、何時の時代から始まった事なのだろうか。元来そういう人種、民族性だったのだろうか。こればかりは流石に分からない。でも決してそうではない事を信じたい英和だった。

 梅雨が晴れかけたとはいえまだ湿気が残るじめじめとした気候を不快に感じながら、そんな堅苦しい見地に立って自分や康明の事、世相について考え続ける英和。

 徐に窓を開けると空には綺麗な虹がかかっていた。久しぶりに見られたこの虹はその気鬱さを多少なりとも緩和してくれる。孔雀が天翔けるような色鮮やかな虹の姿は自然の神秘とも言うべく可憐にも神々しいまでの輝きを放ち、実物とはいえ幻想性のある昂揚感を与えてくれる。

 大袈裟に解釈するのが好きだった英和は天からのサプライズだと、良い兆しだと受け取り、意気揚々とした面持ちで家を出る。すると都合よく康明から電話が掛かって来た。ちょうど出先であった為、二人は会う事にした。

 

 英和は虹を見上げならが通い慣れた道を歩いていた。平日の昼間に堂々と地元を歩くのも恥ずかしかったが、下手に意識し過ぎると逆に挙動不審に思われるであろう懸念が却って彼を毅然とした態度に導く。

 人通りの少ない道とはいえこの綺麗な虹を見上げている者といえば子供ぐらいなものだった。大人達はまるで感心がないといった風でただ気忙しく、それこそ対岸の火事を決め込むような素振りで、悪い表現だがロボットのように歩き続けている。

 他人に干渉する事を嫌う英和であっても、こうした情緒の欠片もないような現代人を見る時だけは露骨に悲哀な気持ちを表すのだった。

 そうこうしている内に約束の喫茶店に到着した。この店も何度も訪れていた店で、店主も常連客も顔見知りが多い。何故こんな店にしたのか自分でも理解出来なかった。だが愛想良く声を掛けてくれる店主の表情には他意は感じられない。

 まだ康明は来ていなかったみたいで取り合えず何時も通りの窓際の席に着く。そしてオーレを頼み煙草に火を付け窓外の景色をカッコをつけて眺めていた。

 なかなか康明が来ないので新聞や雑誌に目を通す。そこに書かれてある事も英和にとっては実に下らない下世話な記事ばかりだった。一般のニュースとコラム、それだけを読んで直ぐ様棚に返す。そしてもう一服煙草を吸い出した時、店の外で突っ立っている康明の姿を発見するのだった。

 何故彼は中に入って来ないのか。意味が分からない。康明は落ち着かない様子で辺りを警戒するように見ている。心配になった英和は外に出て、

「お前何しとんねん? 早よ入って来んかいや」

 と声掛けをした。それでも入って来ようとしない康明。もう一度同じ事を告げた英和に対し、康明は想定外の事を言い表すのだった。

「お前、ようあんな席に坐っとんな、隣見てみ、あのおっさん元ヤクザで結構質悪いおっさんやねん、絡まれるど、もう帰ろうや」

 この前康明の家に遊びに行った時から薄々とは感じていたが、これが真に彼から覚えた初めての違和感だったかもしれない。こんな経験は勿論初めてで、以前なら絶対に言わなかっただろう。その隣に居る者がヤクザだとしてどうだと言うのだ。自分達が十代、そして昔なら絡んで来た可能性も否定は出来ないだろう。でも今の時代にましていい年になった自分達にわざわざ絡んで来るとでも言うのか。それは考えられない。

 雑誌を取りに行く時、確かにその人の小指が短かった事は目に付いた。でも少々ガラの悪いこの街ではそんな人は何度も見て来ているし知り合いもいる。それなのに何故康明はそんな事を必要以上に警戒し畏怖するのだろうか。

 康明はそう言って呆気なく帰ってしまった。残された英和は元々お茶を飲むのが遅かった為、今一度席に戻り、ゆっくりとお茶を飲んでから店を出る。

 蟠りが消せない彼はそのあと康明の家を訪れた。彼は待ってましたと言わんばかりの表情で英和を出迎えてくれる。その愛想の良さを何故さっき見せてくれなかったのだと思いながらお邪魔をする英和。

 何時もいる母御が居なかった事は幸いだった。部屋へ通された英和は改めてさっきの事を問い質す。

「どういう事やねん?」

 康明は面倒くさそうに答え始めた。

「......、まだ言うとんかいや、もう終わった話なんやって」

 確かに終わった事ではあるが、ついさっきの話であってそれに触れる事がそんなに悪いとは到底思えない。英和はありのままに言葉を続ける。

「あのおっさんが何かして来るんかいや? そうなったらなったで何とでもやり様あるやろ、何をビビっとんねん、情けないの~」

「別にビビっとう訳ちゃうねん、昔から言うやろ、君子危うきに近寄らずって、俺はそれを実行しやだけなんやー言うねん」

 それを訊いた英和はまたも呆気に取られてしまった。返す言葉もなかったが、一応の事だけは口にする。

「お前な、ほんまに君子危うきに近寄らずという言葉の意味知っとんか?」

「読んで字の如くやろ、徳のある奴は危ない所には近づけへんねん」

 溜め息をついてから答え始める英和。

「やっぱりな、お前の知識なんかどうせその程度やでな、ええか、その言葉の真の意味は有徳者は行動を慎むとはいえ、あくまでも意図せずに危ない所に近付けへんという意味やねん、お前は意図して警戒しまくっとうだけやんがいや、履違えたらあかんでな」

 康明は依然として面倒くさそうな表情を泛べながら訊いていた。

「そんな難しい事は分からんわいや、俺にどうせえ言うねん!?」

「何を開き直っとんねん? 俺がただお前のその変容ぶりが気になっとうだけやねん、どうしたんや? 何かあったんか? あったんやったら何でも言うたらんかいや、長い付き合いやんけ」

 康明はそれ以上何も口にしなかった。その表情は俄かに真剣な面持ちへと変化し、ひ弱ながらも精一杯の屈強なバリアを象っていた。そのバリアの中に入る事さえ憚られる英和は無言の裡に康明の目を見つめ、その胸底深くに隠された真意を読み解くべく尽力する。

 でもその答えは全く出て来ない。バリアは康明の精神や性質、習慣的な意思や新たに加わった今の心情等と相重なり、渾然一体となった禍々しいオーラへと瞬時に成長してしまった。

 これ以上は何をしても無駄だと判断した英和は優しい笑みを浮かべながら、

「ところでおばちゃんどないした?」

 とだけ質問をする。

「今入院しとうねん、何年も入退院繰り返しとうからな」

 康明はバリアを張ったままそれだけを答えた。

 早々に帰途に就いた英和はまた項垂れた様子で康明の心を順序だてて整理しながら歩き続ける。

 結局彼とは虹の事につても話が出来なかった。もし言っていたとしても今の康明なら何も感じていなかったに違いない。そう判断した英和はまた空を見上げる。

 でも虹はもう消えていたのだった。

 

 

 

 

 

 

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ボートレースに見るスポーツ美学  ~人生観

 

 

           奔流に  抗う姿  美しく(含笑)

 

 

 美に耽ると書いて耽美。自分の事を棚に上げて言うのも烏滸がましいのですが、ギャンブルの対象であるボートレースにまで美を追求してしまうのは不遜でしょうか。

 所詮はギャンブル。そこに身を窶す者としては儲かれば良いだけの話のようにも思えますが、果たしてその限りでしょうか。自分にはそうは思えません。 

 何故か。たかがギャンブルされどギャンブルで舟券の買い方は無論の事、走っている選手達も当然プロのレーサーです。つまりはレース、競技な訳です。とするならば他のスポーツ同様、美的感覚を以て希(のぞ)まなければならないという論理も一応は成り立つと思います 😒

 ま、今日は柔らかい話なので、冗談半分と思って気楽にお読み頂きたく候^^

 

モンキータンーン

 まずはこれですね。今やボートレースでは当たり前にもなったこのモンキーターン。舟の上に立ってターンする事に依って膝への負担が軽減され尚高速で旋回出来るターンテクニックの一つなのですが、このターンの生みの親は飯田加一さんという既に引退し他界された、往年の名ボートレーサーなのです。

 ただこのモンキーターンにも勿論ピンキリがあって、そのレベルには天地の差があります。そして当たり前ともなった今の時代でもまだ坐ったまま膝をついてターンをする通常ターン(地蔵ターン)を決め込んでいる選手もそこそこいます。

 まぁ~これも人の勝手と言えばそれまでなのですが、今時こんなターンをしていれば他艇と競っている場合はまず負けます。特に重賞戦ともなれば尚更で、レースについて行けません 😞

 モンキーターンが出来ないのか敢えてしないだけなのかまでは分かりませんが、自分としてははっきり言ってヤル気が感じられませんし、頭に来るぐらいですね。

 そんな事でプロの選手と言えるのかと。ならば強い選手だけが出場している重賞だけを買っていろと言われれば返す言葉はありません 😔

 要するに巧い、強い芸術的なモンキーターンをしている選手は凄いという、それだけの話ですね^^

 

www.youtube.com

 

 流石は艇界No.1の峰選手。惚れ惚れしますね^^ 

 

スコーピオンターン

 何と左足を宙に浮かせて旋回するターンテクニックです 😮 モンキーターンとのレベルの差、実用性の有無までは分かりませんが、このスコーピオンターンなる技もなかなかのものです。

 自分も最近まで知らなかったのですが、これをする事に依って更に膝への負担が軽減されるみたいです。モンキーターンとの連携プレイで真価が発揮されるみたいですね。

 

www.youtube.com

 

 正に妙技、絶技。素晴らしいです^^

 

競り合い

 ターンでも直線でも他艇と競っている時の駆け引きですね。こうなると何れかが勝ち、何れかが負ける訳ですが、それが果たして技量やモーターの差、或いは風向き、風量だけに依るものかという話ですね。

 下手で弱い選手は気も弱い。という風に全ては比例するのかもしれません。ですがいくら強い選手でも時としては格下の選手に負ける事も結構あります。

 そこで問題になって来るのが単に強さ、巧さを競いあっているのではなく、外からでは分からない目には見えない駆け引きがあるのでは? という話なのです。

 つまりは無気力レースや馴れ合い譲り合いの忖度レース、更には八百長の疑いがあるという話ですね 😒

 実際八百長もあった訳ですが当然ながら皆がしている訳ではありませんし、そう信じたい所です。でも多くのレースを張っていれば疑わしいレースはいくらでもあります。それを十把一絡げに八百長と決め込む訳でもありません。ただそう思わせている時点で何かがある可能性は否定出来ないのです。こればかりはどういう観点から見ても美しくはありません 😓

 そしていくら弱くて下手な選手とはいえ明らかに安全運転に徹し、是が非でも突っ込んで行かないというその精神構造にも憤りを覚えます。それでプロと呼べるのかと。

 要するに自分としては無理と分かっていても突っ込んで行くぐらいの心意気を見せて欲しい訳です。そうしてくれればたとえ負けてもその気概に称賛を贈りますし、自分の勝ち負けなどもはっきり言ってどうでも良いという気持ちになるのです。

 何をするにも志、心意気、心根が大事という話ですね。これは自分自身への言い聞かせでもあります^^

 

誠意 

 非常に少ない数で稀にしかありませんが、不甲斐ないレースをした場合にインタビューなどで律儀にも謝罪をする選手もいます。

 これは舟券を外した悔恨、無念を和らげてくれるばかりか、その選手の誠実さ、人間性が胸に響き感動させてくれます 😃

 ネットなどではわざとらしいとか言っている人もいますが、自分はそうは思いません。詫びを入れるという事はそう簡単に出来るものではありません。まして自らが進んでそうしている訳ですから、不祥事を起こして否応なしに、形式的に謝罪をしている企業のトップ連中とは訳が違うと思います。

 この潔さにも美を感じますね^^

 

自分の悪習

 選手サイドの事ばかり言って来ましたが、自分の事も省みる必要はあります。

 負けた時にアホの一つ覚えで文句を口にする。自分は部屋で独り言のように吼えている時もあります。

 でもこれもただ負けた事について憤っている訳ではなく、前述したようなカッコ悪いレースをした選手について、その走り方、気概についての憤りなのです。こんな事を言えばそれこそカッコつけるなと言う人もいるでしょう。でも本心です。

 パチンコでも公営ギャンブルでも負けて頭に来た事は殆どありません。それを言ってしまえば初めから博打などするなという当然の理論が成り立ちますし、自分としても虚しいだけです。

 ですからとにかく下手打った選手に対しての怒りは半端なく込み上げてしまいます。これはボートは一番露骨だと思いますね 😤 他の、例えば競馬などは外れても全くムカつきませんし、惜しかったな、しゃーないなで済んでしまうのです。でもボートに限ってはそうは行きません。

 ならば尚更ボートを辞めた方が良い訳なのですが、それも難しいですね 😢 この不平不満を口にする悪習も改善して行かなければなりません。

 脚下照顧。要するに自戒ですね。自分を律しない事には何も始まりません。文句ばかり言っていないで、前向きに生きて行かなければいけませんよね^^

 

 という事で(どういう事やねん!?)下らない事ばかり縷々綴って来ましたが、ボートレースも一スポーツとして見た場合、たとえ無様に見えるレース内容でもそれも一興これも一興でそこに咲かせる花もあるように思えます。

 その花も何れは萎んで枯れ行く宿命(さだめ)にあっても、見方次第では美しく映るという話ですね ✨ それは正に人生そのものだとも思います。

 では皆様ごきげんよう 😉

 

 

 

 

 

 

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汐の情景  二十六話

 

 

 陰と陽。速さ遅さ。強さ弱さ、脆さ。これら世に現存する様々な対照は相反性だけを表すものではなく、それ自体が二極一対、表裏一体で、どちらか片方だけでは成り立たない、片方だけが存在する事は不可能だろう。

 だが普通の人間なら良い方だけを選び、悪い方にはなるべく目を向けようとしない。つまりこの時点でその者の弱さが表れている事は明白で、如何に人間の情が働いているとはいえ、その内なる弱さに意識的に目を向けない事には真の意味での進化は遂げられないとも思える。

 言うは易し行うは難しでそう簡単に出来る事でもない。そこにこそ人の世の苦行とも言える幾多の障壁、困難があり、希もうが希むまいが次々に立ちはだかるバラエティーに富んだ試練という名のアトラクションを一つ一つ熟して行く事も容易ではない。でもいざ乗り込んでしまってからでは時既に遅し、降りる事も不可能であれば無理に降りた所で待ち受けるものは死に相違ない。

 悲観的に見れば何とも厳しく厄介な人生であろう。しかし楽観的に見れば実に面白くも思える。そういう意味では英和が打ち興じていたギャンブルも所詮はアトラクションの一つに過ぎず、悪く取れば無駄な演出であり、良く取れば自らが金を出してまで不幸な憂き目を見る、残虐な快楽を味わっている事になるだろう。

 それに引き換え康明や義久などはその楽観的な性格が功を奏し、三十を超えてもそこまでの苦労を経験していなかったようにも見える。そう高を括る英和は康明との連絡の中でも以前と変わりなく普段通りに接していたのだが、ここに来て些細な疑念を抱くのだった。声は変わらずともその言動自体が不可解極まりない、以前のようなユーモアが全く感じられない、何処か焦っているように見える。

 繊細な英和だからこそ感じ得る康明の変容。それを確かめるべく彼は久しぶりに康明に会う事にしたのだった。

 仕事が終わる頃を見計らってまた夕方に康明の家を訪れる英和。呼び鈴を鳴らすと母御さんが出て来て、

「いらっしゃい、久しぶりやん」

 と愛想の良い声を掛けてくれ、部屋へと誘ってくれる。

 康明はまだ帰っていなかった。もう直ぐにでも帰るという母御さんの言に従い、英和は出いて頂いたお茶を飲み、世間話などをしながら時間を潰していた。

 そして康明が帰って来た。彼は足早に部屋へ上がり鞄を投げ捨ててから、

「もう辞めや」

 などと明るい表情で呟くのだった。思わず笑ってしまった英和は康明の笑いのセンスに改めて敬意を表していた。

 だが母御は全く表情を変える事なく、寧ろ怪訝そうな顔つきで息子を見つめている。高齢であった康明に親御さんは年を取るに連れて益々渋い表情になり、女性ながらも鋭い眼力で息子を睨みつける洞察力は女性ならではの優れた力に依ってその才能を露わにし、周りを畏怖させるような威厳さえ漂わせていた。

 そんな母御を差し置いて更に言葉を続ける康明。

「あ、しもたっ! 煙草買うて来るん忘れたわ、ちょっと行って来るわ」

 そう言ってまた出て行こうとする息子を母御は真剣な眼差しで叱りつける。

「ちょっと待ちんかい、何処行くねん、煙草ないんやったら何でさっき帰って来る途中で買うてけーへんねん! こんな時間に外出て行ってええと思とんか!?」

 英和はここでまた笑ってしまった。流石は親子、そのセンスは甲乙つけがたい。それも芝居ではなく、こんなシリアスな感じでやってのけるとは、お手あげです。

 こんな感じで独り笑う英和にも母御の厳しい眼差しが向けられた。何自分にまでそんな目をするのだ。何か悪い事でもしたのか。その疑いは康明親子の只事ならぬ雰囲気で更に高まり具現化され、自分自身にも跳ね返って来る。

 まさか本当に煙草を買いに外へ出てはいけないのか、母御は真に怒っているのか。だとすれば何故。確かに陽も暮れ外は暗くなっている。でも子供ならいざ知らず大の大人が陽が暮れたからといって外に出てはいけないという道理があるだろうか。今の時代幼子ですら外で遊び回っているではないか。深夜ならまだしも午後7時半というこんな時刻に。

「分かったからそんなに怒るなって! しゃーない、英、煙草貸しとってくれや」 

「あ、ああぁ.......。」

 英和は躊躇いながらも自分の煙草を差し出し、今起きている事を整理していた。これは母御が過保護過ぎるのか、それとも敢えてそんな生活習慣でも取っているのか。

 何れにしてもおかしい。不自然極まりない。母御の想いは想いとしても、それに何ら抗う事なく追従する康明も康明だ。口悪く言えば三十代にもなる者には相応しからぬ所業で、気持ち悪いぐらいだ。

 英和は言いたかった。

「お母さんそれはおかしいですよ、自分らもう35ですよ」

 でも結局は言えずにその言葉を腹の中で必死に抑えていた。もしこれが本当に過保護的な意味合いを含んでいるのなら一大事とも思える。

 それでも口に出す事を憚られた英和の心にあったのは、他所の家庭の事を干渉するのは厭らしいという常識よりも、この光景自体に戦慄し、恐怖する素直な感情だった。

 

 康明との会話もそこそこに家に帰って来た英和は、この事件とも言える出来事が忘れられず母としての意見を訊きたく、己が母にその内容を伝えるのだった。

 知らせても母は大して愕きもせず、何時も通りに悠然と構えていた。

「ま、あっこは親御さんが高齢やから息子が可愛くてしゃん-ないんやろ、そんな事よりもあんたはどうなん? 仕事見つけたんか? 何時まで遊び回っとうつもりやねん? 人の事言われへんで」

 これを言われれば英和としても一言も無かった。何時まで独り身でいるつもりなのかと訊かれなかっただけでも幸いだった。

 三十代半ばになっても独身。これは確かに情けない話だ。今の時代そんな人も結構居るという現実は慰めにならなければ興味もない、あくまでも自分の話なのだ。そして結婚願望があるのかと訊かれれば有るとも無いとも答えられない。彼になるのはとにかく自分なのであった。

 それは他者に感心がない事は言うに及ばず、自我に執着し過ぎるが故の無様な本心でもあった。とはいえ他者を思いやる心は必要不可欠で傍観する事など許されない、無論女性が嫌いな訳でもない。要は自分が何者であるかをきっちりと見極めてから先に進みたいというだけの話でもあった。

 それを夫婦となって手に手を取って生きて行く上で見出して行こうとは思わないし思えない。何故なら直子との恋路がそれを証明しているからだった。言うなれば完璧主義なのかもしれない。異性は勿論同性にも隙を見せたくなかったのである。その想いが強過ぎたからこそ直子と別れる事になってしまった可能性もあるだろう。

 凡人などにそれを成し遂げる事が出来るとも思えない。全て理解していても身体が思うように動かない。という事はこの見すぼらしい現状を踏まえた上でも、無意識裡に発展を遂げていた習慣的意識が内なる精神を凌駕してしまっていたという或る種の精神的法則性も浮かび上がっては来る。

 その結果、一般論を含めた思想に対する自己欺瞞が成立してしまう訳だが、では逆に形成されてしまった精神を覆す術などあるのだろうか。そんな方法があるのならそれこそ大金を叩いてでも手に入れたいものである。

 話の最中にまた自分の世界に埋没していたであろう息子を案じる母はこう言う。

「何にしても身体を動かす事や、仕事もせんとじっと考えとうからそんな訳の分からん思想が芽生えて来るねん、水泳でもしたらええねん、完全に運動不足やろ」

 次々に図星を突いて来る母だった。敢えて言い返さなかった英和であれど、一応の対戦は試みていた。確かに母の言うようにじっとしていれば要らぬ思慮を巡らす事にはなるだろう。それが災いして病に冒される可能性すらある。でもいくら仕事やスポーツ、趣味に打ち込んでもその根柢に根差す固い岩盤のような悩みを溶かす事など出来ようか。もし出来たとしてもそれは一時的にそこから回避しただけに過ぎず、謂わば誤魔化しているだけではなかろうか。

 真の解決法とはその固い岩盤を打ち砕き、その身を清める事にこそあるのではなかろうか。つまりは元凶を断つ。元を正さずして報われる進化などありえない。そう確信する英和だった。

 ただ一つ問題なのはその元を正すという作業が如何に至難の業であるかという事であった。強者ならまだしも彼のような見せかけだけとはいえ繊細で、惰弱な人物にそんな大業が成せるとは到底思えない。そこに立ち向かう事さえ儘ならないだろう。

 とはいえ天には天の、地には地の悩みがありいくら身分のある権力のある強者でも全ての悩みを払拭する事など出来る道理もない。

 それでも行く道は行くしかないのが人間社会であり、万物の逃れ得ぬ性でもある。

 吉凶は人に依りて日に依らず。人に旦夕の禍福あり、天に不測の風雲ありとか。

 今日一日で彼が経験した事も所詮は成るべくして成った。来るべくして来た、味わった事柄なのだろうか。だとすれば運命的な試練にも思えて来る。

 何れにしても怪しげな雲行きを感じる英和はその因果を断ち切る事が出来るのだろうか。亦そうしたいと願っているのだろうか。

 今宵の満月は地上を埋め尽くさんばかりの美しい輝きを放ちながら、清楚にも妖艶に佇んでいたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

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