人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

まったく皺のないTシャツ 三十章

 何時になっても社長は来ない。痺れを切らせた一哉はマネージャーを問いただす。

「どうしたんだ? 一体何があったんだ?」

 彼は未だに口を開こうとはしなかったが、一哉の気迫に圧倒され、怯えながらもようやく話をし出した。

「実は、この先のスケジュールは殆ど空なんですよ・・・・・・」

「何? 一体どういう事なんだ?」

「はっきりした事はまだ分かりませんが、恐らくは陰謀です、何処の局も相手にしてくれないのです」

「どんな陰謀なんだ?」

「林ですよ」

「あいつがどうしたんだ?」

「御存知の通り、あの人の事務所は大手で、あの人自体も業界にはかなりのコネがあり、彼が手を回したとしか考えられないのです」

「いくらあいつでもそんな事までするか?」

「過去にも例はあるのです」

 一哉は苛立ち、林の事務所に行こうとした。

「ちょっと待って下さい、今行った所で何にもなりませんよ、それより社長の出方を待った方が良いです」

 確かにそうだった。今行った所で確たる証拠もない以上、相手にもしてくれないだろう、軽率過ぎる。だがこの気持ちをどうすれば良いのだ、一哉は仕方なく社長が来るのを待っていた。

 マネージャーが言うにはこの林という俳優は芸能界だけでなく、財界や政界にも通じており自分の意に沿わない奴は悉く始末するといった性格で、今までにも彼の手に掛かり干された芸能人は数知れない程だそうな。だが一哉とはほんの数回共演しただけなのに何故そこまでして敵対意識を持つのか、それは一哉に言わせれば実に稚拙な考え方であった。

 でも芸能界というのは所詮そういう所で、売れっ子が突如干されてしまう事など多々ある。一哉は今更ながら自分の居る世界の怖ろしさを痛感するのであった。

 

 昨今の日本には春と秋が実に短く感じる。晩秋のこの時期は既に寒く窓外に見える人の中にはコートまで羽織っている者もいる。だが今の一哉には身体よりも心が冷え切っていた事は言うまでもない。しかしただ冷えている訳でもなく、憤りも混じったその感情はまるでマグマと永久氷壁とが共存するようなありえない光景であり、真夏と真冬を同じ日に感じるような砂漠気候のようなものでもあるのか。でも真に戦慄していたのは一哉本人よりも寧ろマネージャーの方であった。

 昼前になりようやく社長が出勤して来た。社長は既にマネージャーから訊かされていたらしく、亦自身も知っていたらしく一哉に対してこう言ったのであった。

「ま~落ち着け、俺も出来るだけの事はするがどうなるかは分からない、少なくとも完全に干される事まではないだろう」

 と。その言い方は尤もらしくは聞こえるが二人にとっては実に頼りなく冷たい言い方に見えた。取り合えず一哉は家に帰り気を落ち着かせようとした。

 

 家に帰った一哉は一人で海へ出る。冬の海の寒さは街のそれを遙かに超えて、強い海風は心にまで染み入って来る。だが寒さをあまり気にしない一哉は今までと同様、この吹きすさぶ冷たい風に抱かれたいとも思っていた。

 数百m沖へ出た所で碇を下ろしただボケーっとしていた。冬の荒波に揺れる船、空を飛び回る鳥の群れ、遙か彼方に聳え立つ水平線、それらの景色は今の一哉の心にどう響くのだろう。ただ一つ分かっている事はこの風景自体が一哉の荒んだ心を癒やしてくれる事だった。

 そのまま2時間も黄昏れていた一哉が思っていた事は『海に成りたい、海に成りたい、この海の雄大さは凄過ぎる、荒れ狂う波は皺だらけではあるが、それは俺が嫌いな皺では無い、俺が嫌いなのはあくまでも人間の、醜い心の皺なんだ、でも今の俺の気持ちも皺だらけではないか、こんな俺は本来の俺ではない!』一哉は海に唾を吐きそして海に対して手を合わせるのだった。それは神社の境内で手を合わせるのと同じく何かを祈願するといった風でもあったが、この時の一哉は無心になり手を合わせただけで、言うならば礼を言ったつもりであったのかもしれない。

 こうして約2時間の黄昏れは終わり、一哉は家に帰る。そして母には何も告げずに奈美子の家へ向かう。奈美子も相変わらずの佇まいで部屋で一人ポツンと坐っていた。

 一哉の顔を見た奈美子はいきなりこんな事を口走った。

「やっぱりね」

「何がだよ?」

「貴方、今窮地に陥ってるでしょ、私には分かるのよ」

 この奈美子の洞察力も相変わらずで、今更口論する気もなかった一哉であった。

「そうだよ、雲行きは怪しいな」

「何も心配する事ないじゃない、もし貴方が干されても私が食べさせてあげるから」

「何言ってんだよ」

 そうは言ったものの一哉はその可能性も満更でもないと少し暗鬱な面持ちを示す。

「いいから早く横になりなよ、この前何もしないで帰ってしまったから物足りないのよ」

 と言って奈美子は服を脱ぎ出した。一哉は何も言わず奈美子に促されるままにその身体を預ける。すると奈美子は何時にも勝り、貪欲に一哉の身体に寄り添って来た。

 一哉も我を忘れるべく奈美子のその色香に酔いしれた。いやらしい事だが奈美子のテクニックは日増しに巧くなり、一哉の身体を操るが如く巧みに立ち回る。その姿は流石にプロといった様子で一哉はただ奈美子に身を任せるのであった。

 事を終えた奈美子はこう言った。

「そろそろ私達同棲しない?」

「何だよ急に?」

「急でもないわ、何時までこんな状態を続けるつもりなの?」

「・・・・・・」

「決まったわね、ここじゃちょっと狭いから新しいマンションにでも引っ越そうよ」

 奈美子は当たり前のように清々しい表情で一哉を言い含める。だが一哉も確かにいい年だし、何時までも家族で生活しているのもおかしいと思い奈美子の意見に同意するのであった。

 

 事が決まった後の奈美子の行動は速かった。身支度を整え既に幾つかのマンションまで見学していたのだ。一哉もそんな奈美子に合わせて支度する。二人は僅か数週間で引っ越ししたのであった。

 その事に対して一哉の母は大して反対はしなかったが、一哉が家を出る時数万円の金を渡してくれた。いくら干されたとはいえ今の一哉は金には困っていない、それなのに母は何故金を手渡してくれたのか、母も奈美子同様先見の明に優れていたのか。そんな戸惑いもあった一哉はだが素直にその金を受け取ったのであった。

 

 生まれ育った一軒家からマンションに越した一哉は一時その環境に親しめなかった。いくら4LDKの高級マンションであっても所詮は同じ屋根の下に暮らす大勢の人間、直ぐ隣にはあかの他人も居る。そうなれば当然ちょっとした物音も聞こえる。神経質な一哉はこの環境に慣れるまで数ヶ月掛もかったのであった。

 

 その数ヶ月が経ち一哉が思っていた事はやはり社長は頼りなさであった。あれからというもの一哉には良い知らせは全く入って来ない。今の一哉はまた昔に戻ったように劇団で芝居をするだけであった。

 この数年間の間にも当然劇団の人にも入れ替わりがあり、新しく入って来た新人もいれば、古参の俳優もいる。一哉が先輩俳優に真っ先に言われた事はこうだった。

「戻って来たのか、久しぶりだったな、また宜しくな」

 この何でもないような挨拶でさえ今の一哉には重苦しく聞こえる。今までの俺は一体何だったのだ? ただの一発屋だったのか? ついさっきまでは眩しい程ライトアップされた場所でみんなの期待に応えるべく華々しく活躍していたのではなかったのか? それが今また舞い戻ったこの現場はどうだ? 一応舞台はあるが決して華までは感じない。ただみんなが意気揚々と稽古に明け暮れているだけではないか? 

 そんな中で一哉はまた芝居に精を出す日々が続く。それは母に奈美子、自らが観た悪夢、そして奈美子が読んでいたあの悲劇的な小説、その全てが一哉の将来を暗示させるものであったのか。未だに自分が今置かれている現状に疑いの気持ちを隠せない一哉ではあったが、事ここに至ったからにはこの状況を受け入れるしか術はなく、また以前のように劇団での芝居に勤しむ。

 

 もはや今の一哉には巡り行く気節などには一切気が向かず、ただこの憂愁とした光景に混沌とした我が想いを任せるだけなのであった。

 

 

 

 

 

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