人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

今週のお題~心の卒業

今週のお題「〇〇からの卒業」

 

  卒業ですかぁ~。卒業に進学に就職、様々な出会いがあって別れがあるこの季節というのは人間の感性が一番露骨に表れる時期ではないでしょうか。

 と、ま~相変わらず硬い表現な訳ですけど(笑) でもそんな自分でもミーハーな考え方をする事も勿論あります。卒業に因んだ話ではAKBの卒業メンバーですね。はっきり言って自称硬派な自分はAKBなどほとんど興味ありません。唯一興味があったのは大島優子だけです。本当に可愛いですよね、美形ですね。こんな事言えば反感を買うかもしれませんがAKBというのは大島優子一人で持っていたんじゃないのかと思うぐらいで、他のメンバーには全く関心がないですね。大島優子が卒業してから何年も経ちますが未だにそう思っています。

 因みにAKBで好きな曲は「フライングゲット」と「恋のお縄」です。

 

住まいの卒業

 自分はこれまで2回引っ越しをして3軒の家に住んで来ました。一番印象深いのは当然最初の生まれ育った家です。そこは海沿いにあって、知らない人の方が少ないぐらいお互い顔見知りばかりの義理人情に溢れた下町の中の下町でした。親が自営業を営んでいた影響もあってそういう環境は尚更でした。

 子供の頃は家の前の道路でキャッチボールや壁球(擁壁で一人キャッチボール)、時には実際の野球やサッカー等もしていましたね(笑) でも当時は車も少なく亦運転している側にも許容性があったのか文句を言って来る人などほとんどしませんでしたね。それどころか擁壁沿いに車を停めようものなら逆にその車にボールを当てて遊んでいる事までありました(笑) 今では絶体考えられない話です。

そんな環境で育った自分は云わば「下町原理主義者」になってしまった訳です(笑)

 ところが親が店を辞めたった一つ隣の丁に引っ越したら環境は一変します。同じ町なので知り合いも結構いたのですが路地を入ったその家の窓からは海は見えませんし、それまで辺りを自分に庭みたいな感じで生活していた自分にとってはめちゃくちゃ住み難いといった心持でした。確かに贅沢な考え方ですよね。でもそれが正直な気持ちです。

自分で言うのも烏滸がましいですが引っ越してから1年ぐらいは生きている感じさえしませんでした 😢

 でも年を取るに連れて免疫も出来て徐々に慣れては来ます。そこでの生活が数年間続きまた引っ越しをする事になります。

 そして今住んでいるマンションに辿り着きます。マンション生活など初めてであった自分は最初めちゃくちゃ抵抗がありましたね。それこそ贅沢な話ですがこんな所で人が住めるのかと思ったぐらいです。隣にはあかの他人が住んでいると考えただけでぞっとします。いい年晒してこんな事言うのは本当におかしいのですが集合住宅に住む免疫などは自分には一切備わっていなかったのです。

 でもそんな事ばかり言っていても仕方ないのでここでの生活ももはや慣れては来ました。が、やはり自分の目標というか夢は下町にマイホームを建てる事ですね。今からでは難しいでしょうね~ 😒

 これこそ時代錯誤な考え方で今の時代では理解してくれる人はほとんどいないかもしれませんね。地元でも年々下町の風情は薄れて行き、もはや無いに等しいかもしれません。本当に時代の流れは怖いぐらいです。でもこんな弱気ではダメですね、前向きに生きて行くしなかいのです。どないやねん? という話なんですけど(笑)

何が言いたいかと言えば、要は余り深く考えずに時代に流されて生きて行くしかない、そういう拘りから卒業しなければならないという話ですね。でも未だに拘りは持ち続けていますが。難しい話です。

 

〇〇からの卒業

 前述した話の続きみたいなものですが、人は一体何から卒業するのか? 何故卒業するのか? といった事をもう少し掘り下げて考えて行きたいと思います。

 まず学校や組織等から卒業すると、ごく当たり前の話なのですが形式的には当たり前でも心はどうでしょう。卒業式に参加するだけで心まで卒業する事は出来るのでしょうか。自分には到底そうは思えません。人間そんなに器用な生き物ではないような気がします。未練が残る場合や何時まで経っても精神年齢の低いままという人も多いような気もします。こういう式というのはあくまでも単なる節目に過ぎないと思うんです。でもその節目も大切です。

 


  そこで自分の好きな尾崎豊の「卒業」に目を当ててみたいと思います。

 一番気になったのは「この支配からの卒業」というフレーズです。この支配というのは何を指しているのでしょうか。勿論学校という枠の中で支配されている事を謳っているとは思いますが果たしてそれだけでしょうか? 自分にはそれだけでは無いと思えます。それは何故か? 人間という生き物は常に何かに支配され続けていると思うのです。いくら学校を卒業した所で社会に出れば社会の支配があります。私生活でもそうです。人間は常に何かに拘束され続けています。無論中には本当に自由奔放に生きている人もいるとは思いますがそれはほんの一握りだと思います。そしてそれは形式的な事で心が真の意味で自由に解放されている人などいるのでしょうか? 少なくとも現代日本社会にはいないと思います。

 真の自由を追い求めていた尾崎の真意はその辺にあるのではと思う所ですが、尾崎もその真の自由を手にする事が出来たのかは分かりません。ただ少なくとも学校を卒業すれば支配から解き放たれるといった短絡的な事を謳っていたのではないと思います。

 今の日本にこういう感じの歌い手がいないのが本当に残念な事ですが、もはや自由を求めている人も少ないのではないでしょうか? 寧ろ現代人は自ら支配される事を欲しているような気もします。それは余りにも人間関係ばかりを気にしているような感じが見受けられるからです。確かにそれも大切な事です。でも物事は行きすぎると帰って悪い方に向かってしまうとも思うのです。たとえば人が好過ぎるのは悪いのと一緒でそれは表裏一体、紙一重の関係と思います。

 


 よく「輪の中に入る事だ」とか言う人がいますがこの「輪」とは何を意味するのでしょう。普通に考えれば人の輪とは思いますがそれが真の意味での絆のある「和」であれば自分も進んで入って行きたいと思います。でも今はそういうのではなく単に「馴れ合い仲良し倶楽部」を演じているだけのようにも感じるのです。

 それこそが元来の日本人文化なのかもしれません。でも最近は特にそういう単に右へ習え、長いものに捲かれろみたいな風潮が酷くなって来たように思えます。ここで断っておきたいのは何も無理に一匹狼を決め込んでいろというのではありません。ただ余りにも空気を読み過ぎて自分の足元を見失っているような感じがするだけです。そうしなければ何時になっても真の自由えお手に入れる事など出来ないと思います。

 長渕の「明け方にはケリがつく」という曲に「流される事なく流れて行くだけで精一杯」というフレーズがありますが正にその通りとは思いますが言うは易し行うは難しですよね。

 また長々と御託ばかり垂れてしまい申し訳ないのですが一番言いたいのは、こういう温い風潮からそろそろ現代人は卒業しても良いのではないでしょうか。という話です。

勿論これは自分自身にも言い聞かせている事です。別に他人の事に干渉するつもりでもないですが要は「時代からの卒業」という話ですね。

 

結局また硬い話になってしまい本当に申し訳ありません 😉