人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

論破とは?  ~真意を探ろうとしない現代日本社会

 

 

          月替わり  未だ感じぬ  夏の色(笑)

 

 

 いやいや、梅雨やコロナの影響も然ることながら、なかなか心の夏は訪れないものです。無論それは自分次第という事なのでしょうけど。

 とのかく7月、文月になった訳です。こうなったからには心身ともに綺麗さっぱりリフレッシュして夏を謳歌したい所です^^ 

 

 という事で(どういう事やねん!?)今日は日頃ネット上などでよく目にするワード

「論破」これについて語って行きたいと思います。

 

論破とは? その意味は?

 まずこの論破という言葉の意味ですね。今更なのですがこれは読んで字の如く議論して相手の説を破る事。言い負かす事。とあります。

 初めに着目するべきはこの議論なんですよね。議論という言葉が意味する所は、自分の考えを述べたり他人の考えを批評したりして論じ合う事。その論の内容。とあります。

 この二つを併せて考えると取り合えずは議論していない事には論破もクソもないという話です。 何が言いたいのかと言うと、真の意味で相手を論破してるようなシチュエーションなど存在するのかという話なんです。

 ネット上では「誰それが誰それを論破」とか「論破してやった」「論破された」みたいなタイトルの動画や、記事をよく目にします。自分も暇な時に幾つか見てみた事もあるのですが、自分が見た中ではまず完璧に論破したようなものは一つも無かったです。

 ただお互い意見を言い合っているだけなんですよね。或いは煽ったりDisったりして遊んでるだけみたいな動画ばかりです。この時点でまず議論にすらなって無いのです。とてもじゃないですが論破などという言葉には程遠いと思います。

 話をしている二者に余りにも知性、知識の差があって全く知らなかった事を突かれた場合は確かに論破した事になるかもしれません。ですがそこまで専門的な話でもない場合は互いの価値観や感性、思考が多様化した今の時代(実はこれは昔から)にその精神的な側面に於いては相手を論破する事など不可能ではないかと思われます。

 それを単に語気を強めたり、荒い口調で相手をねじ伏せた所でそれは単なる口喧嘩であって議論でも何でもない訳です。依って論破もクソもありません。

 こういう事象は特に国会中継に多く見られます。「○○議員が○○議員を論破」とかいうタイトルの動画が結構ありますが、正に前述の通りで全く論破などしていません。ま、大袈裟なタイトルを付けて再生回数を稼ぎたいだけなのかもしれませんが、余りにもお粗末で愚かな行為だと思いますね。

 

 もう一つ加えるならば仮に、百歩譲って論破したとしてそれがどうしたの? という話にもなって来ると思います。世の中口が達者な人もいれば口下手な人も当然います。思っている事を巧く表現出来ない人もいます。逆に言えば心にも想っていない事を口にして相手をねじ伏せようとする人もいます。

 そんな事をして人を打ち負かしたとして何が嬉しいのでしょうか? 何か達成感でもあるのでしょうか? そんな人は自分に言わせればはっきり言って「ウレシ」です。ウレシというのはもはや死語になってしまったかもしれませんが、要するにお目出度い性格という意味です。

 人の揚げ足を取ったり重箱の隅をつつくような事をして論破したつもりになり、鬼の首でも取ったかのように得意気になって舞い上がっている人を見ると寧ろ哀れに思えて来ます。

 

真意、本質を探ろうともしない慣習 

 

mainichi.jp

 

  またまた嘆かわしいニュースを見てしまいました。

 自分も数年前、発覚した時から森友問題には興味を惹かれ国会中継は言うに及ばず、ニュース、ネット記事、実際に豊中にある瑞穂の国記念小学院にも行って来ました。普段無気力無関心な自分が、何故かこんな事にだけは興味が沸くというのもおかしな話ですけど(笑) ま、不謹慎な言い方ですがお祭り好きという事なのだと思います^^

 

 そこでこの記事なんですけど、前述したようにまず議論、会話にすらなっていませんね(笑)  麻生氏は始めから取り合う気が無かっただけかもしれませんが、別に記者が的外れな質問をしている訳でもないと思います。

 それなのに相手にしない、何時ものように相手を嘲笑う、上から目線でものを言う、少しでも突っ込まれたら逆切れして罵倒する、或いは開き直ると。本当にこれで一国の大臣、副総理といえるのでしょうか。

 赤木さんは強引な上からの指令に依って良心の呵責に耐え切れずに自殺してしまいました。これにも賛否両論はあるでしょうけど、いじめで自殺する事件と同じで如何にイジメられる理由原因があろうとも、本人が弱かろうとも、防ぐ策があろうとも死んでしまった事には何ら違いは無いのです。

 その死者を冒涜するような行為は絶体に許せない事だと思います。それをいくら批難しようとも、強者の意見で弱者をねじ伏せようとも何の意味もありません。言い方は悪いかもしれませんが、弱いからこそ死んでしまったのです。何故その弱者の気持ちに寄り添う事が出来ないのかが全く理解出来ません。これは決して綺麗事などでは無いと思います。

 それを一般人どころか、官僚どころか一議員どころか財務省の長である大臣をもが志ある部下の死を蔑ろにするような発言は絶体に許されない行為だと思います。

 このような政界に於ける不祥事、事件は昔から幾つもあった訳ですが、少なくとも昔はもう少しでも真相解明に向け与野党問わずに真剣になっていたと思います。その真剣さの中には当然、人の心が多分に含まれているという事になります。

「恒産なくして恒心なし」と言いますが、今のお上には恒産はあっても恒心は全く無いように思われます。

 何時も思っている事ですが、上が姿勢を正さずして下々を律する事など出来よう筈もありません。上流が濁っているのに下流が綺麗な訳が無いのです。無論一概には言えませんが、こういう人達が増えた からこそ今の日本では礼儀もマナーもモラルも地に堕ちてしまったのではないのでしょうか。自分にはそう思えてなりません。

 

 頭でっかちな人ばかりが増えて人を論破する事にばかり躍起になって、肝心の人の心は全く見えていない、亦見ようともしない。それは事の本質、真意を探ろうともしないという事に繋がって来るとも思えます。

 ま、人は世に連れ世は人に連れとは言いますけど、その中でも失ってはいけないものもある筈です。そのバランスを維持する事は難しいかもしれませんが、今一度足元を見つめ直し、心の瑕疵を補い、修復して行く必要があると思います。無論これは自分自身にも言い聞かせている事でもあります。

 

 またまた硬い話で申し訳ありませんでした。また新たに小説連載始めましたのでそちらも応援宜しくお願い致します 🙇 

 という事で土曜日恒例の銭湯に行って来ます 😉