性善説、性悪説だけでは量れなくなった現代人の精神構造
肌寒さ 何時まで続く 春情よ(笑)
おはようございます。今日はまた「喜怒哀楽」の怒と哀の話です。月曜からこんなダークなテーマになる事をご了承願いたいと思います。
本当にやり切れませんね。何故こんな事をするのでしょうか? どういう意図で?
まるで十代の不良学生の所業だと思いますね。それも人がいない時に陰湿な嫌がらせという形で。
確かにコロナを怖れるが故の行為だとは思いますが、全国に蔓延るこのコロナ差別。何故人は差別をするのでしょうか? 単に人を蔑みたいだけ? 自分さえコロナに罹らなければ良いのでしょうか? 真に目指すべきはコロナの終息であって、自分だけが助かりたいかのような個人的で狭量な価値観は寧ろそれを妨害する事になると思います。
本当に嘆かわしい話ですね~・・・・・・。
自身の経験
コロナに関する記事は以前に綴った事がありますので参考にして頂ければ幸いです。
自分はまだコロナに感染していないので、実際に感染した方には知ったかぶりするなとか言われるかもしれませんが、誠心誠意考えていますのでお許し願いたいと思います。
今回のニュースでは医院が被害に逢われていますが、病院や店、個人や団体といった形式だった枠組みの話では無く、あくまでも一人間としての問題だと思いますね。今コロナ感染者を差別している人達も、もし自分が感染すればどう考えるのでしょう? それすら既に感染している人達や政府の所為にするのでしょうか?
感染して尚そんな事ばかり言っていても埒が明かないですし、今度は自分が差別される可能性も出て来ます。結局は堂々巡りで正に負の連鎖です。何故その連鎖を断ち切ろうと思わないのでしょうか? 少なくとも自分には理解不能です。
無論これはコロナだけに限った話でもありません。学校や職場でのイジメ問題、私生活での人間関係に至るまで人間という生き物は様々な所で思い悩み、葛藤し続けて生きて行くしか道はないとは思います。
ですが自分の経験だけで考えてみても昨今の人間関係に一番影響を及ぼしているのがイジメだと感じます。自分は今までの人生に於いてそこまで露骨なイジメに遭った経験はありませんが、それに近い、似たような経験はありますし、何度となく目にもして来ました。自分みたいな物事を流せない人間はその度に一々葛藤していました。
中でも言い方は悪いですが少し面白かったのは、今までイジメていた側の人が後にイジメられる側になっていた時です。するとその人は一気に大人しくなり自分にまで悩みを打ち明け、弱弱しくも優しい顔つきで接して来ました。
自分はそれまでと変わりなくその人と接していましたが、ここで疑問に感じた事は
『何で今頃になって大人しくなっとんや!』『それやったら最初から調子乗んなよ!』と言いたかったですね。
要するに普段から全く中身のない輪の中に入って、自分一人だけでもハブられないよう必死にクソ下らない空気を読みまくって、馴れ合い仲良し倶楽部ばかり演じているからこうなるんですよね。そこまで空気を読むのが巧いのであれば、その力を何故イジメられている側に向ける事が出来ないのか? さっぱり分かりません。
そしていざ自分がハブられれば自分のような凡人にまで泣きついて来る始末と。本当に滑稽な話です。
何故自分が今置かれている立場と反対の立場の人の気持ちを考える事が出来ないのでしょうか? 確かに人間は不器用な生き物で実際に経験しない事には分からない事も多いとは思います。でも一々経験しないまでも分かり得るような、かほどに明らかな事すら読めないような人ははっきり言って人間失格だと思います。
そんな事は誰から教わる事でもなく人間が生まれながらに持ち合わせた心で、そういう意味ではまだ子供の方が賢いとも思います。それが年と共に劣化してどないすんねんと思いますね。
ま~得てして人間は団体になればなるほど、そういう行為に出る人が多いように感じます。だからこそ自分は団体行動が大嫌いなんですけど 😒
現代人の精神構造
孟子の性善説に対して荀子の性悪説。自分はこういう二元論自体が余り好きではないのですが、こればかりはどっちかしか無いように思われます。
これを差別やイジメ問題に照らし合わすとどうなるか? 一見イジメをしている側が悪とも思えますが、その限りではないと考えます。
それは何故か? これはあくまでも自分の主観に過ぎないかもしれませんが、善悪どちらでも無いからです。善にしても悪にしてもそこには何がし志が伴っていなければそれを形成、主張する事は出来ないと思います。
一体どういう事か? 差別やイジメをしている側には志や心意気、心根が全く感じられないからです。あくまでも悪ふざけをしているだけにしか見えないからです。そしてイジメをしていない側も相変わらず傍観しているだけと。
去年辺り「ウェーイ」とか言ってコロナ感染を拡大してやろうなどと言っていたダボキチ(神戸弁でダボ(アホ)のキチガイという意味)どもも、いざ自分が罹れば一気にしゅん太郎になり、「すいませんでした、後悔しています」などと泣きを入れていました。一体何がしたかったんや!? と言いたいですね。やるんやったら本気でとことんやったれよと。半端極まりないです。
あと何年か毎に起きると言われている無差別殺傷事件も同じです。「誰でもいい、何人でもやれる」とか大言壮語しておきながらもやっている事は結局は弱い者イジメと。話は飛躍しますが、どうせやるのならもっと大きい事せーよ! と思いますね。死ぬ事を覚悟してまでまだそんな小さい事しか出来ないのかと。
こんな事件は無差別では無く寧ろ有差別なんですよね。その見境が付いている時点で精神異常者とも呼べないと思いますね。
何が言いたいかと言えば要するに現代人の精神が薄弱しているどころか、既に思考は停止し精神まで去勢されてしまっているんですよね。価値観の多様化などとカッコの良い事を言っている人もいますが、全く違います。
その停止した思考や精神にはもはや古の賢人の性善説や性悪説でさえも適応する事は出来ないのです。
要するにそれ以前の話で、まずはその失われた思考と精神を取り戻すべく目を醒ます必要があると思います。
自分は常にこういう考え方をしているので、今までも知人や友人、過去に付き合っていた女性、更には親兄弟や叔父にまで
「ダサい、古い、硬い、時代錯誤」
などと揶揄されて来ました。でも自分はこれからもこういう考え方を変えるつもりはありませんし、たとえ万人に否定されても自分を通して生きて行きたいと思っています。
またまた長々と講釈を垂れ流してしまいましたが、気を悪くされたら申し訳ありません。でも決して上からものを言う訳でもなく、自分自身への言い聞かせでもあります。
とにかくもっと心を感じたい今日この頃ですね 😉