人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  十話

 

 

 或る日英和は何時も通っていた銭湯でばったり義久と出会う。彼の底を見せぬ相変わらずの無表情な顔つきには未だに釈然としないものがあったが、どうせパチンコで負けたであろうと予測する英和は貸した金が返って来る事に期待はしなかった。

 風呂場に入った時点で何か人の視線を感じる。他人に干渉する事を嫌う英和は毅然とした態度を崩さなかったが、知り合いの常連客の一人が声を掛けて来た。

「おい、お前そのケツどないしたんや? 真っ白やんけ!」

 笑いながら訊いて来るその者に一瞬動じた英和だったが、よくよく自分の身体を見てみると確かに腰から下、股にかけての部分だけが真っ白になっている事に気付く。それは部活動で穿いていた水泳パンツに依ってその部分だけが日焼せずにいた為、他の部分と比べて際立って白く見えるといった滑稽なものだった。

 無論他の部分が日焼けしていただけで地肌が特別白いという訳ではなかったが、改めて鏡に映る身体の色の違いを見ると男ながらにも羞恥心がわいて来る。

 彼は照れ笑いをしながらも一応の説明して、逃げ込むように湯舟に浸かるのだった。

 先に入っていた義久も周りに影響されるように少し笑っていた。そして英和が口にするであろう借財の件に対し、訊かされる前に自分の方から言及するのだった。

「この前ありがとうな、上がってから返すわ」

 彼の言葉は多少なりとも英和を愕かせた。まさか儲かったのか、それともただ律儀に返済してくれるというのか。しかし珍しいとも言える義久の言動であっても、カッコをつける訳でもないが3千円ぐらいの貸金に執着する英和でもなかった。

 彼が真に問い質したかったのは言うまでもないあの件以来義久が態度を急変させた事だった。英和は少し神妙な面持ちで訊き始める。

「金もそうやけどお前、何であれから俺らの事無視しとったんや?」

 流石の義久もその間の抜けた顔に似合わない真剣な眼差しを以て答えようとする。

「あれは親に言われとったんや、たとえ二人にどつかれても警察ではほんまの事謳えってな、俺かって始めは黙っとったんやで、でも結局は口割ってもたんや、ほんまにごめんな、すまん!」

 この時英和は思った。確かに義久の言にも一理はあ。自分の事を棚に上げて言うのも烏滸がましいが、義久如きが警察に迫られて何時までも黙り通せる訳がない。そういう側面から考えると不憫にも思えて来るし、所詮は誘った自分にも非はある。

 しかし問題は要らぬ助言を与えた彼の親御さんの事で、全てを白状するという潔さ、そして被害者への償いが一番重要である事は当たり前ながらも、初めから仲間を裏切るような行為を促すという思考にははっきり言って承服しかねる。

 もし自分なら最後まで仲間の事だけは庇うといった信条も所詮は主観に過ぎず、客観的に見れば決して正しいとも言い切れない訳だが、義久の親御さんは余りにも物事を割り切って考えているような気もする。

 それに加え一度は態度を急変させ、恰も訣別でもしたかのような雰囲気を漂わせていた義久が今になって折れて来た、それも金を無心するという形で。

 この事を真正面から受け取ると義久へ対する恨みは凄まじいまでの力で込み上げ、顔を合わせた時点で殴り飛ばしてやりたいといのが正直な気持ちかもしれない。でも両者の間に軋轢にも及ばない些細な行き違いを起こしてしまった要因はあくまでも自分に端を発していて、贖罪を果たす義務や倫理とは別に、過失とも思えてしまう今回の件での落ち度は常に完全性を保ちたい英和の潔癖な精神を深く傷付ける。

 こう感じてしまう事にこそに己惚れがあろうとも人が持って生まれた性質を変える事はまだ若い彼等にとっても容易ではなく、人生に対する拘りが人一倍強い英和のような神経質で割り切る事を知らない狷介な者には尚更堪える。

 風呂から上がり脱衣所で着替えてから義久は金を返してくれた。

「はい、ありがとうな」

 手渡された5000円という金額を訝る英和は反論する。

「何やこれ? 多いやんけ、こんないらんわいや」

 と言って貸した3000円だけを受け取り残りの2000円を返そうとすると、先程風呂場で声を掛けて来た知り合いがまた声を掛けて来たので英和は結局5000円をそのまま懐に納めて平静を装い始める。

「そっか、水泳頑張っとんか、ええやんけ、若いうちは何かに打ち込まんとな」

「はい、頑張りますわ」

 一応返事はしたもののそれは言うなれば社交辞令みたいなもので、青春を謳歌させたいなどといった想いはあくまでもギャンブル依存を緩和させたいだけに過ぎなかった自分の意図を改めて知る英和だった。

 それを証拠に彼は店を出てからも2000円を義久に返そうとはしなかったのだった。それは取りも直さずこの二人に共通するギャンブル好きな意志的な性格が齎した惰弱な精神に依る所が大きく、付き合いの長さだけで無意識裡に育まれていた両者の上辺だけの仲が災いした結果に相違ない。

 その上でも未だに逡巡と戯れる英和は繊細な気質の人物というよりは、やはり単なる優柔不断で見せかけだけの優しい男であったのかもしれない。

 

 時は過ぎ正に夏本番。燦然と照り輝く強い陽射しの下で意気揚々と生活する人々には、まるで羽を得た蝶や鳥のように今にも羽搏かんとする勇ましさが漂っている。

 身体から滲み出る汗は厳しい暑さを嫌うというよりは寧ろ自然現象に対する正直な気持ちの表れで、光る素肌の煌きはなにものにも代え難い純粋な艶を保っている。

 古今東西、老若男女を問わず、亦この夏という気節に抱く想いも千差万別なれど、何故か特別な感情が芽生えて来る者も多いのではなかろうか。その最たるは季節の変わり目で、夏が過ぎてしまうと自ずと寂寥感に包まれる心情にも普遍性を感じる。

 緑が実に映える美しい樹々はその大きな身体で光合成を繰り返し、街の喧騒を和ませるようにして柔らかい空気を作り出し、人の心を癒やすと共にその感覚を明瞭にしてくれる。自然の理にして自然の摂理というものは一切の妥協を許さず常に反芻しながら、衆生の精神を代謝し浄化を促す役割を担ってくれているが、それに報いらんとする人々の意志は何を以て奉公すれば良いのだろうか。

 入部してまだ数ヶ月しか経たないにも関わらず、英和は大会に出場出来る運びとなった。そうなったのは彼の日頃の行いが良かったのか、その練習に対する姿勢が認められたのか、単にタイムが出ただけなのかまでは分からない。

 でも望んでいなかったとはいえ大会というものは練習の成果を示す事が出来る格好の場であり、是非はともかく心を震わす晴れの舞台でもある。

 顧問の先生は何故か英和の事を気にかけてくれ、タイムを更新出来たなら飯を奢ってやるとまで約束してくれていたのだった。それと同時に言われていた事は煙草だけは辞めろというそれこそ当たり前の話だったのだが、彼が煙草を吸っていた事を先生は既に知っていたのか憶測だけなのかまでは分からない。

 だが賭け事が好きな英和はたかが飯とはいえ自力で勝ち取れるギャンブルのような感じで受け取り、どうあってもタイムを出そうと躍起になっていた。

 大勢の者が参加する水泳大会で彼の出番はやはり100mフリーという種目一つだけだった。他の部員達が次々に出場し、そのタイムもそこそこのものだった。帰って来た部員に英和は労いの言葉を告げる。

「お疲れさん、流石やな~、インターハイは間違いないな」

 彼がこんなベンチャラを言えるようになったのは入部してからで、それまでは誰に対してもたとえ冗談でも言わなかった。それは不器用で言葉が足りなかったというよりはただ単に言うまでもない事を一々口にするのが嫌なだけであった。

 それが何故ここに来てそんな事を言うようになったのかは、必死に泳いでいる時に無心の裡にも脳裏を過る直子の姿に感化された為であった。彼女に対する情愛は英和のような些か気難しい人物の精神にも試練という名の余裕を与えてくれたような気がする。

 思慕の念とでも言おうか。大袈裟は話かもしれないが或る目標を自らに課す事に依って更なる情愛が生み出される事は往々にあるとも思える。そして自信があるからこそ見出される余裕。無論そこには幾多の試練が待ち構えている訳だが、英和は気力だけで打ち込んでいたような感もあった。

 いよいよその出番がやって来る。50mという長水路のプールには体力的な意味でも緊張が隠せない。そのうえ大勢の観客の視線は、気にならないまでも姿があるというだけで有形の圧力というものを投げ掛けて来る。

 英和のコースは全7コースあるうちの5コースで自ずと弱い部類に選別されていた。そんな事に動じる彼ではなかろうとも、他の選手達の入念に鍛え上げられたスイマーと言わんばかりの見事な逆三角形の体型には多少なりとも畏怖し、憧憬を覚える英和でもあった。

 爆竹のようなピストルの音でスタートが切られる。一同はイルカのような曲線を描きながら颯爽とプールに飛び込み、烈しい水飛沫を散らせながら疾風の如く泳ぎ始める。

 観客席からは煩いほどのセイセイという歓声が聞こえる。だがその声は泳いでいる本人には正に援護射撃をするような頼もしい見方であり、気持ちは昂る一方だった。

 50mのプールでは水圧も数倍に感じられ思うようにスピードが乗って来ない。このままでは最下位になってしまう。そう感じた英和は持てる力を振り絞り一心不乱になってただ泳いでいた。

 するとターン寸前で或る幻像を見る。それは直子なのか康明なのか義久なのか、或いは親兄弟なのか。はっきりとしない幻像は果敢に声援を贈ってくれる。

「もっと頑張ったらんかいやおい、お前の力はそんなもんかいや、根性見せたらんかいや、ほら行けゴラァァァーーー!」

 時代錯誤の精神主義とも言えるこんな言葉を直子が発する訳はない。そして康明も義久も。ならばやはり親なのか。でも母はいくら男勝りな気丈な女性であるとはいえこんな口汚い物言いはしない。とすれば消去法で死別した父親なのか。

 英和は敢えて答えを見出そうとはせず、天の声でも聴いたつもりで無心になってひたすら泳いだ。もはや結果などはどうでもいい。ただ完走するだけだ。

 気が付けばゴールしていた彼が見た電光掲示板には3位、1分ジャストという結果が表示されていた。これは幻覚なのか、もし事実であれば明らかにおかしい。初めの50mでは最下位を争うぐらいだったのに、それが何故3位にまで喰い込む事が出来たのか。

 席に戻る英和には騒々しいまでの拍手喝采が待っていた。彼の功を称賛する者達は口々に言葉を告げる。

「おいお前凄いやんけ、後半どうしたんや? 覚醒でもしたんか?」

「流石は英和君、やる時はやるんやな」 

「見直したわ」

 それらの言葉は全て英和の心を直接的に揺さぶって来る。今まで味わった事のない昂揚感と陶酔感。それに浸る彼は未だに幻覚に翻弄されているような感じを拭い去る事が出来なかったが、それ以上に働き掛けて来る感覚的な喜びは何だろう。まるで自分に共鳴するように凄まじいまでの気焔。

 烈しくも優しい純粋無垢な心の情景を、英和はその奥底に眠る自らの魂という心の財布に蔵い込むのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

汐の情景  九話

 

 

 後ろを振り返る事を嫌う者はいても、一度だけでも過去に戻りたいと思う者は結構な数で存在するのではなかろうか。

 前向きな精神に虚勢を感じるとは言わないまでも、その人生に於いて只の一度も昔に戻りたくはないといった思想には多少なりとも無理があるように思える。

 無論そこに災いの種が見え隠れするようなら立ち戻る必要性すら無い訳だが、たとえ一筋の光明でも見えれば自ずとそこへ向かってしまうのが人間心理だろう。

 互いに息を合わすかのようにして後ろを振り返り、歩みを進め、向かい合う英和と直子はその目を見つめながらも言葉を失っていた。こんなシチュエーションに言葉を求める事がたとえナンセンスであろうとも何か一言でも口にしなくては気が済まないのも人間の性みたいなもので、それこそナンセンスながらも英和は思い付いた事をそのまま言葉に表すのだった。

「何で戻って来たん?」

 直子はまるで先に言われたような歯痒い表情をしながらも少しふざけた事を言う。

「ちょっと店に忘れもんしてな、それさえ見つけたら直ぐ帰るねん」

 英和は考えていた。煙草も吸わない、まして財布や鞄を忘れるような彼女でもない。なら一体何を忘れたというのだろうか。女性との経験が殆ど無かった彼はまたしても鈍感な事を口走ってしまう。

「何を忘れたん? 一緒に探そか」

 直子は笑っていた。その理由は勿論英和の余りの稚拙さに依るものだったが、如何に女性に対し奥手な彼とはいえその繊細で神経質とも言える気質を駆使すれば彼女の真意を見抜く事は然程難しいとも思えなく、逆に己が恥じらいを隠す為に敢えて惚けていた可能性もある。

 それをも見透かしていたような面持ちで直子は答える。

「あんたってやっぱりおもろいわ、何でそんな芝居したん?」

 これには流石の英和も困惑せざるを得なかった。何故と訊かれてもあくまでも自然の所作であり、それを言い出せば所詮は彼女も同じではないのか。しかしその中にも感じられる僅かな感情の差異は明らかに生じていて、花を持たせる訳でもないが直子の方が四分六でも心の闘いに勝っていたような感じは否めない。

 ここまで来ればもはや余計な言葉などは必要なかった。日が沈み始めたその光景は無意識の裡に二人を黄昏れさせ、その足は自ずと歩調を合わせ真っすぐな道程を辿る。

 気が付けば二人の身体は或る場所へと運ばれていた。そこは暗闇に包まれた少し怪しい雰囲気を醸し出していたが、腰を下ろした時に得られた柔らかい感触には些かなりとも安心を覚える。それにしてもここは一体何処なのだろうか。だが英和の猜疑心は忽ちにして恍惚感へと変化するのだった。

 直子の豊潤な唇は何時の間にか自分の唇と重なり合っている。両者の指は複雑に絡み合い、その吐息は同じ波長で互いの心情を確かめ合っているようだ。そして恥じらいながらも自らが積極的に立ち回る彼女の姿からは場に擦れたような様子が窺える。

 初体験ながらも野暮な真似が出来ない英和は彼女に身を任せるようにして、ぎこちないまでも精一杯に躍動して見せる。すると彼女はその動きに先駆けて妖艶なまでの優美な曲線を現しながら華麗に舞い始める。

 恐らくは女性が持って生まれた本能的な習性。それを艶やかな舞いと一言で片付けてしまうのは軽率にも勿体ないような気もするが、対する男の本能とはどんな形を以て呼応すれば良いのだろうか。

 少しでも下手をすれば美が損なわれてしまうと懸念する英和はなかなか思うように身体を動かせない。そのじれったさは直子は無論自分自身さえも苛立たせる。だが経験不足な上に奥手で神経質な彼にはどうする事も出来ない。

 このままでは今度こそ本当に嫌われてしまう。そう危惧する英和は目を瞑り無心になって彼女の身体を貪り始める。その手は直子のしなやかな身体の至る所に触れ、その心は本質を突くかの如く知らず知らずに核心へと向かう。

 驚天動地、天地雷鳴とでも言おうか。今正に英和の心と身体は何処か崇高な場所に辿り着き、何か計り知れないものを味わったような感覚を覚える。それはとても言葉では言い尽くせない快楽の境地にして忘我の境地。互いの無我の精神と身体が一体となりその身に覚えた新たなる感覚ではなかろうか。

 そうなれば駆け引きほど愚かな行為もなく、確かめ合うまでにも至らないその現状は真実だけを欲していた。でも真実ほど幻想に近いものも無く、解脱でもしない限りはその意思から一切の妥協を排したとしてもそこに辿り着く事は不可能に近いだろう。

 その刹那聴こえた正に雷鳴のような轟音は烈しくも優しい静寂な川のせせらぎのような繊細な心音で、二人の身体に甘美な刺激を与えるのだった。それに気付いた英和は思う存分直子に攻め掛かる。直子も負けじと迎え撃つ。

 そこから生まれた光は神々しいまでの輝きを放っていた。二人の志、心意気、心根が織りなす凄まじいまでの精妙巧緻なその煌きは天から授かったものではなく、自然の裡に育くまれたものだった。

 その光を全身に浴びる二人はここで初めて我に返る。その意識の中にあるものは単なる情愛や情義などではなく、馬鹿正直な感情だけが作り上げた真っ直ぐな情念。それ以外は何も要らなかったし求めようともしなかった。

 やっとこさ目を開けた英和の視線は直子の目だけを見つめていた。その奥に聳える己が表情など確かめる気にもなれない。

 それにしても何一つ言葉も交わさいまでにこれだけの舞台を演じ切った二人の努力と熱情の結晶とも呼べる所業には、マイクロの単位とも言えるごく僅かな確率の中で生じた奇跡に近いものを感じる。

 二人は同時に口を開こうとした。

「あ、」

「何?」

「いや、」

「はっきり言うてよ」

 今更照れる英和も滑稽だったが、有りのままの気持ちを表現しようとする心の赴きは素直ながらも若干卑猥さを帯びていた。

「感動したな」

「私もよ、でも何に感動したの?」

「そんな事まで言わすなよ」

「確かにね」

 直子の家は結構広く、窓外に映る景色は今の二人の気持ちを代弁するかのように春の麗らかな装いをさりげなく体現していた。

 長居する事を怖れた英和は彼女の親御さんに気付かれぬよう足音を殺すようにして去って行く。その様子に笑みを零す直子もまた、春の到来に歓喜していたのだった。

 

 人の意志とは多かれ少なかれ薄弱さを含んでいるものなのだろうか。せっかく直子と契りを果たし人生で初めて異性と交際し始めたにも関わらず、英和のギャンブル志向だけは未だに収まる所を知らず、その範囲はパチンコだけではなく競馬や競艇にも広がっていたのだった。

 遊び程度でするというのが母との約束であった。それをいとも簡単に破ってしまった彼の所業は許せるものではない。悔恨の念に浸りながらもまだギャンブルを続けようとする頑なな意志を多方向に活かす事が出来ないものか。

 何故ここまでギャンブルなどに打ち興じるのかは自分自身でも理解出来ない。でも金さえあれば自ずと身体が向かってしまう時点で、その心は既に病に冒されていた可能性もあるだろう。

 英和はバイト先の人から或る噂話を訊いていた。

「林田君、滝川君て同級生なんやろ? あの子うち身内の店でバイトしとうらしいんやけど、給料前借りばっかりしてパチンコに嵌っとうみたいやで、あんたも気を付けよ、あんな子とは付き合わん方がええと思うで」

 何故同級生と分かったのだろうか。どうせ義久が軽々に言ってしまったのだろうが彼の口の軽さには憤りが隠せない。その所為で自分までもが無い腹を探られてしまう。

 だが自分もギャンブル好きという点では所詮は同じ穴の狢で人の事は言えない。でも義久とだけは同類に見られたくなかった英和は一時ギャンブルを止めて青春を謳歌させるべく、学業に交友に恋愛にバイト、そして二年生にもなってから水泳部に入部するのだった。

 そう決心したのは小学生の頃から習っていた水泳をしたいという単純な発想だけに起因するもので、多少なりとも自信があった彼は迷う事なく入届けを出す。

 顧問の先生や練習生からは訝られたものの、入ってしまえばこっちのもの。真剣にも爽快な様子で泳ぐ彼の姿は周りに違和感を与えるものではなく、その技量も皆の足を引っ張るようなものでも無かった。

 英和が得意としていた種目はフリーの短距離で、そのスピードは100mを1分少々で泳ぎ切るといったそこそこのタイムであった。

 休憩中に先生が言う。

「お前、なかなかの腕やけど、何で今頃になって入部して来たんや? 1年生から入っとけば、もっと上達しとったのに勿体ないな~」

 英和は少し照れながら謙遜するのだった。

「いや、有り難う御座います、確かにその通りなんですけど、衝動に駆られただけなんです、だから大会などには出れなくてもいいんです」

「ま~これからやけど、でも体力、持久力は大した事ないみたいやな、その辺から鍛えて行かんとな」

「そうですね、宜しくお願いします」

 ギャンブルはする、煙草は吸うで体力が増す道理がない。図星を突かれた英和は思わず動揺し、それを見透かしていた練習生達もニヤニヤと笑っていた。

 練習を終えてから家に帰る途中で俄かに込み上がて来る感情に気付く英和。それは頑張って笑っていた奴等を見返したいという想いと、カッコの良い逆三角形の体型を作り直子に見せてあげたいといった健気な願いであった。

 帰途の道中毎日のように目にするパチンコ店の前で彼は或る人物に遭遇する。今絶体に会いたくなかった義久はこれまでの余所余所しさを一変するかの如く、馴れ馴れしい感じで声を掛けて来るのだった。

 当然英和は無視を決め込んでいたのだが、執拗に迫る義久には何か只事ではない様子が窺える。致し方なくその場に立ち尽くす英和に対し義久はこう言うのだった。

「おう英、久しぶりやんけ、ちょっと助けてくれへんか?」

 英和は相手にせず立ち去ろうとした。すると義久はその手を掴んで懇願する。

「頼むわ! ちょっと困っとうねん、3千円だけでええから貸しとってくれへんか? な、一生の頼みやって!」

 英和はその一瞬義久を殴ってやりたい気持ちに襲われたが、それとは裏腹に何故か放っておけないといったお人好しな感情が芽生えて来るのを感じる。

 彼はあろう事か財布から3千円を取り出し義久に手渡すのだった。義久は案の定とも言える形だけの礼をしてから素早く店に戻って行く。

 英和は何故金を渡したのだろうか。単に義久を憐れんだだけなのか。それとも旧知の仲である彼が自分と同じギャンブルに嵌ってしまった事に対する浅はかな人情なのか。

 自分でも理解出来ない心の変容は事実となって彼の精神を葛藤させる。これこそが意志の薄弱なのだろうか。

 店のガラス戸には、答えを見出せないままに歩き出す英和の水泳で疲れ切った表情が更に衰弱して映るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

汐の情景  八話

 

 

 数ヶ月が経ち英和が高校一年生を終業した頃、家庭裁判所からの呼び出し状が届く。外はまだ少し寒い冬の面影を残し、吐く息の白さは一刻も早い春の到来を期待すると共に昨年度という過去に秘められた万感の思いを表すように自らを切なくさせる。

 移り行く気節と同じく人間という生命も前に進む事しか出来ないのだろうか。無論過去に戻る事など出来よう筈もないのだが、少々潔癖な英和としてはたった一つの汚点がまるでその人生に土をつけたかのような大きな波紋となって何時までも圧し掛かって来るように感じずにはいられない。

 この白い吐息のように人の心を真っ白にする事など所詮は不可能なのだろうか。それこそ生まれたばかりの赤子にでも戻らない限りは不可能に違いない。彼は決して思い悩む事を嫌わなかったが、人前、いや独りでいる時ですらそんな暗鬱な複雑な表情をする事を誰よりも嫌っていたのかもしれない。

 要するに何時如何なる時も常に平然とした面持ちで過ごしたかったのだった。そういう点で言えばやはり義久のような男は羨ましく思えて仕方ない。持って生まれたものであろうとも何故彼はそこまで澄んだ顔つきをしていられるのだろうか。

 裁判所で久しぶりに会った義久は正にそういう表情で依然としてこちらには顔も向けずに、悠然とした態度で椅子に坐っていたのだった。

 共に裁判所を訪れていた英和と康明は当然ながら義久とは全く接する事なく、ただ事を遂行するべく手続きをしたあと腰を下ろして自分達の番が来るのを待っていた。

 そして通された法廷と呼ぶには余りにも質素で小さい部屋で行われた裁判では、未成年で初犯という事もあり不起訴処分という判決が下りる。この事は警察でも言われていたので愕くにも及ばなかったが、改めて日本の法律の甘さを痛感する英和でもあった。後に残る盗難被害に遭った方への償いには何ら抵抗する彼ではなかろうとも、心の何処かで義久さえ黙っていてくれたなら、そして自分が彼を誘いさえしなければ何事も起きなかったのだという他責思考と自責の念が交錯していた。

 だが何れはこの日が来ると覚悟していた自分がいたのも事実で、悔いても及ばぬこの現状は当たり前ながらも無情な現実という試練を自らが作り上げたようなものだと悟る英和でもあった。

 裁判所を後にする彼と康明は多くは語らなかった。互いの胸に秘めた想いは口に出さずとも伝わる事で、両者の顔はただ哀しさだけを訴えていた。

 家に帰った二人は地元の港で改めて話をする。夕暮れ時にここを訪れる事は英和にとっても日課のようなもので、赤い夕陽は黄昏れを好む彼の唯一の味方であったようにも思えるぐらいだった。

 幾艘かの古びた漁船とタグボートが係留されているこの淋しい港には昔はいざ知らず夜にもなれば人影など殆どいなく、その寂寞とした暗い雰囲気は一見怪しく感じない事ないが、幼い頃から自分の庭のようにして遊んでいた彼等にはそんな憂慮などは取るに足りない事であった。

 煙草に火を付けてから喋り出すのも二人の習慣みたいなもので、吐く煙は白い吐息と相乗して結構な量で宙に舞う。

 先に言葉を発したのは康明だった。

「お前、あいつの顔見たか? 何も考えてないんやろな、マジで羨ましいわ」

 英和は今一度煙草を吸ってから答える。

「俺と一緒やな、あいつの考えとう事だけは分からんわ、ま、誘ったんは俺やし、改めて謝るわ、すまんかったな」

 康明は何も言わずに遠くを見つめていた。今更怒る彼でもなかっただろうが、その複雑な表情を訝る英和は話を移す。

「そやけどお前凄いな、最期まで祐司の事謳わんかってんでな、あいつも見直してくれたんちゃうか?」

「じゃがましわい、めっちゃ苦労してんぞ」

「そうやろな~」 

 すると10mぐらい離れた場所に先程から停まっていた一台の車から何か人声がしたような気がした。それを確かめた二人は徐に目を合わせる。

「何しとんやあいつら? 鬱陶しいな、カーセックスでもしとんか?」

 そう呟く康明に対し英和はこう答えた。

「将棋しとんやー言うねん」

 康明は少しだけ笑っていた。

「ま、一応はシングルヒットかな」

「実際にしとう可能性もあるしな」

「無いわ」

 その後も少し話をして帰る二人は何か物足りなさを感じていた。本来ならもっと言うべき事があった筈なのにそれが思い付かない、いや思い付いていても言い出せないだけだったのかもしれない。でもカッコをつける訳でもないがそれを全て口にしない所にも男の世界があり、いく饒舌な康明であってもそれを憚る気持ちは十分理解出来る。

 夕陽はそんな二人の気持ちを優しく包み込み、まだ見えぬ進路へ向けて歩んで行く様を見守るように、遙かに聳える水平線にその姿をゆっくりと沈めて行くのだった。

 

 春休みに入った英和は新聞配達のバイトに勤しむ他に思いも依らぬ幸運に巡り逢うのだった。街を歩いていると何処かで見た顔の人が声を掛けて来るのに気付く。でも彼の記憶力を以ても直ぐには思い出せない。無視し立ち去る事が出来なかった彼は自分から馬鹿正直に訊くのだった。

「え~と、すいません、何方でしたかね?」

「何、その他人行儀な言い方? わざとなの?」

 彼女は軽く微笑みながらも少し怪訝そうな表情を泛べていた。失礼とは思いつつもどうしても思い出せない英和はもう一度訊き返す。すると彼女は溜め息をついた後、呆れたような面持ちで答えるのだった。

「直子よ、向井直子」

 その名を告げられた英和は思わず狼狽し、彼女の顔を凝視しながらも目線だけは合わせようとしなかった。

 言われれば確かにその通りだ。そのあどけない表情、長い髪、少し長身な体形、それでいて優しい笑顔に聡明な雰囲気、そしてなによりも鋭い横長な目つき。

 どれを取っても昔一緒に遊んでいた直子に相違ない。やっとこさ気付いたでろう英和に直子はこう語り掛ける。

「立ち話も何だからお茶でも飲みながら話さない?」

 英和は少し照れながら承諾するのだった。彼等の地元であるこの下町のは喫茶店などは銭湯と同じく選ぶほどの数があり、今二人が居る場所の直ぐ傍にも数軒の店があるぐらいだった。

 二人は息を同じくするようにして一番近い場所にあった店に入る。そして何故か窓際である一番端の席に着く。腰を下ろした二人は理屈抜きに笑みを零していた。

 英和はアイスオーレを、直子は紅茶を頼んだ。この時も英和は康明と同じで話す事はいくらでもある筈なのにいざ改まって向かい合うと言葉が出て来ない。それは無論女性に対して奥手であった彼の性格を示唆するものでもあったが、店員がお茶を運んで来るまでの僅かな時間にさえも気が置けないといった繊細過ぎる思慮から生じる警戒心があった事も言うまでもなかった。

 そんな彼の為人を何故か知り得ていた彼女はその表情を眺めながらまた笑みを零す。今度は釣られて笑う英和でも無かった。運ばれて来たお茶を一口飲んだ二人はようやく話し始める。舐められてはいけないと思った英和は無理をしてまで自分から口を開く。

「久しぶり過ぎるな、あれから何年経ったんやろな、改めて気付かんかった事謝るわ」

 直子はその笑みを絶やす事なく愛想の良い物言いをする。

「まぁ、十数年が経った訳やし、忘れてもおかしくはないけどね、でもちょっと寂しかったかな」

「ほんまにゴメン!」

「もうええって」

 落ち着いた二人はもう一口飲んでからいよいよ話に花を咲かせるのだった。

「そやけど直子とは昔よう遊んだでな~、あれ覚えとうか、保育所で昼寝し終えた時に男女関係なくパンツ脱いで見せ合っとった事? 今では考えられへんでな」

 直子は恥ずかしがる事なく答える。

「覚えとうよ、あれはお決まりやったやん、あんたは恥ずかしがっとったけどな」

「そうやったかな~」

「そうやって! それとあんたは何時も先生に怒られとったでな、悪ガキではないねんけど大人し過ぎて怒られとったんかな?」

「よう覚えとんな~、確かにその通りかもしれへんな、別に大人しい訳でもないねんけどな~」

「分かっとうって!」

「何を分かっとん?」

 この瞬間直子は笑みを止めて英和の顔をまざまざと見つめていた。返す言葉に困ったようには思えない彼女の少し切ない表情は何を訴えんとしているのだろうか。それを露骨に問い質す事を憚かれた英和はまるで逃げるようにして話を移す。

「ところで今どうしとん? 学校はどうなん?」

 すると彼女は一時黙ったまま窓外の景色を眺めた後、振り返り様にこう答える。

「あんた変わったね、中身は変わってないけど、外見が少しね」

 そう言われた英和には一瞬戦慄が走る。俺は俺だ。何一つ変わってなど無い。それこそがまだ若いとはいえ既に彼に備わっていた矜持であり、不変の心根でもあった。それを直子はたった一言で傷つけてしまったのだった。これには如何に女性に奥手で気優しい英和であっても気が収まらない。

 憤った英和は席を立とうとした。すると直子がその手を握って制止する。

「何怒ってんの? 何時からそんな短気になったの? 私の知ってる英和君はそんな男じゃなかったわ、何があったの?」  

 英和は彼女を手を振り解いてまで帰ろうとしたが、その意思に反するように身体が思うように動かない。まるで金縛りにでも遇ったようなこの状態は何を意味しているのだろうか。単なる動揺か、或いは馬鹿正直な気持ちが裏目に出てしまい、理性が効かなくなってしまっただけなのか。

 何れにしてもこの呪縛とも思える事態から脱しなくては話にもならない。そこで彼は直子の目に映る自分の姿に気付き、その自分に語り掛ける。

「俺は変わってしまったのか?」

「どうやろな~」

「どっちやねん?」

「変わったようにも見えるし、変わってないようにも見えるな~、難しい話やな~」

「はっきり言うたらんかいや!?」

「それは誰にも分からんのとちゃうかぁ~」

 自問自答を繰り返す英和の様子を訝った直子は手をチラつかせて確かめようとする。

「どうしたんや? どっかに行って来たんか?」

 ここで初めて我に返った英和はまた照れ笑いで誤魔化しながら、何故か詫びを入れるのだった。

「ごめん、つい放心状態になってもたな、嫌いになったやろ?」

 直子はそんな英和の表情を見つめながら言うのだった。

「いや、別に嫌いにはなってないけど、大丈夫?」

「あぁ、大丈夫やって」

「じゃあええねんけど......」

 一応連絡先を交換した二人は店を出てから別れる。5歩ぐらい進んだ時に二人は同じように後ろを振り向く。烈しい西日は両者の細かい表情の変化を遮っていたが、その無言の裡に立ち込める想いは二人の身体を無意識の裡に引き寄せる。

 引き返す二人の足取りは実に重く緩慢で、その一歩一歩が数倍もの遅さながらも着実に進み行く心の足音を木霊していたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

汐の情景  七話

 

 

 幼い頃に夢や将来像を訊かれる事はよくあると思えるが、英和が夢見ていたものとは一体何だったのだろう。

 思い起こしてもこれといったものは浮かんで来ない。強いて言えばバスや電車、船の運転手に、野球やサッカー選手などの如何にも男子が謳いそうな定番の夢を発表していた覚えはある。でもその何れもが本気で抱いていた訳でもなく、あくまでも惰性で口にした余りにも漠然とした夢であった。

 無気力無関心だった彼に元々夢や目標などは皆無だったのかもしれないし、それを持たなければいけないような概念的な風潮自体に疑いを秘めていた可能性もある。

 それがここに来てとても人前で堂々と語る事は出来ないであろう、夢と呼ぶには浅ましく不純な或る野望を抱き始めていた。 

 新聞配達のアルバイトは一日も休まず真面目に熟していたものの、一度纏まった給料を手にするとどうしてもその邪な気持ちが込み上げて来る。

「林田君、一ヶ月ご苦労さん、よう頑張ってくれたね、はい給料、これからも頼むで」

「有り難う御座います」

 店主の朗らかな笑顔に感化された英和は取り合えず家に帰り、頂いた7万円の給料のうち2万円を母親に手渡す。すると母も喜んではくれたが、一応の念を押すのだった。

「なんぼ貰ったんか知らんけど貯めときよ、今はパチンコが流行っとうみたいやけど絶体行ったらあかんで」

「分かっとうて、あんなアホな事するかいや」

 裏表のない性格の母は息子の言葉を額面通りに信じ切っていたのだった。その人を疑う事を知らない生真面目な母の澄んだ瞳は返って英和の胸を苦しめる。

 そうなる理由はやはり彼の中にある邪念が自ずと後ろめたさを誘引していた事に尽きるだろう。まだ何もしていないのに罪悪感を覚えるのもその為だろうか。

 一瞬芽生えただけの単純な意思が時としては抑えようのない意志に発展してしまう事も往々にあるとも思えるが、その衝動を起こす人の感情に脆弱性があろうともどちらかというと悪い方向を示唆する時が多いと認識してしまう所以は経験不足が災いする浅はかな思慮に依るものなのだろうか。

 ギャンブルが完全悪ではないとしても、英和の親孝行したい意志に反してまで芽生えた純粋な悪の意思は刻々とその身体と精神に浸食して来るのだった。

 急いで夕食を済ませた英和は散歩と偽ってパチンコ店へと向かう。彼がパチンコをするのは実は今回が初めてでもなく、既に二三度の経験があったのだった。

 最初にしたのはまだ幼い頃で、父親に連れられてただパチンコ台のハンドルを握っていたぐらなのもか。次は義久と共に僅かな小遣いを叩いてまでした記憶がある。

 もはや訣別したといっても良い義久の事など思い出したくもない英和ではあったが、その時の昂奮だけは今でも忘れられず鮮明に心に刻まれている。

 そんな想いを胸に秘めたまま彼が訪れた店は家からは歩いて数分の所にある昔ながらのレトロなパチンコ店であった。時刻は午後6時過ぎでちょうどイブニングというイベントが行われている時間帯だった。

 それはセブン機ではどのような数字で当たっても交換しなくて済むイベントで、7時までのたった1時間とはいえ仕事帰りの客で賑わう店は一時的にも鉄火場と化す。英和は母に渡した分を差っ引いた残りの金を全て持参し、このイベントに掛けるべく素早く空いている席に着き颯爽と打ち始める。

 するとプレイし始めて僅か数分で彼はいきなり大当たりを掴むのだった。眼前でピカピカと光る数字は2のゾロ目だった。当時はまだノーマルリーチしか無く、三つ目の数字が何処で止まるかは全く予想がつかない。だがこのノーマルリーチこそが真のスーパーリーチのようなもので、三つの数字が揃った時の凄まじいまでの昂揚感は一瞬にして人の感覚を麻痺させる。

 理性が効かなくなるとはこの事だろうか。いくらギャンブルであるとはいえ高々目の前で三つの数字が揃っただけで恰も何千万もの宝くじでも当たったかのように動揺する人の気持ちとはどれだけ素直なのだろうか。人前で声を上げるほど勇気のある英和ではないにしろ、その昂奮は自ずと顔に出てしまい隣に坐っていた見知らぬ客までもがその喜びを共感するようにして拍手を贈ってくれる。

「お兄ちゃん良かったねぇ~、まだ連チャンするで」

 英和も思わず礼をする。

「ありがとう、姉さんももう直当たるでしょ」 

 普段なら冗談でもそんな社交辞令など一切口にしない英和だったが、ギャンブルという言わば麻薬のような遊戯は人の性格まで変えてしまう力を備えているのだろうか。 

 隣の人が言うように英和の台はその後も連チャンを重ね、見る見るうちに出玉は増えて行く。気がつけば足下には7、8杯の箱が積み上げられている。その光景を錯覚と捉える彼の心はそこから抜け出そうとする意思よりも、逆にこれで飯が食って行けるのではないかといった幻想に浸ってしまう。

 気付けば時間は9時過ぎ。連チャンが収まった頃合いで遊戯を止めるとカウンターには数十人という客の列が出来ていた。出玉を流し手にした景品のメダルを全て交換した金額は実に10万円を超える大金だった。

 人生で初めて味わった不思議な昂揚感。それがギャンブルという些か穢れたものであっても今の彼の気持ちに刺激を与えた事は確かで、滑稽ながらも不純な野望の達成感に酔いしれるその心は完全に足元を見失っていた。

 

 家に帰った英和は部屋で寛いでいた母に近付き、笑顔を見せて徐に語り掛ける。

「母さん、さっき渡した金は安過ぎたやろ、これも取っといて」

  そう言って渡された数万円の札を見た母は態度を急変させ、烈火の如く怒り大声を張り上げて襲い掛かって来る。

「何やこれ? パチンコでも行って儲けて来たんかコラ! えー! はっきり言うたらんかいや!」

 母が怒った時の恐怖を十二分に経験していた英和は返す言葉に詰まり、ただ身震いしていた。言論だけで言い負かす事は出来たかもしれない。だがそれをも超える母の強烈なまでの純粋な怒りは如何に論理的な反論をした所で収める事は出来ないだろう。

 そう悟った彼は敢えて抗おうとはせず正直に答える。

「そうやパチンコで勝ったんや、でもせっかくやねんから取っといてくれや」

 母は暫く考えた後で手渡されたうちの半分の金額を受け取りこう言うのだった。

「遊び程度でするんやったらええけど、出来ひんのやったら今直ぐ足洗い、言うとう意味分かるな?」

 言うは易し行うは難しで、如何に母の言葉が胸に響いた所で今の英和にはそれを実際に体現する事が出来るのだろうか。

 朱に染まれば赤くなるとは言うが、その朱が明らかな悪であった場合に生じる人の警戒心は無意識の裡に発生しようとも、抽象的なものであった場合にはつい戸惑ってしまうのも人の性ではあるまいか。

 無論それを盾にして防御を敷くつもりは無いまでも、母の言う節制する必要性と英和の芯の弱さを比較した時、自ずと英和の薄弱な精神が負ける事は目に見えていて、それをもカバーするような強靭な力や奇策などはこの世に存在しないとも思える。

 自室に上がった英和はドアを閉め窓を全開してから横になる。涼しい夜風は多少なりともその身体を癒やし、脳に対する優しい刺激は恍惚感さえも与えてくれる。

 彼の心の葛藤はギャンブルだけに収まらず、母に言われるまでもなく先んじて発生していたもので、それを払拭するにはまだかなりの時間が掛かるだろう。甘える訳でもないがその中に僅かな功名を見出す手掛かりがあるとすればそれは何なのか。今か将来か過去か、それとも来世か。

 生きとし生けるものが赴かざるを得ない果てしなく続く心の連鎖。それを超えて行こうとする心意気にこそ真実があるのだろうか。

 英和が持ち帰っていた一個の真ん丸なパチンコ玉は一時的に静止する事はあっても、平坦な床に置くと一定の姿を現そうとはしなかったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

汐の情景  六話

 

 

 翌日も晴天だった。まだ少し眠気が残る英和ではあったが早朝の肌寒さはその身体に程好い刺激を与え、吸い込む空気は何時になく新鮮に感じる。

 日も昇らない静寂に包まれた街並みに人影などは無いに等しく、車さえも殆ど走っていない状況は英和が乗る自転車を普段の何倍もの速さですいすい移動させる。そうなれば信号などを守る筈もなく、何の障壁も感じられない彼の心は自由を掴んだように小躍りし開放感に充たされていたのだった。

 家からの距離はちょうど1kmぐらいだろうか。一瞬にしてバイト先の新聞販売店に辿り着いた英和は店主や皆と軽快に挨拶を交わし、予め段取りされていた広告を折り込んだ山積の新聞の束を専用の自転車の前カゴと後ろの荷台に括り付け、仕事を教えてくれる年配の従業員に付き従って配達する区域へと赴く。

 その区域は当然地元中の地元であり土地勘のある彼に怖れるものは無かった。唯一不思議に思えたのは慣れているとはいえ一切迷う事なく次々に新聞を配達して行く先輩従業員の姿だった。

 地元でメジャーな神戸新聞を取っている客は多く配達箇所も狭い区域の中に密集している為、近くまで来ると一端自転車を停め歩いて配達する方が効率的だった。

 柔道の白帯を肩に回し、その脇に自転車から取った大凡の枚数の新聞を抱えて歩き始める。黒帯ではない事も多少は気になったが、無口な先輩従業員が颯爽と歩き続ける姿を見る今の英和に、そんな下らない事を訊く図太い神経は備わっていなかった。

 彼は店で渡されていた配達箇所が書き記された帳面を確かめながら後に続いて歩く。そこそこ重たい新聞を抱えて歩く先輩の足取りは英和よりも速く感じられる。余りの速さに間違えていないか確かめる余裕すら無かった英和は、前もって言われていた配達の経路だけを覚える事に専念する。

 自分の地元であるこの地域には知り合いも数多く居て、家の表札を見ると、

「あの人まだ眠っとうやろな~、もし遇ったら恥ずかしいな~」

 などと内心考えていたが、まず遭遇しないであろう朝刊配達という時間帯はその心を安堵させるのだった。

 一区画の配達が終わればまた次の区域まで自転車に乗って行き、また歩いて配達するという作業が繰り返される。

 こうして改めて練り歩いてみるとその景観からもこの地域が如何に下町であるかが窺い知れる訳だが、立ち並ぶ昔ながらの人家やアパート、長屋等にはしっかりとしたポストは余り設置されていなく、中には家の壁面にある埋め込み式の小さなポストに強引に新聞を入れなくてはいけない事や、玄関の引き違い扉の隙間に器用に差し込まなければならない事も結構多かった。

 それが広告チラシが多い週末や雨天などでは尚更で、それを抜いて別々に入れれば良いだけの話であろうとも煩わしく感じる時もあるだろう。

 洋画などに観る広い庭に新聞を投げ入れながら配達するといった光景は実社会でもあり得る事なのだろうか。まるで漫画、アニメの世界にも思えるが、それをもし日本でした場合に想定される不利益は英和にも十分理解出来る事で流石にそこまでの暴挙に出るつもりは無かった。

 笑える話ではあるがこれこそが文化の違いであり西洋のスケールの大きさを表すものとも思える。

 でもスケールの差異だけで物事を論じる事ほど滑稽な話もなく、日本には日本なりの奥ゆかしさや謙虚さ、繊細な技術や人間性など世界に誇るべき伝統美は多々あり、それが自尊心や矜持を高める一翼を担っている事も言うまでもない。

 いくら配達箇所が密集しているとはいえその配達時間は僅か1時間余りで済んでしまった。いやらしい話だが時給ではなく配達部数で決まる新聞配達のアルバイト賃金は当然ながら配達箇所が密集している方が有利な訳で、その事はまだ高校生である英和にとっても喜ばしい事この上なかった。

 仕事を終えた彼は店主や先輩達に挨拶をして帰途に就く。まだ日が昇らない午前5時半に遠くから聴こえて来る電車の走る音は時計のアラームには感じないまでも、朝を告げるように街全体に優しく響き渡っていたのだった。

 家に帰った英和は登校するまでの間に仮眠を取る事にした。元々寝つきが悪く、亦もし深い眠りに就いた場合に寝坊する事を怖れる彼は気が進まないまでも目覚ましをセットしていたが外から聴こえる雀の可愛い鳴き声は目覚まし代わりにもなり、浅い眠りからも心地よい目覚めを授けてくれる。

 朝食を取る一家の表情は明るかった。大して口は利かないまでもその雰囲気には繰り返されるだけの日常を嫌うような卑屈さは窺えない。

 とはいえ日が昇り切った外の景色は些かなりとも英和の気持ちに翳を持たせる。慌ただしさを漂わせる街並みは、それが現実であろうとも生き急ぐ人々のただ世の流れに靡く事しか出来ない精神の脆弱性を浮き彫りにしているように見える。

 こういう思慮にこそ慢心があるのかもしれない。だが民主主義の前提である思想の自由が保障されているこの現代日本社会に於いて、周りと調和を図る事だけに執着する精神ほど恐ろしいものも無く、それが壊れた時に然も不利益を受けてしまったかのように悔恨の念に浸り、苦しみ嘆く姿に人間の本質があるとは到底思えない。

 だが当然そこにも自由はあり、人間自体に余り感心が無かった英和は他者に干渉するような下世話な感情を抱いた訳でもなかったが、履違えた自由、誤解された自由が招いたであろう上辺だけの平和に酔いしれる今の日本に対し、憂い心を持ち続けていた事は確かな話であった。

 

 康明は学校で同級生達から揶揄われていた。その顔を見れば誰であろうと何かを言わずにはいられなかったのだろう。

「お前その顔どうしたんや? 誰にやられたんや? ま、お前みたいなヘタレが喧嘩なんかする訳ないし、どうせカツアゲでもされたんやろ、はっはっは~」

 しかし康明は全く動じずに反論する。

「ファッションやんけ、お前らも男やったら疵の一つぐらい作ったらんかいや」

 それにしても彼の顔に作られた紫斑は祐司の強烈なパンチと喰らった者、この両者の心の波紋を如実に物語っているとも思えるが、悲壮感にも及ばぬ康明の明るい様子は同級生にそれ以上の追及をさせなかった。

 実は康明と義久は同じ高校に進学しておりクラスは違えど顔を合わせる事は多かったのだが、元々義久を余り好いていなかった康明は廊下などで擦れ違っても声を掛ける事は少なかった。

 でも所詮は同じ中学出身という事でたまにぐらいは話もしていたが、あの一件以来は寧ろ義久の方が一方的に康明を避けているような節があった。

 交番での義久の余所余所しい態度もそれを示唆するものだったのだろうか。康明としても是非にも及ばぬ事なれど目すら合わせようとしないその態度からは敵対心までもが感じられる。

 昼休みに康明は暇潰しがてら義久の教室を覗きに行くのだった。昼食を済ませた義久は案の定誰とも関わらずに独り机に顔を伏せ眠っていた。無論他の者も誰一人として絡んで行こうともしない。

 完全に村八分、四面楚歌のような義久の立ち位置は想像するだけでも悍ましくなって来る訳だが、真に恐るべきはそれをも全く気にしない楽観的過ぎるといっても良い彼の余りの無頓着さかもしれない。

 それを証拠の義久は顔色一つ変えずに毎日普通に登校し、愚痴の一つも言わずに生活していたのだった。

 これは英和は勿論康明にとっても羨ましい限りで、その性格が本当だとすれば義久には悩むという能力自体が備わっていないようにも思える。

 だが意図して世の流れに靡く者よりは意図せず、何も考えずにただ澄んだ川水のように抗う事を知らない水の流れならば或る意味では尊敬にあたるとも思える。しかし態度を急変させた彼の様子からは明らかな意図が感じられ、それが何かまでは分からずとも康明を不快にさせる事だけは確かだった。

 酷い時には一日中眠っている義久でも6時間目が終わりホームルームも終われば即目を覚まし真っ先駆けて下校する。その姿は滑稽ながらもまるで忍者のような素早さで同級生は勿論、担任の先生までもが愕くぐらいであった。

 そして誰よりも早く電車に乗り込み、瞬く間に家に帰って来た義久に齎されたものは須磨警察署への呼び出しという知らせだった。

 日時は次の日曜日午前9時。この知らせを電話で受けていた親御さんは息子の義久にこう言う。

「行って何もかも洗い浚い白状して来い!」

 一見ごく当たり前のように聞こえるこの言葉も受け取り方次第では色んな意味を含んでいるような気もする。それを額面通りに四角四面で馬鹿正直に捉える事しか出来ない義久のような者は内心ではどう解釈したのだろうか。

 その知らせは当然英和、康明にも届いており、三人は嫌でもまた顔を合わし一同に会する運びとなった。

 

 日曜日当日になって空はまた少し曇り始める。その薄暗い景色は今にも雨が降るようで降らないといった何とも煮え切らない雰囲気を以て三人の気持ちを焦らせる。

 完全に散ってしまった桜がまた美しい花を咲かすべく来年に備え青々とした葉で大人しく佇む姿は、夏を終えた砂浜の侘しさにも似た憂愁感と大らかな前向きさを同時に投げ掛けているように映る。

 遙かに聳える雄大な山々は峻厳たる眼差しで変わり行く街並みを悠然と見下ろしているが、その余りの風格は時として非力な人間に不遜とも呼べる憧れを抱かせる。そのほんの一部分でも己が力に変換させる事が出来ればと願う英和は、盗人猛々しいとも思われるぐらいの毅然とした態度で警察署を訪れるのだった。

 部屋に案内されるとそこには駅前交番で見た三人の警官がそのまま私服姿で待ち構えていた。

「おはようございます」

 一緒に来ていた英和と康明は挨拶をして席に着く。するとまた交番の時と同じように先に到着していた義久がこちらには見向きもせずに悠然と坐っている。

 それを確かめた一瞬壮大な山の力を得ていたのは義久の方だったのかと錯覚する英和ではあったが、何の貫禄も示さない彼の背中は返って英和の心を安堵させる。

 そしてまた手厳しい尋問が始まる。被疑者である三人に一連の疑いを事細かに聴取する警官達。既に交番でも白状していた経緯を改めて訊こうとする彼等の表情は、私服であろうとも如何にも警察官と言わんばかりの硬いもので、その目には人情などというものは一切感じられなかった。

 そんな事は当たり前かもしれないが、犯行に及んだ時間を分単位で訊かれると英和は素直にも、

「そこまでは覚えていません」

 と答えるのだった。すると警官は、

「人間の記憶いうもんはそう簡単に消えへんねん、悪あがきはえからしっかり思い出したらんかい」

 英和は康明と共に単車を盗みに行った時の事を真剣に思い出そうとしていた。あれは確か数ヶ月前の或る日曜日だった。テレビで再放送されていたアニメ、シティーハンターを康明と一緒に見てから出掛けた筈だ。その放送は1時間で自分は始めの30分、つまりは前編だけを見終えてから家を出たと記憶している。

「その日の12時半に家を出ました」

 と英和は答えた。すると康明は、

「13時ちょうどです」

 と食い違った答えを出す。これに警官達は烈しく喰いつく。たった30分の差異であろうとも互いの認識の齟齬は彼等の神経を刺激するに十分だったみたいで、その怒りの矛先である二人の被疑者には強烈な怒声が浴びせ掛けられる。

「お前らええ加減せーよゴラ! 舐めとったらあかんど! もう一回二人でよう話し合ってみーや!」

 僅か30分がこれほど大きいものなのか。少なくとも英和には理解不能だった。しかし警官達の執拗な尋問は二人を怯えさせ嫌でも回想、何の情緒もない追憶という作業を強いられる。

「最初の30分だけ見て出て行ったやんけ!?」

 と英和が言えば、

「何でやねん、1時間全部見てから行ったやんけ!?」

 と反論する康明。決着がつかない両者の問答に警官達は痺れを切らせて割って入る。

「ほんまにええ加減せーよ、シティハンターか? それの前編だけか後編まできちり見てからか、はっきりしたらんかいやゴラ! 何やったらその時の内容言うてみ! タイトルは!?」

 英和は内心この警官は馬鹿なのかと思った。そんな事まで覚えている筈もなく、亦何故そんな事まで警察署で口にしなければいけないのだ。

 流石に冗談半分で言っていると思った英和は警官達の表情を見返したが、あくまでも真顔で喋り続ける彼等の表情からは何も感じられない。冗談を真剣な顔で口にするなと思う英和は逆に笑いを堪える事に専念せざるを得なくなってしまう。

 それにしても互いに譲ろうとしない二人の意見は一向に収まりがつかず、益々警官達を苛立たせる。そしてその中を取り12時45分で折れるという判断を下す。

 その後も執拗な聴取という名の尋問は夕方まで行われ、疲労困憊になった三人にはようやく帰途に就く事が許された。

 改めて自分がした事の重大さを悟った英和の心は慙愧の念に堪えなかった。若気の至りとはいえこんな事は正に人倫の道に反する事で許されるものでは無い。どんな事をしてでも被害者には償わなければならない。言うまでもない事であってもその局面に立って初めて感じるその不甲斐なさは彼の繊細な神経を容赦なく傷付ける。

 そして義久の相変わらずの余所余所しさもその傷心に追い打ちを掛ける。だがこの期に及んで他人を責める気にもなれなかった英和はただ自責の念に駆られながら重い足取りで帰って行く。

 結局は雨を降らせなかった天と雄大な山々を遠くに眺めながら歩く英和は、やり切れなさを込めて歩道に唾を吐き、今日という日が一刻も早く過ぎ去ってくれる事を念じながら明日という未来へ踏み出して行くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

汐の情景  五話

 

 

 景色が人の心に齎す影響力を数字に表す事は不可能と思える。無論そんな必要性などないとも思えるが、自然の情景は言うに及ばず、たとえ人為的なものであっても見惚れてしまうほどの深い感動を覚えてしまう事が人間の性ではなかろうか。

 幸か不幸か結局雨までは降らなかったものの、その曇り空は夜にもなれば尚更暗い漆黒の闇を映し出す。深淵に沈む三人の中で唯一美術の才があった康明は、その光景を儚むような切ない表情で眺めていた。

 些かの余裕さえもなかったこの現状にあって彼の能力は殊の外際立って見える。英和がそれに気付いた理由はそれこそ語るまでもないこれまでの付き合いで知り得た康明の為人と、互いに一筋の光を見出したような無言の意思表示を無意識に裡に感じ取れた事に事に尽きるだろう。

 以心伝心とはこの事か。それからというもの警察の手厳しい尋問にも狼狽える事なく返答出来たのは両者に内在していた純粋な心根と、それをも上回る馬鹿正直過ぎる共通の目的を悟ったからであった。

 警官、民間人を問わず1時間余りの取り調べで疲れ切った一同は同じタイミングで溜め息をつく。そして身元引受人として訪れていた義久の親御さんが三人を車に乗せて家まで送り届けてくれる。

 車中でも皆は一言も口を利かなかった。それは義久の親を怖れていた事も然ることながら口にするべき言葉に窮していたに相違ない。先に降ろして貰った英和でさえもその去り際に軽く一礼しただけで、滝川さんは何も言わなかった。恐らくは康明も同じであったろう。

 家に戻った英和と母も口を利こうとしなかった。母としても言うべき言葉が見つからなかったのか、それとも敢えて息子にひと時の猶予を与えたのかまでは分からない。

 夕食もろくに喉を通らず呆然としたまま床に就く英和。この状況ではとてもじゃないが眠る事さえ叶わないだろう。かといって何も手に付かない彼はとにかく一刻も早く夜が明けて欲しいという願いを込めて目を閉じる。

 雨は降らなかったまでも窓外から聴こえて来る少し強い風の音はその眠りを妨げるのに十分だった。またゲームでもするかと思案している内に時間だけが過ぎて行く。時間の経過は遅い事この上なかった。まるで時が止まってしまったかのようなこの空間にはもはや僅かに聴こえる音という現象しか残っていない。

 生来繊細な人物であった彼が更に神経質になり始めたのはこの頃からだったのかもしれない。意図せずに澄まされた耳には風だけではなく家の中の僅かな音や、近隣の騒音までもがはっきりと聞こえる。それは直接ストレスへと変化しその心を搔き乱す。

 世間で言われている羊を数える方法などは効く筈もなく、する気にもなれない。居ても立ってもいられなくなり結局はゲームをし始める。シンプル好きであった彼は相変わらず最短でクリアする事だけを念頭にプレイしていた。

 外へ出てモンスターと遭遇する事すら鬱陶しく思える。しかし経験値を積みレベルを上げない事には先に進む事も出来ない。

 やはりゲームも手に付かなかった彼は今一度横になり、無心になるつもりで目を閉じ是が非でも身体を動かそうとはしなかった。

 すると先程まで聞こえていた煩わしい風の音が彼の身体を媒介して部屋中に舞い、更に自分の身体に戻った後、また外へと帰り新たなる風を作るといった幻にも似た形態を象るのだった。

 これも自然の理なのだろうか。英和は思わず風になり飛んで行きたいという衝動に駆られる。でもそんな事が出来る筈もなくその身体も自然の裡に安らぎを覚える。こうなれば時間を確かめるにも及ばない。風音と共に戯れていた英和は何時の間にか朝を迎えた外の景色に愕く。

 窓を開けるとそこには晴れ渡った春の空が現れていた。夜の内に気象が変化したのだろうか。そんな事には一切気付かなかった彼はただその景色に見惚れていたのだった。

 

 登校しようとする時、朝露に濡れた枝葉が一滴の水滴を垂らしていた。風情あるその情景を見た英和はその意志に反して自らが枝を揺すって水を散らせる。何か気に障る事でもあったのだろうか。強いて言えば己が鬱蒼とした気持ちを強引な手で晴らしたかったのかもしれない。

 だがそれが本意でない彼は人知れず屹立する樹々に手を合わして詫びを入れる。絶妙のタイミングで出て来た弟の俊英はそんな兄の様子を訝って声を掛けて来た。

「何しとん兄貴?」

 恥ずかしがる英和は目を合わす事を憚りつつも取り合えず返事をする。

「植物にも感謝せんとあかんやろ、ちゃうか? そやろ? お前ももうちょっとは頭使わんとあかんでな」

「ふ~ん」

 全く動じる様子も見せずに立ち去る弟の姿は多少なりとも英和を悩ませた。でも弟の為人を熟知していた彼は身内を褒めるのも烏滸がましいが良く出来た弟だと感心していたのだった。

 その性格は康明と義久を足して割ったような鷹揚にして聡明な、身軽ながらも重厚なしっかりとしたもので、兄弟でありながら正反対なその為人は英和としても羨むに値するものだった。

 とはいっても全てが完璧な訳でもなく粗捜しをする訳でもないが、非の打ちどころは結構あった。その一つに余りのお人好しな彼の性格は英和は勿論他者を調子付かせるだけの要素を十分に孕んでいた。

 特に同級生達から弟が弄られている姿を見るとつい気持ちが昂ってしまう英和であったが、そこで割って入ってしまった時に懸念される事態を鑑みる神経は決して軽挙妄動を許すものではなかった。その副作用を怖れる英和も本来は気優しい人物であったのかもしれない。

 しかし或る局面でしか真価を発揮する事が出来ないと思われる人間という生命に備わった能力や気質は、やはり不器用という普遍性を保っているようにも見える。

 だがそれも一興これも一興で、一筋縄では行かない人生にこそ面白みがあり、そこにこそ咲かす事が出来る花があるとも思える。

 それを踏まえた上でもシンプル好きに徹する英和のような人物はその人生までをもシンプルに済ませ、一気に結末を観たいとでも言うのだろうか。

 敢えてそれを遂行しようとするのならばそれこそ夭折してしまうしか道はないようにも思える訳だが、せっかく授かった命を無駄にする事ほど愚かな行為もなく、余程の偉人でもない限りはその僅かな人生に於いて大輪の花を咲かせる事など出来よう筈もなく、誰一人として感動する者もいないだろう。

 弟の後ろ姿に陰りを感じなかった英和は暫く見届けた後、身体を反転させて自分も歩み始める。その足取りは軽くもなければ重くもなかった。是非にも及ばぬ人間関係の中にあって個の力が他者を上回る事はあっても凌駕するまでには至らないだろう。しかし徒党を組んだからといって良い結果が齎されるとも限らない。

 打算ではなく直感を信じる心、妥協ではなく追求しようとする意志。

 一見矛盾しているように思えるこの二つの性質にも共通する思想がある事は明確で、それを成し遂げようとする健気にも気丈な澄んだ心根にこそ人間が持って生まれた本分が秘められているのではなかろうか。

 強く照り始めた陽射しは英和の憂鬱な気分を払拭するように濡れた樹々を乾かせ、道々にある草花は明るい表情で天を仰ぐ。負けじと毅然とした態度で登校する彼の姿は凛々しく輝き若者らしさを取り戻す。

 それを窓越しに眺めていた母は今回の事はあくまでも若気の至り、長い人生で乗り越えて行かねばならない一つの障壁に過ぎないと自分に言い聞かせていたのだった。

 

 或る事が気掛かりで仕方なかった康明は学校を早退して中学の同級生であった祐司と会っていた。祐司という男は生粋のヤンキーで中学を卒業して直ぐ社会人となり、仕事に精を出しつつ暴走族の総長を張っていたのだった。

 康明はまるで祐司の機嫌を取るかのように煙草を差し出し火を付けようとする。すると祐司はそれを拒絶し、自分の煙草に自分で火を付ける。そして神妙な面持ちで立ち尽くす康明に訊いて来る。

「何や、改まって、何かあったんかい?」

 康明はどう打ち明けるべきか迷っていた。すると祐司は語気を強めて問い質す。

「はっきり言うたらんかいやゴラ! ほんまヘタレ丸出しやの~」

 流石の康明も意を決したような表情で事の次第を謳い始める。

「実はお前から借りとった単車で走っとったら捕まってもてん、ほんますまん」

 その刹那、祐司は康明を思い切りぶん殴った。それは単に下手を打った事に対する怒りだけではなく、康明が分を弁えず調子に乗り続けている事に対しての憤りから来るものだった。

 康明が殴られたのはこれが二度目で、祐司の本心を知り得ていた彼は当然やり返す筈もなく、返す言葉にも窮してただ項垂れていた。

「で、これからどないすんねん?」

「とにかくお前の事は絶体言わんから、何とか巧い事切り抜けるわ、そやからあの単車何時何処でペチったんかとか詳しい事教えてくれへんか?」

「別に俺に害が及んでもかまへんけどな」 

「いやそれやったら俺の面子もないから、何とか頼むわ」

「ふっ、お前如きに面子なんかあったんかいや」

 致し方なく祐司は事の詳細を告げる。康明はそれを入念にメモに取り、改めて詫びを入れる。祐司が事件の経緯など深く訊いて来なかった事は有難かった。

「ほんまに悪かった、じゃあ行くわ」

「おう、貸した俺にも非はあるしな、頑張れよ」

「うん」

 時として見せる祐司の優しさ。その厳つい風貌とは裏腹に感じ取れる彼のそのような一面にこそ、総長を張るに値する資質が備わっているのだろうか。本気で殴られた割にその痛みは肉体精神を問わず大したダメージを残してはいなかった。無論本気の中にも多少の加減はしていただろう。

 康明はこの痛みをどう受け取ったのだろうか。時が経てば忘れてしまう人間という生命が愚かだとすれば、何時までも胸に抱き続けている者が常に正しいのだろうか。

 無論忘れてしまいたい康明でも無かったが、取り合えずの目的を果たした事に依って安心する想いは確実に芽生えていたのだった。

 

 授業を終えた英和にはもはや家に帰ってからの楽しみは何も無かった。する事はいくらでもあろうとも単車に乗って走る事以上に刺激を与えてくれる遊びなど何も思いつかない。そんなどちらかといえば無気力無関心な彼が学校で耳にした多少なりとも興味を引いた事はパチンコなどのギャンブルであった。

 学校ではパチンコや競馬の話で盛り上がっている男子生徒が結構多く、嫌でも耳に入って来るのだったが、輪の中に入ろうとしない彼のような人物は内心では馬鹿にしながら訊いていたのだった。

 でもそれに惹かれたのはやはり多くの人間に内在していると言われる欲に依る所が大きいだろう。家が貧しかった英和には親に言って金を貰うような真似は出来ない。何よりこの状況下で博打に打ち興じる事などそれこそ親不孝になる。でもこれといってする事が無かった彼は正に衝動に駆られ、どうにかして金を作る算段をするのだった。

 以前から気になっていた家から近い距離にある新聞販売店。登下校の際に何時も通るこの店の出入り口には配達アルバイト募集中という貼り紙がしてあった。

 たとえギャンブル目的ではないにしろ、金が欲しかった彼は応募する決断をする。学生服姿のまま恐る恐る中へ入って行くと店主が出て来て愛想の良い声を掛けてくれる。

「こんにちは、何か用ですか?」

 英和は真面目に答えた。

「アルバイトしたいんですけど、御願いします」

 すると店主は目を輝かせて言葉を続けるのだった。

「そうですか、いや来てくれる人がいなかったんで困ってたんですよ、貴方のような若い人なら喜んで雇わせて頂きますよ」

「有り難う御座います、一生懸命頑張ります」

「じゃあ早速明日の朝4時に来てくれるかな?」

「分かりました、宜しくお願いします」

「こちらこそ宜しく」

 即決されたアルバイトに喜びを隠せない英和は独り笑みを零していた。ギャンブルは勿論これでようやく親孝行が出来る。今度の事件に掛かるであろう費用も自分で払う事が出来る。

 ストレート過ぎるとはいえこんな思考を巡らす事が出来るのも若さの特権であるように思える。それに新聞配達なら誰と接する事もなく自分一人で仕事が出来る。正に自分向きなバイトである。

 一気に気持ちが明るくなった彼は颯爽と家に帰りその事を母に告げるのだった。息子ほどではなかったが、母も大いに喜んでくれてまるで昨日までの暗闇が晴れたように久しぶりに豪勢な料理を振る舞ってくれるのだった。

 陽が暮れ始めた夕暮れ時の情景はそんな親子の気持ちを優しく包み込むかのように淡い赤の中に、涼やかな心地よい風を吹かせる。風を運ぶ天の気持ちはたまたま期限が良かっただけの話なのだろうか。

 そんな事すら気にかけない英和は一時的にも過去と訣別し、幼子に戻ったような可憐な笑みを浮かべながら食事に赴くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

汐の情景  四話

 

 

 天為とも呼べる気象が時として思いも依らぬあからさまな意思表示をする事は往々にしてあるだろう。正に小春日和であったここ数日の穏やかな気候が俄かに曇り始めたのは何かの兆しを示唆するものなのだろうか。

 とはいえ雨や嵐でもないこの現状は憂慮するにも及ばず、快活に過ごす皆の様子は決して卑屈さを表してはいない。だがその精神にも無論完全性などは保障されず、常に何かを警戒したがる英和のような繊細な人物の神経は、この薄曇りの空模様にこそ言い知れぬ不安を抱くのだった。

 この日も気が進まないまでも一応登校した彼は、相変わらず同級生達の輪の中には入って行こうとせず孤高を決め込んでいた。内面的にかなり潔癖であった彼は既に周りから敬遠される存在になっていたのかもしれないが、そんな事は全く気にならない。

 自分がヘタレである事を十分認識しているにも関わらず、もし絡んで来る者がいれば逆にシバき上げてやればいいなどという想いを胸に秘めていた彼の慢心にも似た覚悟は何処から来るのかさっぱり理解出来ない。

 だがこれといって文を付けて来る者がいなかった理由は、義久同様に出身中学が武闘派で知られていたという事に尽きるのだろうか。

 無論そんな事を盾にして高校生活を送るつもりなどさらさら無かった英和ではあろうとも、心の中では中学の同級生達にも些少の謝意は示していたのだった。

 授業を終え帰途に就く道中、先日行った姫路までの逃避行劇が脳裏を過る。これはあくまでも康明との間だけに蔵(しま)っておくべきものなのだが、数少ない友人の一人である義久を仲間外れにする事は些かなりともその胸を苦しめる。

 自宅に帰った彼は近所にある義久の家へ赴き、一緒に単車に乗って遊ぶ誘いを持ち掛けるのだった。

 英和以上に学校を嫌っていた義久は高校でも一人の友人も居ないどころか、ろくに話をする相手すらおらず、誰とも一言も口を利かないままに下校する日も度々あった。

 それを憐れむ訳でもなければ批難するつもりもない、亦人脈を広げる気もないといった少々頑なな意思は幼馴染である二人の間に共通の認識として確立されてあり、英和が声を掛けた理由も孤独から解放されたいという浅はかな感情ではなく、同士と絆を深めたいという情義から来るものだった。

 小さい敷地ながらも裏の離れに住んでいた義久は、英和が鳴らす他人の自転車の鐘の音を聴くと素早く表に出て来る。そして人目を憚る癖がある二人は暗黙の了解で港へと足を運ぶのだった。

「この前言うとった事しよか、単車は直ぐ傍に置いとうねん」

 義久はそのおぼこいながらも表情豊かな顔つきで喜びを訴える。

「やっと決心してくれたんか、でも別に無理せんでもええねんで?」

「何言うとんねん、お前との仲やんけ」

「そうか、ありがとうな」

 英和は義久のこの余りの素直さが好きだった。その裏表のない性格、稚拙なほどの露骨な感情表現、それらは潔癖である英和の心とは何故か調和が取れ、少々器用な康明と比べても明らかな安らぎを齎すものであった。

 しかし秘密を誓い合った康明の存在を当然軽視する訳にも行かず、二人して彼の下を訪れる。すると玄関先に出て来た康明は義久の姿を確認するなり心なしか怪訝そうな表情を泛べるのだった。

 三人で歩いている時康明は小声で囁く。

「お前何であいつ連れて来るねん?」

 訊かれた英和は軽く詫びを入れてから、

「ま~ええやんけ、ハミゴにしたら可哀そうやろ」

 とだけ返事をする。二人の関係が良好ではない事は誰の目にも明らかな訳なのだが、繊細であるにも関わらず人間関係にはそこまで頓着が無かった英和の性格は大らかなのでは無く、人嫌いだからこそ人を軽視する、見下してしまうといった愚かな性質から成り立っていたのかもしれない。

 康明の心境はそれを証明するものだったのだろうか。三人の若さは不安を抱えつつも立ち止まるという作業を用いようとはしなかった。

 英和と康明の単車は何れも盗難車であった。そのうえ無免許という状態で平然と公道を流していたその所業は余りに無謀過ぎるといっても良いだろう。

 港では英和が愛用していた90ccの単車で義久に軽く練習をさせてから、そのまま公道に出る。康明と英和はまたニケツで走り始める。

 何時も通りに西へ西へと単車を走らせる両者の想いには、東の都会の雑踏で起こり得る要らぬ災いを避けようとする意図があった事は言うまでもなく、西方面の走り易い道と美景を望むという共通観念があった。

 僅か数分で辿り着いた須磨水族園の前で信号待ちをしている時、康明の舌打ちに気付いた英和はその意味を訊ねる。

「どうしたんや?」

「あいつほんまモタコ(どんくさい)やな、あんな走り方で付いて来れるんかいや」

「大丈夫やろ」

 安易に返事をした英和だが、内心では心配していた。

 それから少し走った一の谷に差し掛かった頃、康明は今一度後ろを振り返って言う。

「おい、あいつマジでヤバいんちゃうか? 何処走っとんねん、ちょっと戻るわ」

 そう言って引き返した二人は驚愕の事態に直面する。義久は水族園前でいきなり白バイに捕まっていたのだった。やはり康明の不安は的中したのか。警官に捕まっている義久の姿は実に怯えた様子で、まるで幼子が親や先生に叱りつけられているかのような弱者の雰囲気だけを漂わしていた。

 康明はその場から逃げるようにして西へと走り去る。そして舞子浜で落ち着くとこう言うのだった。

「そやからあんな奴連れて来るな言うねんて、どないすんねん、あいつ絶体俺らの事謳っとうで、ヤバいぞ」

 英和は何も言わずに項垂れていた。確かに軽率だったかもしれないが、そこまで義久がどんくさいとは思いもしなかった。自責の念にも及ばない浅い後悔であろうともその不甲斐なさは義久を責めるよりも先に自分自身へと圧し掛かって来る。

 何が繊細だ、何が神経質だ。そんな気質など何の役にも立たないではないか。康明の方が洞察力に優れているではないか。暗澹たる思いは自ずとその表情を曇らせる。

 しかし事態は思い悩むような猶予を与えてはくれない。如何にしてこの窮地を脱するのかが最大の問題であろう。康明は逡巡する事なく帰る決断を下す。

 切迫感に駆られる二人の脈拍や胸の鼓動は増すばかりで、僅かな時間、まして走っている最中には良い策など思い付かない。でもそれとは裏腹に感じる自分自身でも説明のつかない余裕は投げやりな覚悟から来るものなのだろうか。

 

 夜8時。ようやく家に帰り着き、恐る恐る扉を開いた英和に齎された知らせはやはりと言うには余りにも身勝手で都合の良い、自覚の無さと浅はかな善意が災いした当然とも言える警察からの連絡であった。

 それを息子に告げる母の表情は恐ろしいほど真剣で、何時にない鋭い眼差しは英和の目を睨みつけたまま寸分たりとも動かない。

「何したんや?」

 嘘をつく気にもなれなかった英和はありのままの事実を謳う。

「康明と義久と単車で走っとったら義久が下手打って捕まったんや」 

「バシーン!」

 母に叩かれたのは何時以来だろうか。おそらくは小学生低学年の頃が最期であろうその頬の痛みは肉体よりも精神に直接、深く突き刺さる。

 一概には言えないまでも男女の力の差は一応明確であり、いくら全力で叩かれたとしてもその痛み自体は然程大きくもない訳だが、男と比べて遙かに重く感じる精神的なダメージは女であるが故の露骨な感情が訴える所の原力から発せられるものであり、単なる外傷と比較してもその治癒速度には天地の差があるとも思える。

須磨駅前の交番に来るよう言われたで、早よ行って来なさい」

「分かった、ほんまにごめん」

 そう言って英和は康明を伴い暗鬱な表情のまま出かける。距離が知れているとはいえ単車を失った今の二人にとってその道程は結構遠く感じられ、深く刻まれた心の疵は決して軽い足取りを好もうとはしない。

 二人は道中でも口を開こうとはしなかった。疲弊し切った互いの心中にあるものは語るにも悍ましい憤りや悔しさ、怒り、悲しみ。そして自らを相憫するその心情は果てしない虚無に包まれ、眼前の光景すら視界に入って来ない呆然自失になったその姿は恰も不治の病にでも冒されたような嘆かわしい有り様だった。

 交番に着き中へ入るとそこには鋭い眼光で睨みつける制服警官三人と、既に椅子に坐っている義久の姿があった。

 当然の事ながら三人は厳しい尋問を受ける訳だが、英和と康明が真っ先に感じたのは警官の強い圧力よりも義久の他人行儀な態度だった。 

 何故彼はここに来てそんな態度を取るのだろうか、ただ恐れているだけなのか。それは二人とて同じで、事ここに至っては悔いても及ばぬ事。警官に対し抗うのならまだしも、当事者同士で目も合わせようとしないその心境の変化は何を物語っているのか。

 二人はそんな義久の態度を訝りながらも神妙な面持ちで事の次第を包み隠さず話す。その潔さに感化されたのか警官達の態度も心なしか緩みを見せたように感じられる。

 それも所詮は作戦のうちなのかもしれないが、たとえそうであっても被疑者である三人にとっては曲がりなりにも気が抜ける一瞬であった。

 それから十数分が経った頃、一人の色黒の中年男が夜であるにも関わらずサングラスをかけて登場するのだった。その姿には三人は勿論、警官までもが動揺を隠せない様子だった。

「あ、あっ、滝川さんですか?」 

 少し舌が縺れたような警官の質問に対し、男はこれ以上はないと言わんばかりの凄まじいまでの真顔をして低いトーンで答える。

「はい」 

 その後間を置かずに、周りを一切気にせずに息子である義久の頬を思い切りぶん殴る彼の所作は一同を戦慄させる。

「滝川さん落ち着いて下さい!」 

 必死に制止する甲斐も無く、警官達の声はまるで蜘蛛の子を散らすように虚しく消えて行く。無論それ以上の暴力を振るう滝川でもなかったが、張り詰めた空間に漂う形容しがたい雰囲気はせっかく穏やかになりかけていた尋問をまた辛辣にさせる。

 駅前交番の真ん前にあるパチンコ店は一同の懊悩を嘲笑うかのように明々とした装いで夜の街を照らし続ける。だがそれにも負けないほどに冴える満月の光は皆の心にどう映るのだろうか。

 是非はともかくまだ思い出にもなっていないこのシリアスな現状に緊張するだけの三人の被疑者には、そんな景色を眺める余裕などは一切無かったのだった。