人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

約定の蜃気楼  一話

 

 

 あれからもうどのくらいの月日が経ったのだろう、幾日歩き続けていたのだろう。最期に物を食べたのは何時だったろう、昨日水を飲んだ気もする。でも大して空腹感もない。自分でも何がどうなってしまったのか分からない。唯一はっきり覚えている事といえば自分の名前と微かな思い出ぐらいなものか。

 高坂真人25歳。彼は或る悲惨な経験をした事で自暴自棄になり、何もかもを忘れたくなって家を飛び出したのだった。それでもまだ辛うじて生きている。死なない限りは生きて行くしかないのだ。

 その想いは彼をただ夢遊病のように何処までも歩き続けさせるのであった。

 だがまだ若い真人は決して道中でへたり込むような真似はしなかった。このまま頑張って歩き続けてさえいれば何時か何処かに辿り着ける。いずれは報われる。一見現実逃避のように見受けられる彼の所業も実はその限りではなく、寧ろひたすら歩き続ようとするその様は、この先にある何かを求めようとする前向きな精神から生ずるものではあるまいか。

 雨の日も風の日も、暑い日も寒い日も。時には繁華街の夥しい群衆を掻き分けながら、亦時には果てしなく続く一本の長い田舎道を汗を拭きながら。そうして辿り着いたこの町。この町でやっとこさ足を休めようとした彼の思惑は、単に疲れたからというだけではなかった。だが何か気になるものがあったのか、何か惹かれるものがあったのか、それも分からない。ただ今正に風の叫びは止み、雨の泣く声もぱたっと消え、全てが真空状態になったような気がしたのだった。

 それは取りも直さず真人の身体の奥底に眠る深い感性に依るものに違いない。そこに直に触れて来た自然の理(ことわり)こそが彼の放心状態になっていた心を揺さぶったのであろう。真人は取り合えず足を停め耳を澄まし辺りを見回した。

 そこには一切の音が存在していなかった。しかし空を見上げると雲は確実に動いていいて、鳥は勇ましく飛び回り、華麗に舞う蝶の姿は心を癒やしてくれる。そして湖には僅かながらも水面が波打っているのが見えるし、風に揺れる樹々も明らかに現存している。つまり確実に音が発生している筈なのだ。そして時間も過ぎていて、目に映る光景も何ら不思議なものではない。

 これだけの事象が眼前に姿を現しておきながら全く音が聴こえないとはどういう事なのか。真人は聴覚が失われたのではないかと不安になり、耳をほじくり頬を叩いてみた。しかし音は一向に聴こえない。こんな不可解な事が起きるのだろうか。実に奇々怪々だ。だが何の手立ても思いつかなかった真人はそのまま歩みを進める事にした。

 

 それにしても何と幻想的な風景であろう。湖畔に屹立する柳はその長い枝葉を下に降ろし、辺り一帯に立ち込める深い霧と相乗して行く手を遮っているようにも思える。足元には無数の石や岩が乱立されておりスムーズに歩く事さえ叶わない。

 そんな訝しい雰囲気が漂う湖畔で、真人の眼には二つの奇怪な形様が映る。一つは大勢の着物姿の女人の列が牛車(ぎっしゃ)を引っ張っている姿。もう一つは湖でただボケーっと魚釣りをしている老人。

 真人は取り合えず老人に近づき色んな事を訊こうと考えた。だがこのまま行った所で音が聴こえない状態では何にもならない。真人は鞄から護身用と自殺用に持って来たナイフを取り出し、思い切って自分の爪先を突き刺した。人間の神経は爪先に集中しているとは言ったものだった。激烈な痛みが込み上げて来る。この痛みは一体何だ、まるで断末魔の痛みではないのか。紅に染まる地面、真人はその己が流した血を見つめながらも必死に痛みを堪えて顔を起こし前を見る。すると今まで霧に遮られて見えなかった数々の事象がくっきり、はっきりと見えて来る。そして聴こえなかった音までもが確実に聴こえ出した。

 一体何が起こったというのか、さっぱり分からない。この己の発想の意味すら分からない。でも復活した聴覚は真人に勇気を与えてくれた。人間という生き物は実に単純な生き物であるような気がした。ほんの一瞬音が聴こえなかった時、真人は凄まじい恐怖を感じた。それが今こうして聴こえるようになっただけで生き返ったような心持になる。この心境の変化はただ純粋な気持ちが表す変化なのだろうか。では逆説的に捉えると不謹慎ながらも障害者の気持ちはどうなるのか、五感の一つでも失ってしまった人は一瞬にして死を覚悟するのだろうか。

 そればかりは経験してみないと分からない事かもしれない、だが真人は今僅かながらもそれを経験した事は事実である。たとえそれが幻であったとしても。

 

 やっとの思いで老人の元へ辿り着く事が出来た真人は、釣り人にはお決まりであるような声掛けをした。

「親っさん、釣れますか?」

 老人はまるで真人の到来を予期していたかのように何ら愕く事なく、澄ました表情のまま答える。

「あ~兄さんかい、わしは釣りなんかしとらんぞ、ただここに坐ってこの湖を眺めてるだけじゃよ」

 真人は怪訝そうな顔をして再度訊き直した。

「親っさん、それはおかしいでしょ、じゃあ何で釣り竿を持ってるんですか? 眺めるだけなら何も要らないでしょうに」

 老人は少し呆れたような面持ちでこう答えるのだった。

「若いもんは気が急いて仕方ないみたいじゃの~、いいか、わしが何をしてようがわしの勝手じゃ、法を犯してる訳じゃあるまいし、その事でお前さんに一々説明する義理もない、わしがここに坐ってる事がそんなに迷惑かな?」

「いえ、決してそんな事は......」

「じゃったら何じゃ? 自分の血を流してまでここに来た理由は?」

 この老人は何故そこまで知っているのか、理解不能だ。あんなに遠くに居てそれも濃い霧が立ち込めているこんな状況で、何故分かったのか。真人はまたしても不可解な心境に誘(いざな)われた。

「何でその事を知っているんです? 貴方は一体何者なのですか?」

 老人は尚も悠然とした態度で答えた。

「ここじゃ一切の隠し立ては無駄なんじゃ、今日お前さんがここへやって来る事、そしてその足を突き刺す事、これからわしに訊きたい事、全てお見通しなんじゃよ、じゃからお前さんが正直に腹をぶち割って生きて行く覚悟があるのなら、わしらはどんな事をしてでもお前さんを応援しよう、じゃがもしそれが出来ないというのなら今直ぐここを出て行っておくれ、二つに一つじゃ」

 真人には未だにこの老人の真意が読めない。しかしせっかく血も流した事だし、このまま帰ってしまうのも何か手持無沙汰な気もする。真人は取り合えず己が人生をこの老人に打ち明けようとした。

「実は自分は数年前に......」

「ああそんな話はいい! お前さんの正直な気持ち、つまりは心根を訊かせて欲しいのじゃ、それはこれからでもこれまででも無い、突き詰めて言えば生きたいのか死にたいのかじゃ」

 いくら人生経験豊富な老人とはいえ、初対面ここまでの心情を見抜いて来るとはただ者とは思えない。真人は単刀直入に思いを告げた。

「生きて行きたいです!」

 その表情はあくまでも素直で凛として偽りを感じない。そう 確信した老人は初めて優しい顔つきになり真人に握手を求めて来た。堂々と握手に応じる真人。その手には純粋無垢な一人の青年のまだ少し幼い、でも活気に充ちた感触があった。

 清々しい表情になった真人はもう一つの疑問を投げ掛けた。

「ところで親っさん、あの行列は何ですか? 綺麗な女性達が荷車のようなものを引っ張っているように見えますけど」

「あれか、あれは祭りじゃよ、この町、いや村か、ここに代々伝わる春祭りじゃ、ああやってこの町の名高い殿方や姫君が祭りが催される社へと赴いて行くんじゃ、ま、わしには余り関心のない事じゃけどな」

「そうだったんですか、それにしてもまるで御伽噺、いや、遙かなる昔のような出で立ちと風習ですね」

「そうじゃ、この町は言わば蜃気楼の町じゃからな」

「蜃気楼の町ですか?」

「そうじゃ、この町はお前さんを受け入れてくれたんじゃ。じゃが気を付けなされよ、今のように正直な内はいいが、少しでもおかしな行為をすれば一気におじゃんだ」

「おじゃんとは?」

「それはお前さん自身が考える事じゃ、分かったな」

「は、はい、分かりました」

「おう、そうそう、言い忘れておったがわしはこの町に生まれ育った花火師の虎泰じゃ」

「自分は真人、高坂真人です」

「そうか、じゃ、またな」

「ご老人、ちょっと待って下さい! 貴方は何処に住んでいらっしゃるのですか?」

「そんな事はどうじゃっていい、また明日にでも会えるじゃろ、じゃあな~」

 老人は笑顔で去って行った。名前こそ訊いたが一体どうやってまた会えるというのか、この湖に来れば会えるのか。それに蜃気楼の町とは一体どういう町なのか。余りにも面妖で抽象的なこの経緯は真人の運命にどういう関わりを持って来るのだろうか。

 牛車を引く女人の列だけがやたらと艶やかに目に映るのであった。

 

 

 

 

 

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