汐の情景 十六話
何も考えなくていい。何も思わなくていい。何も感じなくていい。そんな心理状況になれる場所とはどんな所だろうか。
出来るだけ広く、殺風景で、綺麗でもなければ醜くもない大した印象を受けない場所とは。例えば見渡す限り緑が広がる一面の野原。樹々や草花さえもない荒野。何処までも続く砂漠。凪に見る静寂閑雅な海。幻想的な湖。一応は何処からでも見える青空。
無論それらにも人を無心にさせる完全な力などはない。でも多少なりともそんな気持ちに成りたい者の手助けにはなるだろう。
内外ともにシンプル好きであった英和には何時もそんな場所を求めて彷徨っていたような節があった。それこそが潔癖な証かもしれない。ただ人間には時としてその内なる精神が外見にも影響を及ぼし、更には他者にまでそれを求めてしまうといった歪んだ欲情に駆られる事があるように思える。
傲り、己惚れ以外のなにものでもないこの欲ほど厄介なものもなく、自分では理解していてもついそんな衝動を覚えてしまう。それも親密な仲ならば尚更で、それが疎遠状態を導いてしまう事は自明の事実で自業自得とも言える。
最近会っていなかった義久に対しては自分の事を棚に上げて、
「パチンコもええ加減にせんとあかんでな~」
と言ってしまった。あくまでもさりげなく言っただけなので、この一言だけで疎遠になったとは思えない。或いは英和が一方的にそう思い込んでいるだけかもしれない。
とはいえそれ以来義久の態度が何処となく余所余所しくなっていたのも確かで、英和は自ずと内省的になっていたのだった。
この日彼は仕事を終えてから久しぶりに康明と飲みに行っていた。康明は酒には強いが余り飲まない方で、旧知の仲であるにも関わらず二人が腰を据えて酒を飲む事は珍しいほどだった。
英和と違って社交的であった康明が余りそういう場所に行かない事も少々不思議に思えるが、人に感心のない英和の性格は猜疑心までもは発生させない。
快く飲んでいる雰囲気は見るからに仕事を終えた後の一杯という互いのろうを労う印象を漂わせ、そこで話される内容も緩慢な他愛もない雑談という感じだった。
「最近おもろい事あるか? 俺はあんまりないけどな~」
英和のしけた話し方は今に始まった事でもなく、康明も微笑を称えながら答える。
「ないな~、あるとしたらええ女と付き合い出した事ぐらいかな~」
「そやろな~」
「何や、知っとったんか?」
「知らんけどな」
「何やそれ、ええ加減な事言うな」
「いや、お前の顔見とったらだいたい分かるわ、ほんまに正直なやっちゃで」
酒を酌み交わす二人会話といえばこの程度のものか。康明も根明とはいえ決してテンションが高い訳でもなく、そんな所で英和とも折り合いがついていたのだろうか。
地元のいきつけのこの店には知り合いの常連客も多く、中には恰も家族のような感じで接して来る者もいた。二人もそれを嫌いはしなかったが、年上の人というのは説教じみた話をする事が往々にあり、敬遠したがる気持ちは分からなくもない。
これにも世代の差違があるのだろうか。英和達にはそこまで気を悪くさせるものにも感じられなかったが、その言い方にも依るのかもしれない。
よく喋る年配の女性は二人にこう言って来るのだった。
「あんたらもうええ年やろ? 何時まで独りでおるつもりやねん、結婚せーへんのか? 相手おるんかいや? え~」
こんな事を言われた経験も何度かあったが、この女性の決して嫌味や皮肉でもない、朗らかな表情で謳う優しいお節介は取るに足りない言い草であり、笑いながら相手をしていた二人にも全く卑屈になる様子もなかった。
「ま、そのうちね」
「ふっ、早い方がええと思うけどな」
懐に余裕があったのかその女性は二人に酒を奢ってくれ、それからも談笑を続ける。
しかし、彼女の言葉に感化されたのか英和は少し神妙な眼差しで康明に語り掛ける。
「ところでお前、親っさんはほんまにええ親方やでな、俺も世話になりっぱなしで感謝に堪えへんわ、お前も親孝行せんとあかんでな、親っさん結構年やろ?」
この言葉が癇に障ったのか康明は珍しく語気を強めて返してくるのだった。
「いらん事言わんでええねん、俺は親父が死んでも大して応えへんわ、お前みたいな義理人情の世界に生きとう人間ちゃうしな」
彼の言葉も英和を激高させる。
「何が義理人情の世界どいやわれダボよ! 大袈裟やねん、お前も下町育ちやねんから俺と一緒やろいが! 調子乗っとったらただで済ませへんどゴラ」
「何で他人のお前がそんな真剣に怒るねん、冗談も通じひんのかいや......」
「冗談で言うてええ事と悪い事の区別もつかんのかいや」
康明は黙って微笑を浮かべていた。そんな態度に業を煮やした英和は更に続ける。
「お前、親に対してそんな事言うてええんかいや、お前には似合わへん言葉やでな、今頃になってグレ出したんかい、おー!?」
康明はまだ笑みを浮かべながら他人事のような感じで飲んでいる。英和としてはてっきり烈しい口論が始まるとばかり思っていた。それが肩透かしにでも遇ったような、違和感を抱くこの状況は一体何なのだろうか。
だが思い起こしてみれば康明が烈しい論戦を繰り広げる事などは今まで一度たりともなかった。そこまでして争いを嫌う理由は理解出来ない。古い精神主義と言われようともおとこ同士ならいっそ腹をぶち割って激論に興じても良いのではあるまいか。
そう感じる英和は益々昂奮してしまうのだが、それを抑える術は見当たらない。顔を移すと先程の女性が店主らと談笑し続けている。この女性は敢えて反面教師の役割でも担ってくれていたというのか。
康明は黙ったまま金だけを置いて店を出て行ってしまった。英和も敢えて引き留めようとはしなかった。
言い過ぎたのだろうか。いやそこまでの話でもない筈だ。店に居る客達の笑顔は以前見た月と同じく、自分達を嘲笑っているように虚しく映るのだった。
翌日からの職場でも二人は殆ど口を利かないままにただ仕事だけをしているといった味気ない時間が過ぎて行く。
温厚な親方も何も言って来ない。三人しか居ないこの状況にあっては親方の慧眼を以てすれば二人の間に迸る無言の軋轢を察知する事などは実に容易いであろう。
それなのに何も言わない親方は敢えて口を差し挟まなかったのか、何とも思っていなかったのか、それともそれこそが要らぬ世話だと確信していたのか。
その全てを踏まえた上でもやり切れない英和は是が非でも自分の方から康明に言葉をかけまいと決心していた。頑なにも浅はかで幼子のような一途な精神構造を持ち続けていた彼のような人間は不器用極まりないという偏見で片付けられがちだが、直情的であるとはいえその中にある誠実な心根には誰も目を向けてはくれないのだろうか。
そんなものを欲しがるでもなく、亦自らを省みるつもりもない英和はこの日も仕事を終えて真っ先にギャンブルに身を窶すのであった。
そこにさせ行けば何かが掴める、何かが達成出来るといった幻覚に惑わされながら。
そして辿り着いたパチンコ店ではまたしても義久の姿が目に入って来るのだった。彼は何故こうも自分の前に現れるのか。偶然なのか、わざとか。
それでも今の英和の心理としては義久に対する親近感が癒しにもなり、取るに足りない康明との仲違いが齎す僅かな寂寥感を葬り去ってくれる一筋の光にさえ感じられる。
他力本願を望む彼でもあるまいが、それこそが精神の脆弱性を示唆するのか。周りは仕事帰りの大勢の客の声で騒めいている。それをも憚る事なく義久の下へと急ぐ英和。その足取りは整然とした慎みの中にも、私情をも欺く憐れな虚栄心を漂わせていた。
義久の席に辿り着いた英和は彼の肩に手を添えながら声を掛ける。
「おう、今日も出とうやんけ! 流石やな~」
義久は笑いながら明るい可憐な目つきでこう答えた。
「おう、仕事終わったんか? そろそろ登場するんちゃうかなと思っとってん、またようけ出してくれや、期待しとうで」
その言葉を額面通りに受け取ってしまった英和は、躊躇う事なく台の目ぼしを付けて行く。店を一回りしても空いてる席が少なかった。ならばまた義久の近くでするか。でもそれでは味が無いように思われる。
すると義久の三つ隣で連チャンしていた客が踏ん切りをつけたのか止めて行く姿が見えた。データカウンタを確かめると大当たり回数25回で運ばれるドル箱の数は十数杯という英和の予想ではまだ出る、いきなり止めるのは勿体ないといった自称ギャンブラーとしての勘が働く。
皆が敬遠する中で彼は真っ先駆けてその台に坐った。義久までもがこちらを見つめている。そんな中でする遊戯は緊張を投げ掛けて来るが、全く怯む事なく打ち始める英和はあろう事かオスイチ(坐っていきなり大当たりを射止める)を遂げるのだった。
隣の客は思わず拍手を贈ってくれた。当然義久も愕いている。だが気になるのは止めたばかりのこの台に坐っていた前任者の様子で、それを横目で眺める英和の表情はまるでヤクザにでも怯える、貫禄のある先輩に怯える、猫に怯える鼠のような憐れにも滑稽な弱弱しい眼差しを称えつつも、それとは裏腹な歓喜に充ちた身震いを隠せずにはいられなかった。
その見知らぬ前任者は帰り際に英和の肩を優しく叩いてくれた。杞憂に過ぎなかった彼の憂慮は真っ白な空の如く純粋な喜びに打ちひしがれる。
さもあろう。この機種は以前打った時にも必ずといって良い程に連チャンを齎してくれた。それは忘れたくても忘れられないジンクスのような情感を与えていて大連チャンを夢見る、いや確信でもしたかのような彼の勇壮な眼差しには一点の陰りさえも見受けられない。
案の定と言うには不遜な想いが功を奏したのか、その台は大当たりを繰り返し、みるみるうちに積み重ねて行かれるドル箱の山は大袈裟な話、この世の極楽を投影する。
数時間のうちに彼は十数杯という前任者と同じぐらいの出玉を獲得するのだった。そして店を後にする頃義久が妬ましそうな目つきをして近づいて来る。
「英、よう出たな~、ええな~、俺はあの後調子乗り過ぎて結局ボロ負けやわ」
少々気が大きくなっていた英和はどうせあぶく銭と思い、亦義久とも久しぶりに酒を酌み交わしたいという意図を以て誘いをかける。
「ま、今日は奢るわ、な、行こうや!」
「おう」
素直に頷く義久のおぼこい表情も相変わらずだった。
英和は舞い上がっていたのだろうか。夜の街はそんな二人をどう操るのだろうか。軽快な足取りで歩み始める両者の心情は憐れむにも及ばない、爽快にも幾許かの焦燥感を放っていたのであった。
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汐の情景 十五話
夜の帷が下りる頃、恋人達の心には自然と愛の焔が灯される。先程の黄昏れに物足りなさを感じ、亦煽動されるようにして英和と直子はまた無意識の裡に人目を避けながら現世のエリシオンを目指して歩き出していた。
吹き付ける風は二人の共通意識と相乗し不規則な流れで辺りを巡回し、俄かに芽生えた静寂を打ち破らんとする意思は小規模ながらも鮮烈な嵐を呼び起こす。
部屋に入っても灯りを付けようとしない英和の思惑の大凡は直子にも理解出来ていた。如何にも気障ったらしい赴きではあるが、まずは互いの心情を確かめない事には身体が動かない。それは何も畏まって順番という形式的な段取りを遂行しようとしたのではなく、ただ単に時にはこんなシチュエーションも良いのでは? といった英和なりの冗談交じりな演技でもあった。
なるほどと得心したのか直子も満更ではない様子で敢えて彼のノリに付き合う。しかしそこで英和はベッドの端で足を躓くという大失態を晒してしまった。
「あいたっ! しくったぁ~......」
芝居は一瞬にして台無しになり、恥じる英和の顔は暗くて見えないものの、その声だけははっきりと部屋中に木霊していた。それを訊いた直子は言う。
「それも演技やったん?」
英和は直子の助け舟ともいえる助言を味方にして調子良く乗るのだった。
「バレた? 名演技やったやろ? これぐらいの余興がなかったらあかんでな」
二人は愛想笑いとは似て非なる潔い清々しい笑みを浮かべながら固まりかけていた心を徐々に砕き、そして火を灯して行く。でもその火はまだ僅かな燭(ともしび)に過ぎず、何時消えてしまうかもしれないか細い燐光は、取り合えずは人間の五感という五つの燭台全てに点火する事に依って逞しい焔へと成長させる必要があるだろう。
二人は未だ部屋を明るくはしない。その上で確かめられる人の五感。初めの一手は視覚だった。この暗闇に見える筈もない互いの表情も、窓外から差し込まれる街灯りと細やかな月灯りに依っていくらかは見える。
仄暗さが映し出した表情はまだ多少の笑みを残しつつも、それでいてシリアスな雰囲気を醸し出すような微笑ましくも真面目な輪郭を現わしていた。
次なる聴覚は外から聴こえる街の雑音と部屋に微かに響く両者の吐息と鼓動を捉えていた。この三つの音はそれぞれが独自の力を放ちながらも他者と絶妙のバランス感覚を以て共鳴するかのように優美なハーモニーを奏でる。
触覚はというと未だ触れられぬ両者の身体に感じ得る、物から覚える感覚で、固い氷が繊細に溶けて行くようなこの状況にあっては、その透明な色彩の中に今にも滴り堕ちて来そうで来ない、是非を問わない一点の波紋に滲み始める動揺が示す指先と爪先の精密な肌触りにあった。
味覚は二人の優しい心根が充満する内気が先程までの外気と重なり合って調和された天為と人為的な企みが織りなす純心にして技巧な、凡庸にして複雑怪奇な良質な味わいだろうか。
残る嗅覚は無い直子の香水を付けた身体から仄かに感じる芳醇な香りと、英和の男臭くも汗冷えした皮膚に留まる淡白な匂いか。
一応とはいえ無言の裡にこれだけの感覚を確かめる事が出来た二人は更なる感覚を求めて邁進する。ようやく部屋に灯りをつけた英和は改めて直子に対峙し、その内なる正直な秘境に冒険を試みる。
露骨な感覚的意識。来るものを全く拒まない筈であろう直子の素肌からは烈しいまでの眩い閃光は放たれ、それを時としては受け止めながら、時としては躱しながらも狼狽える事なく突き進む英和の身体は、精神を凌駕したような童の凄まじい攻撃力で攻め掛かって行く。
彼に甘んじるでもなく抵抗するでもない直子の健気な守りは図らずも幾許かの隙を与えるように、その攻撃を試すかのような母性愛にも似た厳しさで立ち向かう。
両者の攻防一体とも言える戦陣は一進一退の形勢を象りつつも、拮抗する純粋無垢な力の衝突に依って生まれた剣光を華々しく天に打ち上げる。呼応する天からは鉛白の光波が降り注ぎ二人の裸体を滑らかに解しながら優しく潤す。
月灯りを浴びた星屑を鏤めたようなその身体は鮮やかに彩られ、艶やかな光沢を放つ意志からは何者をも寄せ付けぬ威厳が漂っている。
これが二人が追い求めていたものなのだろうか。素晴らしいとは思いつつも未だ達成感を得られないその姿からは情愛を置き去りにした、個々の目的だけを果たしたような自己満足が確立されていた。これで契りを交わしたと言えるのだろうか。だが今見た光は明らかに二人の心情から発せられたもので、一人だけで作り得るものでは無い。それなのに一向に消え去ろうとしない蟠りはこれ以上の試練を欲しているというのか。
英和は思わずこう訊くのだった。
「直子、今何考えとったん? 俺には凄い光が見えたからびっくりしたんやけど」
彼女は敢えて目を合わさずに答えた。
「あんたまだ甘いわ、私にはそんな光は見えんかったで、幻でも見たんちゃう?」
幻ならば何故甘いとかいう言葉を使うのだろうか。見たくて見られる幻なのか、それとも他意があるのか。やはり女には先天的に魔性の力でも備わっているのだろうか。
いくらプラトニックな関係性を保ちたいとはいえ、この二人には何かそれ以上の宿命(さだめ)があるようにも思えるのだが、そう思う事が既にして己惚れなのか。
これだけの熱い闘いを演じたにも関わらず英和の身体にはむず痒い寒気が走る。
飛躍していようとも結局は生きたままエリシオンに到達する事は出来なかったのか。だとするならば直子にも蟠りが残っている筈だ。しかし彼女はそんな様子を一切感じさせないままに徐に窓を開け、外の空気を吸い込むのだった。
冷たい夜風は一瞬にして英和の熱い想いを醒ましてしまうのであった。
その頃、一方では康明も彩花との逢瀬に興じていた。この二人の間柄は英和らのそれとは違い、親密な関係性というよりは寧ろ遊びの延長でしかないように見受けられる。
軽く見る訳ではないまでも彩花のような男勝りな女性がどのようにして康明と結ばれたのかは未だに理解に苦しむ。強いて理由を導き出すとすれば彼の鷹揚で人を好む性格と、その楽観的で饒舌な為人がたまたま功を奏したとも思える。
無論それは当事者同士が知り得る事であり、他者が干渉する必要など無かろうとも少々過激な彩花との仲には何か危険な香りがしないでもない。
対極に位置するが故に育まれる愛情。それも理には適っているような気もする。この二人の逢瀬は何時も男同士のような会話から始まっていたのだった。
それは車中での様子だった。運転は交互で行い車好きだった康明は隣に坐っている時は常に暇そうにしていた。
「あんた運転しとう時の方が圧倒的に口数多いでな、今は何も言えへんやん、何か怒っとん?」
言われた康明は少し怪訝そうな顔つきで外の景色を眺めながら答える。
「別に、お前運転荒いな、何時か事故するぞ」
彩花は何ら気にする事なくそんな忠告は眼中にもないといった様子で更にスピードを上げながら話し続ける。
「あんたももっと喧嘩強くならんとあかんでな、この前もあいつらと目も合わさんかったやろ? ヘタレ丸出しやん、情けない」
「あんなもん、俺が出るまでもないやろ、ちゃんと無言の圧力をかけたったしな、そやからあいつらも諦めて退散して行ったんやろ」
「ふっ、なるほど流石は○○中出身だけの事はあるな」
彼等が高校時分にバイトしていたスタンドでの光景は社会人になってからも屡々現れ、それがこの街に住まう者の少々常軌を逸した世界観みたいなものになっていた。
その度に矢面に立って立ち向かうのは彩花で、康明はただ静観、傍観しているだけであったが、彼女に対する借りは康明の人柄だけで相殺されていたのだろうか。摩訶不思議なこの二人の間柄には何が隠されているのだろうか。
それを確かめる事こそが愛なのだろうか。彼等も英和らと同様或る場所へと車を走らせながら夢想の裡に何かを追い求めていたのだった。
部屋に入った二人はその明々とした空間の中でいきなり交わり始める。彩花の手は積極的に康明の身体に触れて行き、敏捷に立ち振る舞うのだった。
「ほら、早く脱ぎなさいって!」
康明は照れながらも衣服を脱ぎ彼女に身を預ける。すると彼女は彼の身体を踏みつけ罵声を浴びせ掛ける。
「オラー、何やその見窄らしい身体つきは! もっと鍛えんとあかんやろ!?」
そう言って詰りながら康明の身体を足で転がしながら執拗に責めるのだった。横になっている康明は笑いながら甘んじてその攻撃を受ける。
そう彩花は完全なs体質で康明はмに成らざるを得なかったのだった。しかしそれが両者の本心であったかは定かではない。それを証拠に彩花はそんなプレイをしながらも何時も淋しい表情を泛べていたのだった。
対する康明も決して甘んじているといった風でもなく、攻めに転じる機会を窺っていたような節はあった。
両者の攻防は初めの愛撫だけで永続的に保たれる筈もなかった。遊び程度に康明を甚振った彩花は少し疲れたような様子で腰を下ろす。すると康明はここぞと言わんばかりに攻めに転じる。
「何や、言いたい放題言うてくれたな~、こっからが勝負やで~、覚悟はええか~」
彩花は何も答えずに掌を返すような態度で康明の攻撃を受け止める。でも康明は烈くは立ち回わらない。あくまでも優しく触れて行く。
その姿勢はか弱い女性の手つきのような、意気地の無い男の躊躇のある何処か勿体ぶったような演出ではあったが、その焦らすような行為が彩花の羞恥心に火を付け彼女の身体は自然と女性らしい形態へと変化し、しなやかに華麗に、そして悩まし気に舞う姿には新天地を求めて彷徨う放浪人のような漂いがあった。
快楽に酔いしれる二人が欲するものは官能や恍惚感だけではなかった。その先にある人の性をも崩壊させてしまう強靭な力。それはちょっとやそっとでは到達出来ない、幾多の試練に打ち勝った者にのみ授けられる勲章に値するものではなかろうか。
その試練の一部であろう事を成し遂げた二人は切ない接吻をした後に言葉を繕う。
「何か見えた?」
惜しげなく訊いて来る彩花に対し、康明は揶揄いながら答える。
「おう、何か丸いもんが見えたな~......」
彩花はらしくもなく照れ笑いをしていた。恥ずかしがる彼女の姿は可愛かった。
sやмという体質は先天性があるのだろうか。この二人を見ているとまるでその性質を変えたいような思惑を感じる。或いは彩花も直子同様に男を試しているのだろうか。
この二組の恋人、いや本当に恋人なのかも分からないが、結局は真実に辿り着く事は出来なかったといって良いだろう。
兎が餅をついていると言われる月はそんな彼等の様子を嘲笑うかのようなにんまりとした表情で、冴え輝いていたのだった。
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汐の情景 十四話
或る日英和は仕事の休憩中に親方である康明の親御さんから苦言を受ける。
「英和君、ええ加減博打は辞めといた方がええで、お母さんも心配しとうと思うし」
仕事以外、いや仕事も含めて苦言を呈された事など初めてではなかろうか。だからこそその言葉には何倍もの力が感じられ、その胸に烈しいまでの戦慄を投げ掛けて来る。
英和はとてもじゃないが反論する気にはなれなかった。それは親方の温厚な人柄は言うに及ばず、良心の呵責も然ることながら、母の事を他者から言われた時に感じた想像以上の気恥しさ哀しさが募った自己憐憫に依るものだった。
その場に居た康明は言われている英和の顔を内心を探るような目つきで見つめていた。親方の前では何も言えない英和も鬱陶しいとは思いながらも康明から目を反らす事が出来なかった。
こんな時に限って何一つ冗談を口にしない康明の存在は邪魔にしか思えない。すると康明は煙草を一服してから言葉を発する。
「ま、社会勉強やろ、若いうちの苦労は買ってでもせえって言うしな」
それを訊いた親方はこう反論する。
「せんでええ苦労もあるやろ、誰にも迷惑掛けんと出来るんやったらええけどな」
何も答えなかった英和も内心では親方の言に賛同していた。そうしなければ親孝行は疎か自滅してしまう可能性もある。
しかしその一見当たり前のような親方の意見もどれだけ真摯に受け止め体現して行くかが重要であり、等閑(なおざり)にするつもりなど無いにせよ淡い夢物語から抜け出す事が出来ない英和は収拾がつかない心情を悟られまいと、また偽りの余裕をかましながら仕事に従事するのだった。
案の定というには余りにも愚かな英和の行為には呆れるばかりだった。さっき言われた事も忘れたかのようにその足は既にパチンコ店の前にまで差し掛かっていた。無論躊躇いはあった。だがその躊躇いをも覆す胸の高鳴りは自分でもどうしようもない程に強く烈しく、勇ましいまでの攻めの体勢を煽って来る。
その勢いを封じるには余程の力がいるだろう。この場にての親方や母からの叱責、有象無象の物々しい影、或いは天変地異。どれもこれも一応は経験している彼であったが、今更そんな事が起ころう筈もない現状には他力本願ながらも物足りなさを感じる。
そして店に入った彼の目に真っ先に映ったのは射幸心を更に煽る義久の姿だった。よく見てみると義久の足下には既に数杯のドル箱が積まれてあった。まだ夕方なのに何故こんなにも早くそれだけの大当たりを引いているのだろうか。仕事を早退して来たのだろうか。
煩い店内で込み入った話をする気にもなれない英和は軽くアイコンタクトをとっただけで自分の坐る台を探して回る。優柔不断な彼はなかなか目ぼしがつけられなかったが、義久の様子がよく見える斜め後ろの台に着席した。
千円、二千円と金が吸い取られて行く。これしきの金額で動じるギャンブル好きな者など居よう筈もなく、過ぎ行く時間は湯水の如く金を貪り続ける。
気がつけば投資金額は2万円に膨れ上がっていた。あっという間の出来事だった。休日でもないのにこれ以上投資を続ける事はリスクが高い。でもこのまま負けて帰るのも心苦しい。結局遊戯を続行する彼の懐にはあと数千円そいう金額しか残っておらず、背水の陣で臨むその戦いには歪んだ悲壮感だけが漂っていた。
最期の千円を使いもはや諦めかけていた時に奇跡は起こる。呆然とした表情で眺めていた台の盤面には7という数字が三つ揃っていた。これを見た時英和は一体何が起きたのか分からないといった感じで俄かに喜ぶ事が出来なかった。
それは既に諦めていたにも関わらず何故最期の最期で当たってしまうんだという贅沢にも理解し難い心境から来るもので、肉体と精神が分離でもしたのかといったその放心状態にあるのは大袈裟に言えば生きながらに死せる抜け殻の魂、或いは死にながらも生きている仮死状態のような生気の欠片もないような虚しい薄ら笑いだった。
取り合えず遊戯は続けていた英和の下に義久が駆け寄って来た。
「おい、当たったやんけ! この台7で当たったら絶対連チャンするで、ええな~」
自分が大連チャンしているのにこんな慰めのような言葉を掛けて来る義久に少し苛ついた英和ではあったが、次第に解けて行く放心状態はその心を沈める役割を果たしてくれる。
そのあと義久が言う通りに連チャンを繰り返し、結局は大きなプラス収支で遊戯を止める英和。店を出てから我に返った彼はその喜びを義久に告げようとしたが彼は既に帰っていた。
何とか窮地を脱したにも関わらず無性に込み上げて来る虚しさは何なのだろうか。日が落ちた外の景色に感じるものは無かったのだった。
英和が余り異性に執着が無かった理由にギャンブル依存症が働いていたのかまでは分からない。勿論カッコをつける訳でもなければ嫌いな訳でもない。でも男女を問わずにちょっとした距離感を保つ事は好む所で、馴れ合いを嫌い孤高を気取る精神には拘りという頑なな意志に依って作り得る人為的な企みが無いとは言い切れない。
企みや目標なども所詮は感情から芽生えるものとも思え、そこから生まれて来る意志はどんなに強くとも礎である感情を凌駕する事は出来ないだろう。
ならばその感情が芽生えた瞬間を察知しそれを善き方向へと導く力は他者にあるという一つの理論が成り立つような気もしないではない。
英和の性格に根付く烈しい好き嫌いの相反性は見る者に依っては大した事ない、決して特別なものでもないといった概念的な見立てで分析されがちだが、個性を簡単に理解しようとする人間の己惚れにも似た所作は、見立てられている本人の己惚れを含めた心理に勝るのだろうか。
社会人になってからの英和と直子の交際は正に互いの心情を確かめるような、時としては牽制するような間柄に発展していたのだった。
久しぶりに会う事になった二人は少し躊躇いがちな表情を崩せないままに姿を現す。英和は直子の本心を。直子は未だ見透かせぬ英和の性格を。本質を見出そうとする点ではこの二人に差異は感じられない。単に旧交を温めようとした事がきっかけであった交際の始まりも浅はかとはいえ矛盾までは感じられない。
となると後は相性が大きく影響して来るとも思える。数える程の情事でそれを一瞬にして感じ取れる者もいれば、鈍感にも深く追い求めようとする者もいるだろう。二人の想いは完全に後者で共通していた。
「久しぶりね」
愛嬌のある笑顔で初めに声を掛けて来た直子は声を発すると同時に一切の逡巡を捨て去ったような明さを投げ掛けて来る。
「悪いな、あんまり連絡出来んで」
対する英和の物言いには未だ晴れぬ蟠りが明らかに見て取れる。
傍から見れば実にまどろっこしい情景に違いない。でもそうする事でしか気持ちを表現出来ない今の二人に秘められた純粋な思惑は柔順な経路を辿ろうとはしない。
そんな両者の間に割って入る強烈な夕焼けは取り合えずと言わんばかりの寛容を併せた強い意志を以て二人の身体を動かせる。
その意志を看過出来なかった二人は歩きながら話し始める。
「なぁ、何でもっと連絡して来ないの?」
「お互い様ちゃうか~......」
人目を気にする英和はこんな皮肉しか口にする事が出来ない。その上でも直子を思いやる気持ちは優しい仕種となってその手に触れて行く。
軽い笑みを浮かべる直子の手は英和の指の間に強く絡んで行く。照れ笑いをする彼の表情を見た直子は笑いを堪える事が出来ずに口走る。
「あんたってほんまに正直やねんな、顔赤いで?」
それは英和自身が一番理解していた事であり、心の代謝が良過ぎる自分の素直にも稚拙な感情の起伏を逆恨みしてしまう。
そんな調子で二人が辿り着いた夕暮れ時の浜辺は、切ない雰囲気の中にもロマンチックな舞台を提供してくれる。
日が沈み切る前の水平線の真っすぐな直線は地球の丸さを物語るような穏やかな楕円形を現わし、そこに向けて飛び立つ数羽の鳥達の姿は今日一日に別れを告げるかのように儚く映る。
少々強い風と波を斬きながら進む船は目的地を目指しながらも緩慢な時の流れを体現し、港に見る人影はまるで人生を顧みるような抒情的な淋しさに酔いしれながら彷徨している。
意図するものに個人差はあれど、この夕暮れ時の海にある物悲しい光景には人を癒やしたり勇気付けたりする心根が存在し、優しい包容力を以て人の心を溶かしてくれる。
岸壁に打ち寄せる波音は変化という意志で横槍を入れて来るようにも感じるが、引いては寄せて、寄せては引くという反復される波の動きは現状を弁えながらも悠久の歴史にある世の神秘を教えてくれている。
「で、今日はどんな心境の変化で私を誘ったの?」
遠くを見つめながら言う直子の横顔は綺麗だった。
「......気まぐれかな?」
真似するように遠くに目線を置いたまま答える英和の横顔も無様では無かった。
ただでさえ口数の少ない二人がこれ以上無口になってどうするのか。映画のワンシーンでもありまいし、こんな調子でこの先やって行けるのだろうか。
だが今の二人に余計な言葉など要らなかった事も自明の事実で、そんな情景にこそ真実を見出すべく己が心情を自然の風景に準えるかの如く、ただ身を任せて黄昏れに戯れる二人であった。
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汐の情景 十三話
海中に見る美しい光景。小魚の群れが一団となって素早く華麗に舞い上がる姿は見るものを圧倒する。
まるで鍛え上げられた騎馬隊のような、或いは入念な稽古を熟した踊り子のような。この魚群というものはそんな練習でもした上でここまでの舞台を演じているのだろうか、それとも意図せずに自然に身に付いた業なのだろうか。
鮮やかなに彩られた一団の姿は精妙巧緻にして優雅、勇ましくも繊細な優美な曲線を描きながら海の中を縦横無尽に踊り続ける。
天衣無縫とはこの事か。生まれたての天使がその澄み切った心根で表す有形無形の動作は正に天為とも言うべく神々しいまでの光を放ち、些かの邪念すら寄せ付けないであろう華奢ながらもしなやかで絹のような柔軟なオーラには崇高な力を感じる。
社会人になって自分がどう変わったのかは分からないし興味もない英和だった。何故ならいくら年を取ろうとも何があろうとも変わらないといった純粋無垢な青春の志を超える、生涯を通しての一貫性というものに惹かれていたからだった。
言うは易し行うは難しでそう簡単に出来る事でもないような気もするが、果たしてそうだろうか。無論長い人生に於いて様々な経験を積んで行く上では変化という事自体を否定する訳ではないまでも、核の部分というものは変えたくても変えられない強固な意志に依って作られていると思える。
そういう観点ではどちらかというと康明よりは義久を好いていた英和だったが、その心に依存性が芽生えていた事までは承知していなかった可能性はある。
何時も通り仕事を終えた英和は帰り道で偶然義久に会うのだった。はっきり言ってこの三人の中で一番知性に乏しかったと思える彼が大学に進学出来たのはそれこそ偶然とも思える訳だが、まず進学した動機が理解出来ない。余計なお世話であっても敢えてそこを突く事が出来るのも旧知の仲であるが故の特権みたいなものだろう。
義久は相変わらずの能面のような無表情で接して来る。その中にある真の表情を未だ見た事が無かった英和は取り合えず世間話などをして場を和ませようとする。
「おう義、最近どないや? この前あの店でダボみたいに連チャンしとったおっさんがおったでな、あれ桜ちゃうんか?」
ギャンブルの話ともなれば直ぐに喰いつく短絡的な義久だった。
「あれな、俺も訊いたけど多分桜やろな、でも羨ましいでな、実はあの台何回も打った事あるねんけどな、あんな古い台が今頃出るとは誰も思わんやろ、桜じゃなかったらおかしいわ」
おぼこい笑みを浮かべながら話す義久の何かぎこちない、いや全く似合わないスーツ姿は滑稽にも見えるが、或る意味では反転性を味方にしたとも思えるその形姿には天衣無縫とまでは言わないまでも、幼子が着るスモックのような微笑ましい美しさが理屈抜きに窺える。
この時点で笑いを堪える事が出来そうもない英和は正直に笑って見せる。すると笑われているにも関わらず自分も釣られるようにして笑い出す義久だった。
「この恰好は俺も嫌やねん、でもスーツで出勤する決まりになっとうし、作業服なんかに着替える手間もない今の仕事も結構ええけどな」
神経質な英和はこの作業服なんかという言い方に動揺しつつも話を続ける。
「ところでお前、前借りする癖は治ったんか? 新聞配達しとった頃色んな噂訊いたで、それはそれでおもろかったけどな」
ここで初めて義久が少し怪訝そうな表情をするのだった。触れられたくない過去であったのか、それとも未だにそうしているのか。
英和の予想では後者を選ばざるを得なかった。それを証明するのが今の義久の表情に相違ない。干渉するつもりは無くとも明らかな悪習を取り除こうとする英和の想いもまた親友に対する思いやりであって、人様の事を言えた義理でもない彼ではあっても互いが切磋琢磨する事に依って将来の展望を明るくしたいといった正直な願いは通じる筈だと思い込んでいた。
しかしその想いに反する義久の言は一瞬にして場を凍り付かせる。
「お前な、俺の親でもなかったら兄弟でも親戚でも何でもないやろ? 何でそんな上から目線でしかもの言われへんねんて」
英和としても嫌な予感はしていた。だが軽率に放った訳でもない己が想いを頭ごなしに否定しようとする義久こそが上から目線ではないのか。自分はただ親友としての意見を述べたに過ぎない。それなのに何故ここまで嫌がるのだろうか。
でも打っても何一つ響かなかった今までの義久の変化したであろう為人は僅かながらも英和を安堵させる要素を孕んでいた。それは対峙する二人にしか分からない事象であろうとも核心除いた部分での成長であり、核の部分を十分に感じられたからこそに齎される安心感でもある。
英和の純粋な心根に感化されたのか義久も正直に答えるのだった。
「じゃあはっきり言うわ、俺は今の会社に入社して以来、一回もまともに給料貰った事ないで、毎月前借りしとうわ、お陰で何時馘になってもおかしくない状況やわ」
流石の英和もここまでの答えを欲してはいなかった。でも訊いてしまった事は確実に彼の心に刻まれ、笑いの中にも暗鬱な一滴の汚濁がその穢れた色を以て自分の潔癖な内心に忽ちにして醜い破門を拡げようとする。
一旦落とされた色はどんなに抗っても元の色には戻らない。余りにも不器用、余りにも馬鹿正直で稚拙で遊びが利かない彼の精神構造はもっと汚れる揉まれる必要性があるのかもしれない。
それを考慮した上でもそうはしたくないと頑なになる英和。康明といいこの義久といいたった二人の友人との間柄にも真実を見出したいと願う心は逆に副作用ばかりを発揮してしまう。
両者の中にある目には見えない蟠り。それを模倣するように俄かに曇り出した天を見上げながら帰途に就く英和であった。
家に着いた英和は久しぶりに母と談笑していた。母が殊の外上機嫌だったのは何かがあったに違いない。無関心な英和はたとえ母であろうともその詳細を訊こうとはしなかったが、母の方から教えてくれるのだった。
「今日天野さんとお茶飲んどったんやけど、娘さんが結婚するらしいで、あんたも知っとうやろ? 昔近所におった天野さん」
英和は懸命に記憶を辿ろうとする。確かにそんな人が居た事は覚えている。しかしまだ幼かった頃の思い出は言わば神話の時代ともいうべく淡い記憶で、そこに登場する者達の姿形はその輪郭だけに留まってしまう。
その娘さんは保育所は同じだったが小学校からは別の道を歩み、その辺で会ったどころか噂話すら訊いた事はなかった。
ここでもう一人の女性の姿が追憶を邪魔する。直子が何故こんな所に割って入って来るのだろうか。二人の情愛が齎した因果なのだろうか。でも彼女は何か不機嫌な顔をしている。その真意はまるで理解出来ない。そして姿を見せたと思えばまた直ぐに消え去ってしまう。
英和は心の中で叫んだ。
「直子! 何処に行くんだー!?」
彼女は後ろを振り返る事なく声もかけないままに消えてしまった。幻に違いないこんな情景にも気が気でならない彼はもはや追憶に浸る事さえ叶わなかった。
そんな息子の異様な変化を鋭く見抜いた母はこう言う。
「どないしたん? 何か変やで、無理に思い出す事ないで」
その言は優しい注意に聞こえた。優しさの中に見え隠れする厳しさ。それを既に母から授かっていた英和はその親心にも勝る人の情けという無形の心根を改めて知ったような感覚を味わう。
意志的な性格に感覚的な意識。それを言葉に表す事が出来ない自分がやるせなかった。もっと饒舌で豊かな表現力があれば、もっと器用に生きて行く事が出来たら。男は度胸、女は愛嬌などという古い文言に捉われるつもりなどさらさら無かった彼であろうとも、どちらかと言えば男は無口で女は喋るのが好きといった外見上の雰囲気は今でも明確に感じられ、それに対する語彙力や話術というものを手にしたい。
ここで念を押しておきたい事は一言に話術と言ってもそれはあくまでも本音を巧く表現したいだけであって、見せかけだけのコミニュケーション力などは似て非なるものであると断言出来る。
しかしただ訴えるだけでも互いの心情に軋轢を生じさせる結果になる事は明白で、如何にして温和に静謐に打ち解けて行くかが重要とも思える。だが上辺だけの馴れ合いを徹底して嫌う彼のような非力な者が事を成就するにはかなりな経験を積まなければ返って災いを引き起こす可能性もあるだろう。
正直な感情表現をする者が不器用とするならば巧く誤魔化せる者が器用なのか。そんな筈はない、それなら思想の自由という権利までもが剥奪されてしまうし、個性自体の必要性が無くなってしまうではないか。
またまた葛藤と戯れていた英和は徐に顔を上げ母に問うのだった。
「ま、うる覚えではあるけど今思い出したわ、そやけど何でそんな事言って来たん? 俺にどうして欲しかったん?」
母は小さい溜め息をついてから答えた。
「あんたはほんまに気の小さい男やな~、そんな事では何時になっても結婚なんか出来ひんで、ええ加減大人になったら?」
その言葉は図星を突いていたとはいえ、浅はかで短慮な響きがあった。でもそれ以上の口答えをしたいと思う英和でもなかった。
自然の力というものを人間如きが手にする事は不可能なのだろうか。そこにすら己惚れがあるのだろうか。
物思いに耽る事を嫌わない英和はあるがままの純粋な心根で、世の中を見渡すような細めた眼差しでカッコを付けるようにして窓外の風景を遠くに眺めるのだった。
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立冬 ~読書週間
晩秋に 凛と佇む 霜月よ(笑)
いやいや、相変わらず短い春と秋という感じもしますが、移り行く四季にこそ日本特有の花鳥風月があると思えば謝意を示すに躊躇うものではありません^^
という事で(どういう事やねん!?)、久しぶりに小説以外の記事でも綴ってみようかなと思います。
といっても何時もの記念日ネタなんですけどね 😒 ま、今日11月7日は結構多くの記念、行事があるみたいですから書き応えはあるかなという所ですかね^^
立冬
「立冬(りっとう)」は、「二十四節気」の一つで第19番目にあたる。現在広まっている定気法では太陽黄経が225度のときで11月7日頃。
「立冬」の日付は、近年では11月7日または11月8日であり、年によって異なる。2021年(令和3年)は11月7日(日)である。
「立冬」の一つ前の節気は「霜降」(10月23日頃)、一つ後の節気は「小雪」(11月22日頃)。「立冬」には期間としての意味もあり、この日から、次の節気の「小雪」前日までである。
秋が極まり冬の気配が立ち始める頃なので「立冬」とされる。この頃は太陽の光が弱くなり、朝夕など冷え込む日が増える。江戸時代の暦の解説書『こよみ便覧(べんらん)』では「冬の気立ち始めて、いよいよ冷ゆれば也」と説明している。言い換えれば秋の極みとも言え、実際、多くの地域ではまだ秋らしい気配が残り、紅葉の見時でもある。
「秋分」(9月23日頃)と「冬至」(12月22日頃)の中間で、昼夜の長短を基準に季節を区分する場合、この日から「立春」(2月4日頃)の前日までが「冬」となる。北国や高地では初冠雪の知らせが届く頃でもある。季語には「冬立つ」「冬入る」「冬来たる」などを用いる。
とありますね。要は冬が来るという意味だと思うのですけど、だから何やねん? と言ってしまえば話は終わってしまいます。冬が来るという事を暗示してくれている、そして季節に対する節目をつけてくれているんでしょうね。
ま、自分には毎日が節目であるといった尤もらしい持論があるのですが、それはそれ、これはこれで暦上の節目というのも大切と思います。
何れにしても寒くなるのはやっぱり嫌ですね。夏の暑さと冬の寒さ。どちらか一方しか選べないとすればどっちが良いですかね。
昔知り合いのおっちゃんが言っていました。
「夏は服脱いでも暑いけど、冬は着込んだら温くなるからな」
人それぞれとはいえこの言い方には釈然としないものがありましたね。確かに脱いでも暑さが解消されるとも限りませんが、いくら着込んでも寒いものは寒いです。
冗談ならまだしも真顔で言っていましたから、まだ若かった自分はこのおっさんアホかと思いましたけど、そんな事を言ってはいけません。そう思い込める事は羨ましいぐらいです。
夜なきうどんの日
全国で讃岐釜揚げうどんの「丸亀製麺」を展開する株式会社トリドールが制定。
日付は暦の上で冬の始まりを告げる二十四節気の一つ「立冬」(11月7日頃)に。
寒さが本格化する冬の夜にうどんを食べることで身体をあたためる「夜なきうどん」という食文化・習慣を伝えていくことが目的。記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
とあります。これも冬に因んだ記念日みたいですね。類義語に夜鷹蕎麦なるものもありますが、この夜という文字を付けるだけで何故か理屈抜きに尤もらしく聞こえてしまうのも不思議ですね。これこそが言葉の魔法のような感じもします。
でもそれならば昼や朝ではダメなのかという稚拙な意見も出て来ます。それに泣きながら食べなければならないのかとも。笑いながらではいけないのでしょうか。
自分は人が蕎麦やうどんを食べている光景を見れば自然と笑ってしまいます。別に揶揄うつもりなどは全くないのですが、何か如何にも真面目に食べているなぁ~みたいな感情が湧いて来ます。
特にテレビ番組、その最たるは時代劇で、恰も蕎麦やうどんを食べる事こそが人間の営みでもあるかのような抒情的な印象を受けます。
ラーメンやパスタなどにはそんな感じはしないのですが、これも不思議なものです。
レントゲン週間
日本放射線技師会(現:公益社団法人・日本診療放射線技師会)が2003年(平成15年)に制定。
1895年(明治28年)11月8日、ドイツの物理学者W・C・レントゲン(1845~1923年)がX線(X-ray)を発明したことにちなんで。レントゲン博士はこの功績により、1901年(明治34年)に第1回ノーベル物理学賞を受賞した。
レントゲン博士によるX線の発見は、診療放射線技師にとっては単に歴史的な重要性を持つばかりでなく、職業の起源となる記念すべき日でもある。このX線に代表される放射線は医療や科学の発展に多大な貢献をもたらし、特に医療分野においては放射線の利用なくして医療が成り立たないといっても過言ではない。
この期間には、医療における放射線の正しい知識を伝え、放射線の専門家である診療放射線技師の仕事について知ってもらうために全国各地で様々なイベントが開催される。
とありますね。先人達が作り上げた素晴らしい技術には感服します。ただどうせなら肉体的なもだけではなく、精神的、つまりは人の心をも可視化出来るようになれば凄いと思えるのですが、そんな発明はまず出来ないでしょうし、不要かもしれませんね。
読書週間
「読書の日」は、「読書週間」(10月27日~11月9日)の一日目の日。
「読書の日」については、書籍にも記念日として記されているが、制定した団体や目的については定かではない。
「読書週間」は、1924年(大正13年)に図書館の利用PRを目的に日本図書館協会が制定した「図書館週間」(11月17日~23日)を母体としている。その後、1933年(昭和8年)に東京書籍商組合主催の「図書祭」(11月17日~23日)に改称されたが、戦争の影響で1939年(昭和14年)には一旦廃止された。
終戦後の1947年(昭和22年)からは「読書週間」(11月17日~23日)と改称して、読書週間実行委員会の主催で実施された。読書週間実行委員会は、日本出版協会、日本図書館協会、取次・書店の流通組織、その他報道・文化関連団体30あまりが参加して結成された。「読書週間」の目的は、読書の力によって、平和な文化国家を作ろうというものである。
「一週間では惜しい」ということで、翌1948年(昭和23年)の第二回「読書週間」から、11月3日の「文化の日」の前後にまたがる現在の10月27日~11月9日の二週間に期間が延長された。1959年(昭和34年)に読書推進運動協議会(読進協)が発足してからは、読書週間実行委員会に代わって主催団体となった。
とあります。ま、読書の秋とは言いますが、読書ほど大事なものも無いような気もしますね。
自分の読書観としては内容やストーリーよりもやはりその本に書かれてある語彙、文章そのものに価値があるように思えます。無論ストーリーがなければ話にもならない訳ですが、画像や映像と違ってその文章の中に想像し得る自分なりの世界観みたいなものが意図せずにその心に浸透して来て、魅了という幻にも似た幻惑と己惚れを含めた優越感を与えてくれます。
となって来ればたとえノンフィクションであっても真実などは必要ないと言っても過言ではなく、現実と幻の狭間で彷徨える心境のこそ耽美があるとも思えるのです。
訳の分からない事を言っているように思われるかもしれませんが、自分もまだまだ読書量が足りませんし、もっと勉強したいと思っています。
という事で以上、今日の記念、行事特集でした。
小説の方も宜しくお願い致します^^
では皆様、ごきげんよう 😉
汐の情景 十二話
二章
送る月日に関守なし。気がつけば春、気がつけば夏、秋、冬と、人という生命には情緒的にも少し呑気な感傷にふける習慣があるように思える。
それは当然年齢にも直接影響して来る訳で、数えで25歳になる春を迎えた英和は花見の時期が終わった頃合いを見計らって、少し離れた場所から散り行く桜の姿を呆然とした表情で独り眺めていた。
敢えて距離を取っていた理由の一つは荘厳な山々と同じく余り間近過ぎるとその美しさが損なわれるのではないかといった相変わらずの繊細な気質に依るもので、一つは一人で花見でもしているのかと思われる憐みを嫌う気恥しさから来るものだった。
優しい風にさえ攫われそうな一片の桜の葉は、その可憐にも艶やかなピンク色の身体を振り子のような形を描きながら舞い落ちて行く。桜ほどに軽い葉ならばいっそもっと烈しい風に依って天高く舞い上がって視界から消え去って欲しいものだ。でも落ちて行く儚い光景にこそ自然の耽美ともいえる無意識的な芸術があり、もし手を加えてまで希みを実現させたとしてもその心は充たされないだろう。
そして散って行く過程に於いて樹枝に出来た疎らな空間と、既に緑を現わしているその全体像にはもはや桜としての優美な威厳などは消散したような漂いもあるが、際限なく続いて行く植物の神秘性は決して人に憂慮を投げ掛けるものではなく、種類毎の差異はあろうとも長い寿命と、季節になれば必ず立派に咲き誇って見せてくれるその心意気には人間社会にはない悠久ともいえる不変性が感じられる。
だがそれを踏まえた上でも何か理屈抜きに桜という木花が余り好きにはなれない英和のような人物は何を深く考察しているのだろか。無論自然そのものはあくまでも肯定的に捉えていて好き嫌いといった正直にも浅はかな二元論だけで論じるつもりなどはさらさらない。ならばやはり短絡的、断片的思考が充ち溢れていると思われる現代社会に対する憤りからなのか。それとも常に何かを疑わなければ気が済まないといった身勝手な拘りなのか。将又素直に感情表現が出来ないだけの脆弱な精神が齎す屈折した心理状況に依るものなのか。
他者から見れば単なる小難しいだけの狭量な男と解釈される可能性などは、人自体に頓着のない彼には取るに足らない事で是非にも及ばない話だった。
問題はそんな自分の中にある錯綜した想いと闘いながら共に生きて行く、引き連れて行く事を敢えて選び、亦そうする事でしか生き甲斐を見出せないといった多少の蟠りが残る覚悟を悠揚とした態度の中に持ち続けようとしていた彼の真意に尽きるだろう。
さわやかな風と強い陽射しを浴びながら飛翔する鳥の姿は清々しく映る。この鳥のようにただ悠然と空を飛び回りたい。そんな気持ちとは裏腹に顔がさす事を謙虚に感じた英和は徐に公園のベンチから立ち上がり、少し申し訳なさそうな面持ちで桜に別れを告げてから歩き始めるのだった。
高校新卒で入社した設備会社は酒の付き合いが嫌だという軽率な理由だけで直ぐに辞めてしまった。次に入った大手工場は人間関係が煩わしいというこれまた同じような理由で辞めてしまい、その次の印刷会社も辛気臭いという我儘な理由で辞めたのだった。
高校を卒業してからここ数年で幾つの会社を辞めただろうか。アルバイトも含めれば数え切れないかもしれないし数えるのも嫌になって来る。だが一切の後悔をしなかった彼は己惚れともいえる世間に対する悲観的思考を自分の盾にするようにして、平然と生活していたのだった。
それこそ若気の至りに準じたまるで根拠のない、強がりを含んだ抗いであったかもしれない。とはいえそういう思想自体には何ら嘘偽りはなく、あくまでも本能の表れとも言うべくこれまでの所業はたとえ他者から批難されようとも自らを卑屈にさせるだけの力までは擁していなかった。
その紆余曲折にも及ばない敢えて選んだ遠回りという道程の中で彼が改めて感じた事は、やはり人間社会というものは滑稽極まりないといった哀れみと憂いだった。
まだ大した経験もしていない彼のような凡人がこんな思想を持ち続けている事の方がよっぽど滑稽で甚だ稚拙にも思えるが、それは決して上からものを見る訳でもなければ他者を馬鹿にするような短絡的思考に依るものではなく、彼なりの浅はかながらも確固とした憧れが起因する理想郷を夢見る心情から芽生えた思想であり、その僅かでも達成出来ない世の中ならば死んでしまった方がマシなのではといった極論に依って担保される不動の精神でもあった。
そんな相変わらずの頑なな性格の英和に文を付けて来る康明もまた何処へ行っても務まらずに、結局は親御さんが営んでいた塗装屋を手伝っていたのだった。
「おい英よ、お前は何時も何考えとうねん? 明日も朝早いねんからええ加減酒止めて早よ寝ーよ、じゃーな」
英和は康明と共に彼の親御さんの世話になって塗装職人をしていた。はっきり言って塗装になど全く関心が無かった英和がそうした理由は気楽さに惹かれた事と、自分もどうせ何処に行っても務まらないという惰性からであった。
まるで自分の行動を見透かしていたかのような康明との電話を切ったあと、英和は致し方なく酒を飲む手を止め倒れ込むように床に就く。身体は疲れていないし酔いもたかが知れている。それなにの何故か気持ちは重い。気鬱さだけはいくら酒を飲んでも晴れる事はなく、たとえ晴れたとしても一時的な誤魔化しに過ぎず、特に一人酒などは返って自我に固執してしまうといった副作用すら発揮してしまう。
それでも多少なりとも気持ちを和らげてくれるという点では少なからず麻薬的な効能も含めて一応は処方箋の役割を果たしているのも事実で、然程酒が好きではなかった英和ではあれどその飽和状態になった己が心の情景に浸る事を嫌いはしなかった。
晴天が続く事は外で仕事をする者にとって経済的な不満は無いに等しい。捗る工程は正にその邁進する職人達の技術と心意気に依って示されている。
小さな現場で施主さんから直接仕事を請けていた康明の親御さんも何ら愚痴を零さず黙々と作業を熟す。この親方は建築関係の仕事では珍しいぐらいの大人しい紳士的な為人をしており、英和は勿論息子の康明にさえ決して怒鳴るような真似はしなかった。
鷹揚にして聡明、繊細ながらも大らかなその性格は人に好かれこそすれ嫌われる要素は何処にも見当たらない。母子家庭で育った英和はそんな親方を康明以上に好いていた。仕事上で分からない事があった場合にはいくら忙しくても親身になって教えてくれるし、休憩中には笑い話などをして皆を和ませてくれる。
そのうえ悩み事にも付き合ってくれるといった言わば至れり尽くせりな環境は、惰性に甘んじたとはいえ英和に一切の下心を持たせない。
もしこれでまだ不満を口にするようならば英和こそが人非人であり、人の勝手という履違えた権利を踏まえた上でも許し難い行為であると言っても過言ではないだろう。
所狭しと建てられたシートが張り巡らされた足場の中での作業は移動する点に於いては少し厳しいものがあったが、そこでじっとしている時などは自分の世界に浸れる細やかな優越感を齎してくれる。
一言に塗装といっても養生テープやシートを張る段取り作業からブラスト(塗装剥離)やパターン付け、調色、そしてスプレーガンで行う吹き付けに、ローラーや刷毛での塗装等、その工程は結構複雑で多岐に渡る作業を習得するには結構な年期を要する。
そられを丁寧に優しく手解きしながら教えてくれた親方に感謝しながら作業に励む英和と康明はもう既にそこそこの職人に成長していて、言われるまでもなく素早く立ち回る二人の姿は傍から見ていても爽快に映る。
英和は足場のシートに囲まれたシンナーの匂いが充満する空間の中で、作業をしながら無意識裡に快い幻覚を見るのだった。
吹き付けられる無数の塗料が壁に打たれた後も自由闊達に飛び回っている。それはまる夜空を駆ける流星のような綺麗な姿で、目で追うには無理があるほどの光の速さで走り去ってはまた舞い戻って来るという円を描くような反復作業を続けている。
英和は手を使ってそれを掴もうとした。当然掴み取る事など出来ようはずもない星屑達は逆に猛烈な勢いで彼に迫りかかって来る。壁までの距離は僅か数十cmの筈がこの宇宙空間とも呼べる幻覚の中にあっては気の遠くなるような距離にも感じられ、迫り来る星は巨大な隕石の形にまで急成長しその身体に覆い被さって来る。
攻撃を躱さなければ自分が殺されてしまうと悟った彼は精一杯抗いながらも死ぬ覚悟を決めていた。やがて隕石が眼前にまで差し迫って来た。それを両手で受け止めながら目を瞑って無心になる。しかし隕石は一向に手を緩めようとはしない。こうなればやはり死ぬしか道は残っていないのか、短い人生ではあったが、それなりに楽しめた。自分のような非力な人間が今更足掻いた所で何を出来るというのか。
それは諦めというよりは敗者の潔さであり浄らかな川水の如き純粋な心の流れ。これに異を唱えるとすればただただ反抗の意思を以て立ち向かうしか術は無い。
それも一興これも一興で硬派な精神を尊重する英和のような男なら抗う事にこそ真実を見出しそうなものだが、そうしなかったのは今見ている幻覚を現実のものにしたいという飛躍した考えの方が勝っていたのかもしれない。
だからといって死に急ぐ軽忽を安易に認めたくもない彼は今一度耳を澄ませて啓示を受けるべく全ての邪念を捨て去った。それでも天の声などは依然として聴こえて来ない。やはり腹を括るしなないのか。
遙かなる古(いにしえ)の賢人達から無言の裡に伝わる叡智と感覚的な意識。その本質とする所は言うまでもない人間が誰から教わる事なく持って生まれた喜怒哀楽、この四つの感情に他ならない。無論生きて行く上でそれが差異を生じる事もあろう。でも是非はともかく純心を穢さんとする邪な心は決して自然に生まれたものではなく、意図するからにこそ生じ得る本音に対する裏切りの刃であり自らを欺こうとする虚栄心ともいえる守りの型ではなかろうか。そんな偽りの刃に鋭い切れ味があるとは到底思えなく、贋作であると信じたい。
こんな事を考えている時点で英和が無心に成り切れていない事は自明の事実だった。結局は死ぬしかないのか。巨大な隕石は彼の目前にまで迫り今にも落下して来そうな勢いだ。
「うううぅぅぅー!」
思わず発した呻き声は家の壁に反射され、それに共鳴されるかのように宙を舞っていた隕石を形成していた筈の無数の流星群が独自の塊となって隕石に攻撃を仕掛ける。
「ドドドーーーン!」
流星群は忽ちにして隕石を粉々に破壊してしまった。無残に彷徨う隕石の欠片は虚しさだけを漂わせながら溶けるようにして姿を消して行く。
幻覚とはいえこの隕石こそが英和に執着して離れなかった悪の元凶ともいえる邪な心だったのではあるまいか。取り合えず安堵する英和だった。
するとその声を訊いたのか康明が駆け寄って来る。
「お前何しとんねん? 今何か言わんかったか?」
一瞬たじろいだ英和も殊の外冷静な面持ちで答える。
「いや、別に、普通に仕事しとうだけやけど、強いて言うたら塗料と戦っとったんや、それが俺らの生業やろ? ちゃうか、そやろ?」
「ふっ、ちょっとはとは腕上げたな」
康明の言は更なる安堵を齎してくれた。それにしても今見ていた幻覚は一体何を意味していたのだろうか。本当に英和に内在する蟠りだけだったのだろうか。
仕事を終えた彼等は何時ものように至って自然な朗らかな表情で互いのろうを労いながら帰途に就くのであった。
こちらも応援宜しくお願いします^^
汐の情景 十一話
大会が終わって数日後、部活動が始まる前に顧問の先生が例の約束を果たしてくれる。てっきり大会場から帰る時に奢って貰えると高を括っていた英和はこの時間差攻撃を喰らわして来た先生のお手々に嫉妬してはいたものの、律儀に約束を果たそうとするその心意気には少なからず敬服していた。先生は言う。
「おう林田、奢ったるわ、食堂行こうや!」
まさかとは思ったが学校の食堂で奢ってくれるというのか。今学校に居る訳だからその可能性は十分予期出来たまでも、それを実行する先生の思惑とは一体何だったのだろうか。単に経済的な意味でそうせざるを得なかったのか、それとも初めからそのつもりで己がセンスをひけらかしたかったのか。
食堂に入るなり先生はこう語り掛けて来る。
「うどんでええか?」
英和は考えるまでもなく即答する。
「はい、有り難う御座います」
食堂のうどんは結構美味しいと評判だった。そのうえ一杯たったの150円という破格の安価はいくら高校生であっても嬉しい限りで、実際英和もここのうどんはしょっちゅう食べていたのだった。
食べ終えた英和は礼の他は敢えて何も言わなかった。それは先生に対する気遣いというよりは、その美味しかったうどんに純粋な謝意を表していただけだった。
そうしてこの日も何ら危険を感じる事なく練習に励み、無事に帰途に就く英和はその煩わしくも身勝手な憂慮から解放された状況に安堵するのだった。
彼が危惧していた事とは言うまでもないあの一件で、それを警察が学校に知らせたのではないかといったものだった。康明と義久は警察から絶体に学校には連絡しないと言われていたにも関わらず結局は薬局で知らされており、その罰として校庭の草刈りを命じられていたのだった。
そして英和の担任の先生は特別といっても良い程の生真面目な性格で、曲がった事が嫌いという点では共感出来れど、自我に糊着して離れない、拭い去りようのない後ろめたさは先生の為人に依って更に強化されてしまう。
あれからというもの一日一日が重かった英和は正にその日暮らしでも強いられたかのように、何時皆の前で発表されるか分からないといった恐怖と闘いながら登校していた。
最後のホームルームで毎日のように同じ台詞を口にする先生。
「え~、実は今日みんなに言うときたい事があるんやけど......」
これは部活動顧問の先生と同じ何か芸の一種なのだろうか。連絡事はいくらでもあろうとも、一々こんな物言いをする必要があるのか。
その度に物怖じする神経の細い、肝の小さい英和の胸に立ち込める想いには悔恨の念よりも遙かに大きいと言える周知の事実になってしまう事に対する気恥しさが顕著に見て取れる。
「最近常々思ってる事がある、メンチ切られたとかいう理由で喧嘩沙汰が増えてるみたいやけど、人間というものは目ぐらい合わすやろ!? そんな事で一々揉めてたら社会人になんか成られへんど、ええ加減大人になれよ、な!」
どんな急報かと思えば何の事はない。確かに先生の言にも一理はあるが、そこまで改まって言うべき事なのか。だが先生の真剣な眼差しには底知れぬ人間の矜持が感じられる。だからこそ皆も黙って訊いていたに違いなく、英和としても尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
そして下校する頃、彼はこの調子ならあの件がバレるのも時間の問題と腹を括りながら街に佇む堂々とした美しい樹々に草花、その景色に感化されるように、前向きな精神の中にも哀愁を込めた表情を泛べるのだった。
暫く姿を見せなかった康明はアルバイトに精を出していた。英和と違ってどちらかというと人好きで車好きだった彼はガソリンスタンドの店員という接客の仕事に従事していたのだった。
いつの間にか自動二輪中型の免許と危険物乙種という資格を取得していた彼は職場でも皆に可愛がられ、快活に仕事を熟す。その献身ぶりは価値観の多様性を勘案したとしても褒められこそすれ、貶すまでの行為を許すものではなく、彼なりの正直さを以て示される実直な意志には或る意味では英和と類似する所があるようにも見える。
彼は先輩達の目を盗むようにして同じバイト仲間の女性と付き合い出していた。他者が干渉するのも烏滸がましい話だが、その女性は康明とはどう見ても不釣り合いな少し気の強い男勝りな女性で、仕事中でも全く媚びる事なく、誰かれ構わず気を遣わずに話をするといった礼儀知らずとも言える雰囲気を醸し出していた。
そんな性格が裏目に出てしまったといえば大袈裟だが、彼女は或る常識では考えられないような行動を執るのだった。
康明が務めていたこのスタンドがある場所は地元でも有名な結構ガラの悪い地域にあり、亦時代背景もあってかそのガラの悪い近隣住民が用もないのにまるで自分の庭みたいな感じでスタンドに遊びに来るといった事が屡々あった。
それもただ部屋に入って寛いでいるだけならまだしも、店員に絡み客にも絡んで行く暴挙には店長でさえも手が付けられない、というよりは対岸の火事を決め込んでいて、警察までもが駆け付ける状況には宛ら暴走族の乱闘騒ぎのような雰囲気があった。
この日はその如何にも調子に乗っていると言わんばかりの改造車に乗った男達が給油に来ていて、それに目を付けた彼等は野生の動物が獲物を見つけたかの如く鋭い眼光で颯爽と遅い掛かって行く。
「おい兄ちゃん、ええ車乗っとうやんけ、われ何処のもんどいや? おー!」
その車に乗っていた三人のヤンキー丸出しな男達は一瞬怯みはしたものの、売られた喧嘩は買わなければいけないといった責務を無理をしてまで果たすようにして健気にも果敢に立ち向かって行く。
「何や? 何もんやねんコラ」
こんな言葉は正に渡りに舟みたいなもので、言われた地元の連中は喜び勇んで暴れ始める。
「出て来いゴラ!」
強引に車から引きずり出されたヤンキー達はその場でボコボコにされて歯向かう事すら叶わない。地面に這いつくばる身体を掴み上げ更にシバき上げる彼等は財布を取り車まで乗っ取って、辺りを暴走し始める。不甲斐なくやられてしまったヤンキー達は成す術もなく、呆然とした様子で立ち尽くしていた。
康明は関わり合いにならないようにただ静観していたが、あろう事かその彼女はヤンキーに対し煽り文句を浴びせ掛ける。
「お前ら、このままでええんかいや? やられてカエシもせーへんのか? 情けないな~、それでも男か? ヤンキー魂でも見せたらんかいやゴラ! それすら無いか~......」
笑いながら言う彼女に業を煮やした連中は所詮女だとでも思ったのか、力を振り絞って攻め掛かって来る。それをも見越していた彼女は手負いとはいえ三人の男を一瞬にして叩きのめすのだった。
「女一人でもこの様やでな、ダサ過ぎるわ、ふっ」
居ても立ってもいられなくなった康明はここでようやく彼女を制止する。
「彩花、もう辞め! ええ加減せんとまたパクられるぞ!」
今まで暴れ放題暴れていた彼女は康明の一言だけで掌を返すように大人しくなる。
「あぁ、悪かったな、こんな雑魚相手しとったら弱いもん虐めになってまうもんな、この辺にしとくか......」
彼女がそうした理由はまるで分らない。そこまで康明に惚れ込んでいるのだろうか。それとも康明をすら試していたのだろうか。
店長が通報してから20分ぐらいが経った頃に警察が駆け付け、暴走する者達もようやく捕まり、一同は連行されて行く。
遊びに来ていた地元の男達は去り際に言う。
「彩花、おもろかったな、また暴れようや!」
彩花はニコっと微笑んで余裕綽々といった感じで彼等を見送っていた。被害者のヤンキー達はただ項垂れながら沈鬱とした表情で誰とも目も合わそうとしない。
そんな光景を憐れみ、儚むように目を細めて眺めていた康明は自分の中に巣食っていた或る想いが弾けそうで弾けない、表現するにはまだ早いという世の趨勢を見守ると言えば大袈裟ながらも、何か世の中、人類自体を悲観するような憐憫にも似た憂愁感を葬り去る事が出来ずにいたのだった。
時は過ぎ英和達は早や卒業の時期を迎える。この高校生活三年間の中に印象深く残っているものは不起訴になったとはいえ警察に捕まった事と、直子との恋路ぐらいなものだろうか。他はどうでも良いとまでは言わないが、さして思い当たる事などは無いに等しい。
入学した当初も、水泳部に入部した事も、二年生の頃に行った修学旅行も然程思い出には残っていない。かといってそれらを軽視するつもりもなく、先生や同級生、先輩達、そしてバイト先の方々にもそれなりに感謝している。
しかし彼の胸に内在する想いは高望みをする訳ではなかろうとも、もっと自分の心を揺さぶってくれる、突き動かしてくれるような刺激を欲していたのだった。
それならば自分でやれば良いだけの話なのだが、そこまでの人物でもなかった彼は常に他者にそれを求めていたのかもしれない。
新聞配達も水泳も直子との交際も、全て自分なりに努力したつもりだった。それでも何故か何処か物足りない、やり切れないといった想いは何時になっても払拭出来ない。ただ贅沢なだけなのか、それともまだ努力が足りないのか。狷介な人物であるが故の宿命(さだめ)なのか。
高く据えた理想だけを追い求める事は理には適っていないのか。いやそんな筈はない。それなら所詮人間という生命は最初から敷かれたレールの上でしか踊る事は出来ないのではあるまいか。
無論その敷かれたレールすら歩めない者もいるだろう。持って生まれた才能を踏まえたとしても強い志を以て挑めば結果如何に関わらず後悔は無い筈。ならば自分はやはり努力が足りなかたっという結論に行き着く。
根は正直であっても何があっても素直に喜べない、素直に怒る事も出来ない。感情表現が苦手である以前に何かが邪魔をする。それは決して目には見えない或る種の邪念の類かもしれない葛藤にも勝る徒な衝動を含めた心の動揺。
それを排除する事が出来たなら人はどれだけ楽な人生を送れるだろうか。倖せとはその困難の悉くを超えた先に感じる事が出来るものなのだろうか。
哲学者でも無ければ心理学者でも無い英和のようなただ少し繊細で神経質な者がそれを悟るにはまだ結構な時間を要するだろう。
ともあれあの件が皆の知る所にならないままに卒業する運びになった現状は英和にひと時の安らぎを齎す。それは彼の努力の賜物などではなく、あくまでも自然の所作に相違ない。
これからはそれを自分の手で切り開いて行かねばならない。そう覚悟する彼の周りに佇む自然の光景は何時もながらにその精神を癒やし、そして勇気付けると共にまた数ある人生の障壁を漂わすのであった。
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