人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  二十八話

 

 

 貧しいようで豊か。裕福なようで貧困。世の無常の中にも特に日本という国はそういう漠然性を帯びているような気がする。

 それは好不況だけといった経済的な概念で表される単純なものだけでなく、人が皮膚感覚で覚える世界観のようなもので、個人差はあれど戦後目覚ましい発展を遂げて来た日本を客観的、総体的に見た場合、真に裕福な国だと言い切れる者など居ないようにも思える。

 資源が余り取れない日本に景気の安定性を求めるのも或る意味では酷な話かもしれないが、だからといって外国を羨んだり、市場の近代化、西洋化だけを図ろうとする短絡的思考には嘲笑を禁じ得ない。

 真のグローバリズム、国際化社会というものはあくまでも自国の文化文明を尊び、それを基準とした上で諸外国と付き合って行く思想にあると思う訳だが、今の日本を見ているとただ西洋を初めとする外国に進んで飲み込まれて行こうとしているような脆弱性を感じてしまう。

 何れにしても常に変動する経済も生き物で、それを動かしている人間も自然も万物全てが生き物である以上、怠惰を貪っている者はいざ知らず、何某動いていればどうにか生きて行けるというのが人間社会の理であろう。

 相変わらずギャンブルなどに身を窶す英和もそんな当たり前の思想を胸に秘めながら、葛藤しながらも静寂の裡に日々を過ごしていた。

 このギャンブルというものも摩訶不思議なもので、実に馬鹿馬鹿しい話だが勝ち負けを繰り返しながらも何とか凌いで行ける世界でもある。たとえボロ負けしても、借金しながらでも以外と金は続くのである。

 その裏には当然生活が立ち行かなくなるほどの悲惨で、苦渋に充ちた憐れな倒錯者の感嘆がある事は言うに及ばず、中には自責の念、良心の呵責に耐え切れず自裁を試みる者もいる。

 そこから這い上がる術は悲壮感だけなのである。仮に誰かから大金を授かったとしても何の解決にもならなければ、心が充たされる事もない。亦そこまで自分を追い込まなければ味わう事が出来ない真の射幸心、つまりは刺激なのである。

 よくよく考えてみれば英和のような者はその刺激や悲壮感を得る為に敢えてギャンブルに身を窶していた可能性もあった。それを証拠に彼はたとえ大勝ちしたとしても何か物を買ったり、大判振る舞いをするような事は一切しなかったのだった。それどころか金銭感覚が麻痺しているとはいえ儲かった所でまず喜ぶような事もなかった。

 それはどうせ何時かは負けるだけとただ先々の事を憂慮するだけではなく、金を手にした時点で味わう虚しさを無意識の裡に感じ取っていたからだった。

 ギャンブルだけに限らず、仕事でも交友でも恋愛でも何でもそうだった。彼の人生は何時も虚しさと闘って来たようなものだった。感謝が足りないのだろうか。ロボット人間を徹底して嫌う彼自身が感情表現に貧しければ正に本末転倒である。寧ろそれを得る為にこそ生きているとでも言うのか。

 でも仕事等、ギャンブル以外の事は少なからずギャンブルよりも感性を豊かにはしてくれるような気がする。

 そう思う英和は真面目に就活に勤しむのであった。

 友人、知人、ハローワークに求人誌。本職である大工以外の職業も視野に入れて探していたが、どうもしっくり来るものはない。賃金に拘るつもりがなくとも一般職などは単価が安過ぎる。年齢的な事もあり、ただでさえギャンブルに明け暮れている今の自分にそんな贅沢が言える筈もなかったが、何か気が進まない。いっそ冴木の親方に言ってまた世話になるかとも考えたがそれだけは出来ない。今更どの面下げて会いに行くのだ。たとえ向こう暖かく迎えてくれても自分のなけなしの矜持が許さない。

 途方に暮れる彼は何時もの喫茶店に入り、独りお茶を飲んでいた。客は殆どいなかった。カウンターに坐って寛いでいると、暇そうにしているマスターが語り掛けて来る。

「英君、最近仕事暇なんか? この前も昼間に来とったでな」

 英和は少し照れながらも正直に答えてしまった。

「実は仕事辞めたんですわ、色々あってね」

 マスターは何ら愕く事なく、悠然とした態度で言葉を続ける。

「そっかぁ~、俺の知り合いでもそんな奴ようけおるわ、でも何かしとかんと食って行かれへんやろ? せっかく手に職があるのに勿体ない話やなぁ~」

「自業自得なんでしょうがないですわ、仕事探してはいるんですけど、なかなか見つからんしねぇ......」

 マスターは自分のコーヒーを一口飲んだあと、英和の目を見据えて言う。

「そうや、暇なんやったら、そこの壁とドア直してくれへんか? 勿論金は出すで」

「え?」  

 と言って英和はマスターが指差す方向に目をやった。確かに老朽化が進み壁板が少しふやけて膨らんでいる。ドアも昔ながらの古びた造りで色褪せている。直す価値はあると思うが即答出来なかった彼はこう訊くのだった。

「でもマスター、この昔ながらの情緒ある雰囲気がええんとちゃうますか? 自分はこんな感じが好きですけどね」

 マスターは含み笑いをしながら答えた。

「なるほど、英君はそういう考え方か、それやったら大工なんか出来んわな、でも店主である俺がええ言うとんねんからやってくれへんか? 頼むわ」

「分かりました、じゃあやらせて頂きます」

 気が進まないまでもマスターの情に負けて、というより断る勇気がなかった英和は一応する事にした。

「おう、やってくれるか! じゃあ定休日の水曜日はどないや?」

「はい、それで結構です、有り難う御座います」

 こうして図らずも久しぶりに大工の仕事に励む事になった英和であった。

 

 この頃、康明もまた無職となり就活に東奔西走していた。元塗装工でありながらも技術職には全く興味がない彼は、車好きだった事から運転関係の仕事ばかりを好んでやっていた。

 トラックの運転手、バスの運転手、トレーラー、ラフタークレーン等、多数の資格を有していた彼は様々な仕事に就き精進はしていたものの、如何せん英和と同じく堪え性に欠け、何処へ行っても長続きした試しはなく、職を転々としていたのだった。

 そしてそれこそ暇潰しのように英和に電話をして、愚痴ばかり零すようになっていたのだった。

 英和としても話し相手になる事自体は全く苦ではなかったので、躊躇う事なく電話に出る。ただこの前の一件といい、どうも康明の変容振りには看過出来ないものを感じるのだった。

「おう、まだ生きとったんか? しぶといのー」

 その声だけは相変わらず元気な康明で、卑屈な様子は一切感じられない。

「おう、何とかな、お前はどうやねん? 仕事見つかったんかい? お前はようけ資格持っとうし何処でも行けるやろ」

 康明は少し間を置いて答え始めた。

「お前な、知ったかすんなって、お前に何が分かるねんてな、俺は必死に足掻きながら就活しとんねん、今もそうや、お前なんか博打しとうだけやろ、俺の苦しみが分かってたまるかいや」

 これも相変わらずといえばそれまでだが、ここまで怒る事はないと思う英和。自分な何も言ったつもりはない。それなのに何故ここまで言う必要があるのだ。

 でも怒ってばかりいても堂々巡りになると判断した彼は気を取り直して口を開く。

「分かったから......」

 電話は既に切れていた。話の最中に、それも向こうから掛けて来ておきながら何もい言わず一方的に切るとは無礼にもほどがある。キャッチホンすら認めたくないほど古典的な英和にとってこの仕打ちは正に青天の霹靂、その非人道的で人を侮蔑するような態度には烈しい憤りを覚える。

 更に少々短気であった彼にはこの一瞬で康明に対する恨みが込み上げ、叩きのめしてやりたいという衝動までもが湧き上がって来る。でもそれだけはしまいと冷静を装う彼であろうとも、ならば訣別するしかないといった飛躍した条件が付き纏う。

 やはり康明は変わってしまった。何が彼をそこまで豹変させてしまったのか、ここ数年で何があったのか。付き合いを続けていた英和にもその真相までは解らない。訊いた所で何も言うまい。これで親友と呼べるのだろうか。

 これ以上相手にする事を憚られた英和は何も考えない事にし、家に帰って酒を飲んでいた。

 1時間ほどが経った頃にまた康明から電話が掛かって来た。取る気になれなかった英和はそのままにして酒を飲み続けた。だが何度も何度もしつこく掛けて来る。

 いっそこっちから切ってやるかと思いはしたが、つい電話に出てしまった。

「お前、舐めとんかいや! 何がしたいんどいやゴラ! え!」

 康明は何ら悪びれる事なく発言し始める。

「何を怒っとうねん!? 俺が何かしたんか?」

 英和は電話に出た事を後悔していた。でもこうなった以上は真正面から事に当たるしかない。更に烈しい怒声を浴びせる英和。

「お前ええ加減せーよゴラ、何で途中で電話切るんやー言うねん! で、また掛けて来るんかい! どういうつもりやねんゴラ!」

「そんな事で怒っとんかいや、お前も相変わらずやな~、大人になれよ」

「大人になるんはお前の方やろ、この年なって礼儀も知らんのかいや、頭沸いてもたんか? おー!」

「はいはい分かりました、すいませんでした」

 康明はヤケクソになった様子でまた一方的に切ってしまった。

 この瞬間英和決めたのだった。もう完全に決別する事を。

 それにしても何かがあったには違いない。そう断定する英和は不本意ながらも康明の心理状況を細かく分析しようと試みる。でもヒントすらないこの状況ではいくら考えても答えなど出て来る筈もなかった。

 とはいえもはや電話などする気にもなれない。ここにこそ親友であるが故の切っても切り離せぬ因果因縁というものがあるのだろうか。

 酒も進まない彼は康明の母御が入院しているであろう、近所の有名な総合病院に出掛ける。

 予想は的中して母御はこの病院に入院していた。受付で部屋を訊いた彼は迷う事なく病室に赴き、母御の見舞いをするのだった。

 母御はすっかり痩せこけ、以前のような元気も覇気もない、衰弱し切った身体で横たわっていた。気休め程度の花を持参していた英和はそれを傍らに置いて話し始める。

「おばちゃん、久しぶり、具合どうですか?」

 重たげに瞼を開けた母御は明るい笑みを浮かべながら口を開く。

「ああ、英君、わざわざ来てくれたんか、ありがとうな、ま、私ももう年やからな、何時死んでもおかしないし、でもあと一回ぐらいは家に帰りたいけどな」

 母御の言には何とも言えない哀切な漂いが感じられたが、それとは裏腹に醸し出される明るさは一時的にも哀しさを葬り去ってくれる。これも親子の縁で、生来冗談が好きだったこの母子はこの状況にあっても決して卑屈な表情を人に見せる事はなかったのだった。

 これが英和にとっても悩ましくも羨ましい所で、不器用で何時も真正面からしか事に当たる事が出来ない、なかなか変化球が投げられない自分の急所を衝かれたような気がしてならない。

 ただお節介ながらもこの母御の為人から康明の性格を類推した場合、年の功にも依るとはいえ人間が出来ている母御に対して、息子である康明にはまだ冗談を言って明るく振る舞う事だけに執着している感があり、三十代半ばになる今でもまだ成長し切っていない雰囲気はあった。

 それは別に上からものを見る訳でもなければ馬鹿にするつもりもなく、如何に経験値を積み上げても有事の際には逃げる癖がついているような節が感じられるのだった。

 それに引き換え母御はこの状況でも常に気丈に振る舞い、寧ろ見舞いに来た英和に安らぎを与えてくれるぐらいだ。

 でもその結果、英和は康明の事を訊きそびれてしまった。もしかすると母御は英和の気持ちすら見透かしていたのかもしれない。その可能性を感じた彼は、

「早く元気になって下さい、康明君も淋しがってますし、おばちゃんやったら直ぐ退院出来ますよ、では失礼します」

 そう言い置いて立ち去るのだった。

 

 

 

 

 

 

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汐の情景  二十七話 

 

 

 仕事を辞めてからというもの、英和は毎日を暇潰しのような感覚で過ごしていた。それはともすると人生自体が暇潰しに過ぎないといった余りにも虚しい、惰性的で悲観的な考え方をも生じさせる。

 それもその筈。仕事もせずギャンブルに明け暮れ、何の目的意識も持たない自堕落な日々を送る事は人間の精神を腐敗させるに十分で、意思も神経も何も通っていない、謂わば生ける屍同然なのである。

 たとえギャンブルで儲けた所でそんなものはあくまでも偶然性に依って齎された一時的な幸運に過ぎず、仮に一攫千金を成し得たとしても真に心が充たされる事もなければ倖せを手に掴んだ事にも成らないだろう。

 その辺の道理、理屈を理解しているからこそ苦しまなければならない英和でもあった。一概には言えないまでもギャンブルなどに身を窶す者の多くは金さえ手に出来ればそれだけで満足し、一抹の不安に焦点を置き真剣に将来を憂慮する者など僅かだとも思える。

 そういう者こそ羨ましいと思う英和ながらも決してそう成りたいとも思わない。ならばどう成りたいのか。それも分からない。生来怠け者でなければそこまで金が欲しい訳でもない。でも人間社会を嫌う気持ちだけは人一倍強い。自分でも手に負えないこの厄介な性格は如何ともし難い。

 全ては自己責任で自業自得なのだが、敢えて責任転嫁するならば全体主義に依る弊害のような気もしないではない。

 幼少の頃から学生時代、果ては社会人に至るまで。日本人というものは常に団体の中で飼育され、個性などは限られた僅かな者にしか認められない。協調性だけを重んじ、輪からはみ出す者を良しとはしない。結果その見せかけだけの輪の中に甘んじ、人の眼を気にし、右へ習え、長い物に巻かれろと言わんばかりに下らない空気を読む惰弱、脆弱な精神を有する者ばかりを作り上げてしまった。

 こういう硬い理論を展開する際に、戦後のやり方が悪かった、進むべき道を誤ったなどというもはや一般論にも思える発言をよく耳にする。

 確かにそこにも一理はあるだろう。だが本当にそれだけなのか。戦時中は言うに及ばず、戦前までも日本は大日本帝国憲法の下、教育勅語が表す愛国心は国民に強制的に植え付けられていたのである。

 つまりは大袈裟に言えば昔の日本にも個性は認められず、自由も無かった事になる。更に昔に遡って考察すると幕末の動乱期、明治維新などは素晴らしい日本の将来、夜明けを夢見る志士達が身命を賭して戦っていた筈。その将来が今なのかと思えば首を傾げたくなるし、その心は憂愁感で充たされてしまう。

 でも歴史が好きな英和は当然天皇制には大賛成で愛国心も十分備えていた。無論それは強制されての事ではなく、あくまでも本心だった。

 彼の歴史観というものは長いに越した事はないといった少々偏向的で観念的なものであったが、そこにも悪事や困難は長くは続かない、良いものでなければ長続きはしないといった思想に基づく一応の根拠はあった。

 だからこそ日本の天皇の血筋のように一度たりとも途絶えた事のない悠久の歴史、正に万世一系が表す長く美しい歴史が純粋に好きだったのである。

 それにしても日本人の我関せず、静観、傍観、対岸の火事を決め込み、上辺だけの人付き合いに興じる習性というものは戦後でもなければ戦前でもない、何時の時代から始まった事なのだろうか。元来そういう人種、民族性だったのだろうか。こればかりは流石に分からない。でも決してそうではない事を信じたい英和だった。

 梅雨が晴れかけたとはいえまだ湿気が残るじめじめとした気候を不快に感じながら、そんな堅苦しい見地に立って自分や康明の事、世相について考え続ける英和。

 徐に窓を開けると空には綺麗な虹がかかっていた。久しぶりに見られたこの虹はその気鬱さを多少なりとも緩和してくれる。孔雀が天翔けるような色鮮やかな虹の姿は自然の神秘とも言うべく可憐にも神々しいまでの輝きを放ち、実物とはいえ幻想性のある昂揚感を与えてくれる。

 大袈裟に解釈するのが好きだった英和は天からのサプライズだと、良い兆しだと受け取り、意気揚々とした面持ちで家を出る。すると都合よく康明から電話が掛かって来た。ちょうど出先であった為、二人は会う事にした。

 

 英和は虹を見上げならが通い慣れた道を歩いていた。平日の昼間に堂々と地元を歩くのも恥ずかしかったが、下手に意識し過ぎると逆に挙動不審に思われるであろう懸念が却って彼を毅然とした態度に導く。

 人通りの少ない道とはいえこの綺麗な虹を見上げている者といえば子供ぐらいなものだった。大人達はまるで感心がないといった風でただ気忙しく、それこそ対岸の火事を決め込むような素振りで、悪い表現だがロボットのように歩き続けている。

 他人に干渉する事を嫌う英和であっても、こうした情緒の欠片もないような現代人を見る時だけは露骨に悲哀な気持ちを表すのだった。

 そうこうしている内に約束の喫茶店に到着した。この店も何度も訪れていた店で、店主も常連客も顔見知りが多い。何故こんな店にしたのか自分でも理解出来なかった。だが愛想良く声を掛けてくれる店主の表情には他意は感じられない。

 まだ康明は来ていなかったみたいで取り合えず何時も通りの窓際の席に着く。そしてオーレを頼み煙草に火を付け窓外の景色をカッコをつけて眺めていた。

 なかなか康明が来ないので新聞や雑誌に目を通す。そこに書かれてある事も英和にとっては実に下らない下世話な記事ばかりだった。一般のニュースとコラム、それだけを読んで直ぐ様棚に返す。そしてもう一服煙草を吸い出した時、店の外で突っ立っている康明の姿を発見するのだった。

 何故彼は中に入って来ないのか。意味が分からない。康明は落ち着かない様子で辺りを警戒するように見ている。心配になった英和は外に出て、

「お前何しとんねん? 早よ入って来んかいや」

 と声掛けをした。それでも入って来ようとしない康明。もう一度同じ事を告げた英和に対し、康明は想定外の事を言い表すのだった。

「お前、ようあんな席に坐っとんな、隣見てみ、あのおっさん元ヤクザで結構質悪いおっさんやねん、絡まれるど、もう帰ろうや」

 この前康明の家に遊びに行った時から薄々とは感じていたが、これが真に彼から覚えた初めての違和感だったかもしれない。こんな経験は勿論初めてで、以前なら絶対に言わなかっただろう。その隣に居る者がヤクザだとしてどうだと言うのだ。自分達が十代、そして昔なら絡んで来た可能性も否定は出来ないだろう。でも今の時代にましていい年になった自分達にわざわざ絡んで来るとでも言うのか。それは考えられない。

 雑誌を取りに行く時、確かにその人の小指が短かった事は目に付いた。でも少々ガラの悪いこの街ではそんな人は何度も見て来ているし知り合いもいる。それなのに何故康明はそんな事を必要以上に警戒し畏怖するのだろうか。

 康明はそう言って呆気なく帰ってしまった。残された英和は元々お茶を飲むのが遅かった為、今一度席に戻り、ゆっくりとお茶を飲んでから店を出る。

 蟠りが消せない彼はそのあと康明の家を訪れた。彼は待ってましたと言わんばかりの表情で英和を出迎えてくれる。その愛想の良さを何故さっき見せてくれなかったのだと思いながらお邪魔をする英和。

 何時もいる母御が居なかった事は幸いだった。部屋へ通された英和は改めてさっきの事を問い質す。

「どういう事やねん?」

 康明は面倒くさそうに答え始めた。

「......、まだ言うとんかいや、もう終わった話なんやって」

 確かに終わった事ではあるが、ついさっきの話であってそれに触れる事がそんなに悪いとは到底思えない。英和はありのままに言葉を続ける。

「あのおっさんが何かして来るんかいや? そうなったらなったで何とでもやり様あるやろ、何をビビっとんねん、情けないの~」

「別にビビっとう訳ちゃうねん、昔から言うやろ、君子危うきに近寄らずって、俺はそれを実行しやだけなんやー言うねん」

 それを訊いた英和はまたも呆気に取られてしまった。返す言葉もなかったが、一応の事だけは口にする。

「お前な、ほんまに君子危うきに近寄らずという言葉の意味知っとんか?」

「読んで字の如くやろ、徳のある奴は危ない所には近づけへんねん」

 溜め息をついてから答え始める英和。

「やっぱりな、お前の知識なんかどうせその程度やでな、ええか、その言葉の真の意味は有徳者は行動を慎むとはいえ、あくまでも意図せずに危ない所に近付けへんという意味やねん、お前は意図して警戒しまくっとうだけやんがいや、履違えたらあかんでな」

 康明は依然として面倒くさそうな表情を泛べながら訊いていた。

「そんな難しい事は分からんわいや、俺にどうせえ言うねん!?」

「何を開き直っとんねん? 俺がただお前のその変容ぶりが気になっとうだけやねん、どうしたんや? 何かあったんか? あったんやったら何でも言うたらんかいや、長い付き合いやんけ」

 康明はそれ以上何も口にしなかった。その表情は俄かに真剣な面持ちへと変化し、ひ弱ながらも精一杯の屈強なバリアを象っていた。そのバリアの中に入る事さえ憚られる英和は無言の裡に康明の目を見つめ、その胸底深くに隠された真意を読み解くべく尽力する。

 でもその答えは全く出て来ない。バリアは康明の精神や性質、習慣的な意思や新たに加わった今の心情等と相重なり、渾然一体となった禍々しいオーラへと瞬時に成長してしまった。

 これ以上は何をしても無駄だと判断した英和は優しい笑みを浮かべながら、

「ところでおばちゃんどないした?」

 とだけ質問をする。

「今入院しとうねん、何年も入退院繰り返しとうからな」

 康明はバリアを張ったままそれだけを答えた。

 早々に帰途に就いた英和はまた項垂れた様子で康明の心を順序だてて整理しながら歩き続ける。

 結局彼とは虹の事につても話が出来なかった。もし言っていたとしても今の康明なら何も感じていなかったに違いない。そう判断した英和はまた空を見上げる。

 でも虹はもう消えていたのだった。

 

 

 

 

 

 

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ボートレースに見るスポーツ美学  ~人生観

 

 

           奔流に  抗う姿  美しく(含笑)

 

 

 美に耽ると書いて耽美。自分の事を棚に上げて言うのも烏滸がましいのですが、ギャンブルの対象であるボートレースにまで美を追求してしまうのは不遜でしょうか。

 所詮はギャンブル。そこに身を窶す者としては儲かれば良いだけの話のようにも思えますが、果たしてその限りでしょうか。自分にはそうは思えません。 

 何故か。たかがギャンブルされどギャンブルで舟券の買い方は無論の事、走っている選手達も当然プロのレーサーです。つまりはレース、競技な訳です。とするならば他のスポーツ同様、美的感覚を以て希(のぞ)まなければならないという論理も一応は成り立つと思います 😒

 ま、今日は柔らかい話なので、冗談半分と思って気楽にお読み頂きたく候^^

 

モンキータンーン

 まずはこれですね。今やボートレースでは当たり前にもなったこのモンキーターン。舟の上に立ってターンする事に依って膝への負担が軽減され尚高速で旋回出来るターンテクニックの一つなのですが、このターンの生みの親は飯田加一さんという既に引退し他界された、往年の名ボートレーサーなのです。

 ただこのモンキーターンにも勿論ピンキリがあって、そのレベルには天地の差があります。そして当たり前ともなった今の時代でもまだ坐ったまま膝をついてターンをする通常ターン(地蔵ターン)を決め込んでいる選手もそこそこいます。

 まぁ~これも人の勝手と言えばそれまでなのですが、今時こんなターンをしていれば他艇と競っている場合はまず負けます。特に重賞戦ともなれば尚更で、レースについて行けません 😞

 モンキーターンが出来ないのか敢えてしないだけなのかまでは分かりませんが、自分としてははっきり言ってヤル気が感じられませんし、頭に来るぐらいですね。

 そんな事でプロの選手と言えるのかと。ならば強い選手だけが出場している重賞だけを買っていろと言われれば返す言葉はありません 😔

 要するに巧い、強い芸術的なモンキーターンをしている選手は凄いという、それだけの話ですね^^

 

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 流石は艇界No.1の峰選手。惚れ惚れしますね^^ 

 

スコーピオンターン

 何と左足を宙に浮かせて旋回するターンテクニックです 😮 モンキーターンとのレベルの差、実用性の有無までは分かりませんが、このスコーピオンターンなる技もなかなかのものです。

 自分も最近まで知らなかったのですが、これをする事に依って更に膝への負担が軽減されるみたいです。モンキーターンとの連携プレイで真価が発揮されるみたいですね。

 

www.youtube.com

 

 正に妙技、絶技。素晴らしいです^^

 

競り合い

 ターンでも直線でも他艇と競っている時の駆け引きですね。こうなると何れかが勝ち、何れかが負ける訳ですが、それが果たして技量やモーターの差、或いは風向き、風量だけに依るものかという話ですね。

 下手で弱い選手は気も弱い。という風に全ては比例するのかもしれません。ですがいくら強い選手でも時としては格下の選手に負ける事も結構あります。

 そこで問題になって来るのが単に強さ、巧さを競いあっているのではなく、外からでは分からない目には見えない駆け引きがあるのでは? という話なのです。

 つまりは無気力レースや馴れ合い譲り合いの忖度レース、更には八百長の疑いがあるという話ですね 😒

 実際八百長もあった訳ですが当然ながら皆がしている訳ではありませんし、そう信じたい所です。でも多くのレースを張っていれば疑わしいレースはいくらでもあります。それを十把一絡げに八百長と決め込む訳でもありません。ただそう思わせている時点で何かがある可能性は否定出来ないのです。こればかりはどういう観点から見ても美しくはありません 😓

 そしていくら弱くて下手な選手とはいえ明らかに安全運転に徹し、是が非でも突っ込んで行かないというその精神構造にも憤りを覚えます。それでプロと呼べるのかと。

 要するに自分としては無理と分かっていても突っ込んで行くぐらいの心意気を見せて欲しい訳です。そうしてくれればたとえ負けてもその気概に称賛を贈りますし、自分の勝ち負けなどもはっきり言ってどうでも良いという気持ちになるのです。

 何をするにも志、心意気、心根が大事という話ですね。これは自分自身への言い聞かせでもあります^^

 

誠意 

 非常に少ない数で稀にしかありませんが、不甲斐ないレースをした場合にインタビューなどで律儀にも謝罪をする選手もいます。

 これは舟券を外した悔恨、無念を和らげてくれるばかりか、その選手の誠実さ、人間性が胸に響き感動させてくれます 😃

 ネットなどではわざとらしいとか言っている人もいますが、自分はそうは思いません。詫びを入れるという事はそう簡単に出来るものではありません。まして自らが進んでそうしている訳ですから、不祥事を起こして否応なしに、形式的に謝罪をしている企業のトップ連中とは訳が違うと思います。

 この潔さにも美を感じますね^^

 

自分の悪習

 選手サイドの事ばかり言って来ましたが、自分の事も省みる必要はあります。

 負けた時にアホの一つ覚えで文句を口にする。自分は部屋で独り言のように吼えている時もあります。

 でもこれもただ負けた事について憤っている訳ではなく、前述したようなカッコ悪いレースをした選手について、その走り方、気概についての憤りなのです。こんな事を言えばそれこそカッコつけるなと言う人もいるでしょう。でも本心です。

 パチンコでも公営ギャンブルでも負けて頭に来た事は殆どありません。それを言ってしまえば初めから博打などするなという当然の理論が成り立ちますし、自分としても虚しいだけです。

 ですからとにかく下手打った選手に対しての怒りは半端なく込み上げてしまいます。これはボートは一番露骨だと思いますね 😤 他の、例えば競馬などは外れても全くムカつきませんし、惜しかったな、しゃーないなで済んでしまうのです。でもボートに限ってはそうは行きません。

 ならば尚更ボートを辞めた方が良い訳なのですが、それも難しいですね 😢 この不平不満を口にする悪習も改善して行かなければなりません。

 脚下照顧。要するに自戒ですね。自分を律しない事には何も始まりません。文句ばかり言っていないで、前向きに生きて行かなければいけませんよね^^

 

 という事で(どういう事やねん!?)下らない事ばかり縷々綴って来ましたが、ボートレースも一スポーツとして見た場合、たとえ無様に見えるレース内容でもそれも一興これも一興でそこに咲かせる花もあるように思えます。

 その花も何れは萎んで枯れ行く宿命(さだめ)にあっても、見方次第では美しく映るという話ですね ✨ それは正に人生そのものだとも思います。

 では皆様ごきげんよう 😉

 

 

 

 

 

 

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汐の情景  二十六話

 

 

 陰と陽。速さ遅さ。強さ弱さ、脆さ。これら世に現存する様々な対照は相反性だけを表すものではなく、それ自体が二極一対、表裏一体で、どちらか片方だけでは成り立たない、片方だけが存在する事は不可能だろう。

 だが普通の人間なら良い方だけを選び、悪い方にはなるべく目を向けようとしない。つまりこの時点でその者の弱さが表れている事は明白で、如何に人間の情が働いているとはいえ、その内なる弱さに意識的に目を向けない事には真の意味での進化は遂げられないとも思える。

 言うは易し行うは難しでそう簡単に出来る事でもない。そこにこそ人の世の苦行とも言える幾多の障壁、困難があり、希もうが希むまいが次々に立ちはだかるバラエティーに富んだ試練という名のアトラクションを一つ一つ熟して行く事も容易ではない。でもいざ乗り込んでしまってからでは時既に遅し、降りる事も不可能であれば無理に降りた所で待ち受けるものは死に相違ない。

 悲観的に見れば何とも厳しく厄介な人生であろう。しかし楽観的に見れば実に面白くも思える。そういう意味では英和が打ち興じていたギャンブルも所詮はアトラクションの一つに過ぎず、悪く取れば無駄な演出であり、良く取れば自らが金を出してまで不幸な憂き目を見る、残虐な快楽を味わっている事になるだろう。

 それに引き換え康明や義久などはその楽観的な性格が功を奏し、三十を超えてもそこまでの苦労を経験していなかったようにも見える。そう高を括る英和は康明との連絡の中でも以前と変わりなく普段通りに接していたのだが、ここに来て些細な疑念を抱くのだった。声は変わらずともその言動自体が不可解極まりない、以前のようなユーモアが全く感じられない、何処か焦っているように見える。

 繊細な英和だからこそ感じ得る康明の変容。それを確かめるべく彼は久しぶりに康明に会う事にしたのだった。

 仕事が終わる頃を見計らってまた夕方に康明の家を訪れる英和。呼び鈴を鳴らすと母御さんが出て来て、

「いらっしゃい、久しぶりやん」

 と愛想の良い声を掛けてくれ、部屋へと誘ってくれる。

 康明はまだ帰っていなかった。もう直ぐにでも帰るという母御さんの言に従い、英和は出いて頂いたお茶を飲み、世間話などをしながら時間を潰していた。

 そして康明が帰って来た。彼は足早に部屋へ上がり鞄を投げ捨ててから、

「もう辞めや」

 などと明るい表情で呟くのだった。思わず笑ってしまった英和は康明の笑いのセンスに改めて敬意を表していた。

 だが母御は全く表情を変える事なく、寧ろ怪訝そうな顔つきで息子を見つめている。高齢であった康明に親御さんは年を取るに連れて益々渋い表情になり、女性ながらも鋭い眼力で息子を睨みつける洞察力は女性ならではの優れた力に依ってその才能を露わにし、周りを畏怖させるような威厳さえ漂わせていた。

 そんな母御を差し置いて更に言葉を続ける康明。

「あ、しもたっ! 煙草買うて来るん忘れたわ、ちょっと行って来るわ」

 そう言ってまた出て行こうとする息子を母御は真剣な眼差しで叱りつける。

「ちょっと待ちんかい、何処行くねん、煙草ないんやったら何でさっき帰って来る途中で買うてけーへんねん! こんな時間に外出て行ってええと思とんか!?」

 英和はここでまた笑ってしまった。流石は親子、そのセンスは甲乙つけがたい。それも芝居ではなく、こんなシリアスな感じでやってのけるとは、お手あげです。

 こんな感じで独り笑う英和にも母御の厳しい眼差しが向けられた。何自分にまでそんな目をするのだ。何か悪い事でもしたのか。その疑いは康明親子の只事ならぬ雰囲気で更に高まり具現化され、自分自身にも跳ね返って来る。

 まさか本当に煙草を買いに外へ出てはいけないのか、母御は真に怒っているのか。だとすれば何故。確かに陽も暮れ外は暗くなっている。でも子供ならいざ知らず大の大人が陽が暮れたからといって外に出てはいけないという道理があるだろうか。今の時代幼子ですら外で遊び回っているではないか。深夜ならまだしも午後7時半というこんな時刻に。

「分かったからそんなに怒るなって! しゃーない、英、煙草貸しとってくれや」 

「あ、ああぁ.......。」

 英和は躊躇いながらも自分の煙草を差し出し、今起きている事を整理していた。これは母御が過保護過ぎるのか、それとも敢えてそんな生活習慣でも取っているのか。

 何れにしてもおかしい。不自然極まりない。母御の想いは想いとしても、それに何ら抗う事なく追従する康明も康明だ。口悪く言えば三十代にもなる者には相応しからぬ所業で、気持ち悪いぐらいだ。

 英和は言いたかった。

「お母さんそれはおかしいですよ、自分らもう35ですよ」

 でも結局は言えずにその言葉を腹の中で必死に抑えていた。もしこれが本当に過保護的な意味合いを含んでいるのなら一大事とも思える。

 それでも口に出す事を憚られた英和の心にあったのは、他所の家庭の事を干渉するのは厭らしいという常識よりも、この光景自体に戦慄し、恐怖する素直な感情だった。

 

 康明との会話もそこそこに家に帰って来た英和は、この事件とも言える出来事が忘れられず母としての意見を訊きたく、己が母にその内容を伝えるのだった。

 知らせても母は大して愕きもせず、何時も通りに悠然と構えていた。

「ま、あっこは親御さんが高齢やから息子が可愛くてしゃん-ないんやろ、そんな事よりもあんたはどうなん? 仕事見つけたんか? 何時まで遊び回っとうつもりやねん? 人の事言われへんで」

 これを言われれば英和としても一言も無かった。何時まで独り身でいるつもりなのかと訊かれなかっただけでも幸いだった。

 三十代半ばになっても独身。これは確かに情けない話だ。今の時代そんな人も結構居るという現実は慰めにならなければ興味もない、あくまでも自分の話なのだ。そして結婚願望があるのかと訊かれれば有るとも無いとも答えられない。彼になるのはとにかく自分なのであった。

 それは他者に感心がない事は言うに及ばず、自我に執着し過ぎるが故の無様な本心でもあった。とはいえ他者を思いやる心は必要不可欠で傍観する事など許されない、無論女性が嫌いな訳でもない。要は自分が何者であるかをきっちりと見極めてから先に進みたいというだけの話でもあった。

 それを夫婦となって手に手を取って生きて行く上で見出して行こうとは思わないし思えない。何故なら直子との恋路がそれを証明しているからだった。言うなれば完璧主義なのかもしれない。異性は勿論同性にも隙を見せたくなかったのである。その想いが強過ぎたからこそ直子と別れる事になってしまった可能性もあるだろう。

 凡人などにそれを成し遂げる事が出来るとも思えない。全て理解していても身体が思うように動かない。という事はこの見すぼらしい現状を踏まえた上でも、無意識裡に発展を遂げていた習慣的意識が内なる精神を凌駕してしまっていたという或る種の精神的法則性も浮かび上がっては来る。

 その結果、一般論を含めた思想に対する自己欺瞞が成立してしまう訳だが、では逆に形成されてしまった精神を覆す術などあるのだろうか。そんな方法があるのならそれこそ大金を叩いてでも手に入れたいものである。

 話の最中にまた自分の世界に埋没していたであろう息子を案じる母はこう言う。

「何にしても身体を動かす事や、仕事もせんとじっと考えとうからそんな訳の分からん思想が芽生えて来るねん、水泳でもしたらええねん、完全に運動不足やろ」

 次々に図星を突いて来る母だった。敢えて言い返さなかった英和であれど、一応の対戦は試みていた。確かに母の言うようにじっとしていれば要らぬ思慮を巡らす事にはなるだろう。それが災いして病に冒される可能性すらある。でもいくら仕事やスポーツ、趣味に打ち込んでもその根柢に根差す固い岩盤のような悩みを溶かす事など出来ようか。もし出来たとしてもそれは一時的にそこから回避しただけに過ぎず、謂わば誤魔化しているだけではなかろうか。

 真の解決法とはその固い岩盤を打ち砕き、その身を清める事にこそあるのではなかろうか。つまりは元凶を断つ。元を正さずして報われる進化などありえない。そう確信する英和だった。

 ただ一つ問題なのはその元を正すという作業が如何に至難の業であるかという事であった。強者ならまだしも彼のような見せかけだけとはいえ繊細で、惰弱な人物にそんな大業が成せるとは到底思えない。そこに立ち向かう事さえ儘ならないだろう。

 とはいえ天には天の、地には地の悩みがありいくら身分のある権力のある強者でも全ての悩みを払拭する事など出来る道理もない。

 それでも行く道は行くしかないのが人間社会であり、万物の逃れ得ぬ性でもある。

 吉凶は人に依りて日に依らず。人に旦夕の禍福あり、天に不測の風雲ありとか。

 今日一日で彼が経験した事も所詮は成るべくして成った。来るべくして来た、味わった事柄なのだろうか。だとすれば運命的な試練にも思えて来る。

 何れにしても怪しげな雲行きを感じる英和はその因果を断ち切る事が出来るのだろうか。亦そうしたいと願っているのだろうか。

 今宵の満月は地上を埋め尽くさんばかりの美しい輝きを放ちながら、清楚にも妖艶に佇んでいたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

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汐の情景  二十五話

 

 

 まだ時間に余裕があった英和は帰る途中にそのまま村上と会う事にした。仕事の影響があるとはいえ、人と会う時は何時も夕暮れ時になる事を宿命と感じながら。

  艶やかな髪を風に靡かせながら相変わらずの清々しい顔をして現れた村上の様子に不審な点はなかったが、微笑を浮かべながらも少し神妙な面持ちで相対する英和。

 立ち話もなんだからという事で二人は取り合えず喫茶店に入る事にした。

 窓際じゃないと落ち着かない英和も相変わらずだった。窓外から差し込む眩しい夕日は二人の顔を必要以上にライトアップし、その繊細な表情の変化までは見抜けない。でもそれが却って気を遣わせない材料になっていたのも事実で、気兼ねなく膝を交えて話を始める二人だった。

「久しぶりやんけ、頑張っとうか?」

 村上は何時もながらの冷静沈着な様子で答える。

「はい、お陰様で何とか頑張れていてます、英和さんの方はどうですか?」

 英和はなるべく卑屈になるまいと勤めていたが、馬鹿正直な性格は自ずとその表情を曇らせる。

「ま、ぼちぼちな、で、今日はどうしたん? 何かあったんか?」

 村上は星屑を鏤めたような輝かしい目つきで英和の顔を見つめていた。彼にはその可愛らしい顔つきに似合わず何処か人の感情を見透かす鋭い洞察力が備わっていたように感じられる。だからこそ初対面の時から一目置いていた英和でもあったが、こうしてサシで話をしているとその能力が如何にも本物らしく思われ、何か形容し難い怖さ漂わせていた。

 少し間を置いて話し始める村上は、柔らかい口調にもいきなり核心を突いて来る。

「ボート負けたんですか?」

 この問いには少なからず動揺する英和だった。確かにその通りなのだが、何故彼はこんな事を口にするのだ。俺を揶揄ってるのか。神経質な英和は一々裏を読まねば気が済まない質で、徐々に険しい表情になって来る自分に気付いていた。

「......、何でそんな事訊くん? その通りやけどな」

「そう怒らないで下さいよ、英和さんが博打好きなのは会社の人に訊いたんですよ、別に悪気はありませんから、気に障ったら謝ります、すいませんでした」

 この言い方自体が癇に障る。それなら初めから言わなければいいではないか。それをわざわざ口に出して、そのうえ予め用意していたように詫びを入れる。村上という男はそんな男だったのか、そんなに器用で狡猾な人物だったのか。

 ちょっとやそっと話しただけでそう決め込んでしまう英和にも人間的な欠陥はあろう。でも不器用な彼はたとえその性格が災いし、自分が不利になる事を怖れてはいなかった。

「ま~ええやん、で、要件は何やねん?」

 つい口調が荒くなってしまった英和を少し上から目線で眺める村上はこう言う。

「じゃあはっきり言います、戻って来て貰えませんか? もう冴木さんは何も思っていないようですし、やっぱり英和さんがいない事には面白くないんですよ」

「おもんないとはどういう意味やねん?」

「だから深く考えないで下さいよ、ただ戻って来て欲しいだけなんですよ、親方もそう思ってる筈です、頼みますよ」

 だから。この一言に憤りを隠せなかった英和はとうとう怒りをぶちまけてしまう。

「お前、変わったな、最初に見た時はそんな感じには見えんかったけどな、俺の勘違いか? 久しぶりに会うたらえらい大そうな口利くようになったやんけ、この前辞めたばっかりやのにそう簡単に戻れる訳ないやろ、あんまり調子乗んなよ、な!」

 それでも村上は躊躇う事なく言葉を続ける。

「分かりました、本当にすいませんでした、言い過ぎました、ならうちの組に来ないですか? 親父も歓迎してくれます」

 英和は少し戸惑った。

「何や組て? 親っさんヤクザかいや?」

「そうです、小さい組ですけど一応シノギはあるみたいです」

「ほう、そうやったんか、道理でお前にも箔が付いとう筈やでな普通の人間とはちゃう思とったわ、でも断るわ、せっかくやけど、悪いな」

 そう言ってなけなしの有り金を叩いて二人分の料金を払い、店を出る英和。

 断った理由は実に単純明快だった。多少なりともヤクザに感心があった彼だが、どう見ても自分はヤクザの器ではない。少々短気であっても己が身分だけは弁えている。分不相応な事だけはしたくない。

 それだけを胸に今日まで生きて来た彼は、どんな時代になろうともその信念だけは曲げるつもりは無かった。それは調子に乗る事を嫌うのは言うに及ばず、それ以前に感覚的にその根柢に根差していた頑なな信条。それを覆す事は自分でも出来ないし、するつもりもない。そして人に勧められて何かをするのも嫌だった。あくまでも己が意思に依って道を歩みたい。仮にどれだけ険しい道でも、他者に案じられようとも行く道は行くし、行かざる道は推されても行かない。ただそれだけなのだ。

 でもその単純な事も現代社会、というよりは人間社会で遂行しようとすればかなりの反感を生み、数多くの障壁に阻害されるに相違ない。でもそれこそカッコをつける訳ではなく、たとえ自分のような名も無い者であっても退く訳にはいかない。

 このような拘りを担保しているものとは何だろうか。孤独を厭わない強靭な精神力か、それとも死を覚悟するが故の投げやりな性格か。

 決してメンタルが強くもなかった彼にあったのは恐らく後者だろう。今の時代に死を覚悟するなどと言えば忽ちにして毛嫌いされるに違いない。それをも跳ね返すだけの精神力が彼に備わっているとは思えない。

 未だ沈まぬ日。自分の蟠りを持ち去って早く沈んでくれと言わんばかりに、そんな光景に苛立ちを覚えながら独り帰って行く英和だった。

 

 質は違えど或る意味では同じような惨めな人生を送っていた康明。彼もまた世間と、自分自身と闘いながら晴れぬ悩みを抱き、出口のない迷路を彷徨っていたのだった。

 彼には英和と同等に親しくしていた荒木茂邦という友人がいた。この茂邦も英和や義久同様小学生からの仲でそこそこの友好関係を築いてはいたものの、余程馬が合ったのか最近では専ら康明とばかり付き合いをしていた。

 父親は他界してからというもの定職に就かず、ふらふらとあちこちでバイトをしていた康明はこの日家に帰ってから茂邦と語らっていた。

 茂邦は言い方は悪い痩せ型のひ弱そうな男で、滅多な事では人の悪口など口にしないどちらかいうと人から好かれるタイプの人物だった。

「バイト頑張っとん?」

 訊かれた康明も優しく答える。

「ま~な、給料はめちゃくちゃ安いけどな、ま、そのうちビッグになるやろ」

 三十代半ばにまでなってまだこんな余裕をかます事が出来るのも彼が元々根明だった証なのだろうか。愛想笑いをする茂邦は深くは詮索せず、世間話に移行する。

「最近おもろいテレビ番組あんの? 誰が流行っとん?」

「欽ちゃんやろ」

「何時の話やねん? 誰かおらんのかいな?」

「じゃあ俺らでコンビ組むか? 行けるんちゃうか~」

 彼等は何時も何時もこんな調子で他愛もない話に打ち興じ、互いのろうを労っていた。でも英和のような者から見ればこれが鬱陶しくて仕方なかった。何の軋轢もない、何の問題も、何の蟠りも。それは即ち面白みに欠けるという事で、自分の想いを人に強要するつもりはないまでも、大袈裟に言えば虫唾が走るほどだった。

 でも言うなれば馴れ合い仲良し倶楽部とも言える二人の仲は意外と長続きしており、結構な固い絆で結ばれてもいた。それはそれで結構な話なのだが、ここに英和が居れば直ぐにでも帰っていたであろう。それを知る二人は敢えて英和の話題に花を咲かす。

「ところで英和はどないしとん? 大工しとったんかな?」

 康明はありのままを教える。

「この前辞めたらしいわ、何があったんかは知らんけど、どうせまた下らん拘りから辞めてもたんやろ、あいつらしいけど勿体ない話やでな、アホや」

 茂邦は笑いながら続ける。

「そこまで言うたんなよ、あいつにもあいつの考え方があるんやろ、手に職があんねんから心配はいらんやろうけど」

 康明は少々真剣な眼差しになり、ムキになって答える。

「いや、なんぼ技術があっても無理やろ、あいつはええ奴やけど今の時代、いや、人間に向いてないんちゃうか」

「何やねん、えらい言うな、確かにあいつには何か言い知れん変な怖さがあるわな、俺も嫌いではないけど好きでもないみたいな感じかな」

「そやろ、あいつは人が好過ぎるねん、俺は好きやけど、そのうち訣別する可能性もあるわ」

 彼等がこんな話をし始めたのも30を超えたぐらいからであった。二十代や十代の頃には思ってはいても、実際に口に出す事はあってもここまで真剣に考えるには至らないとも思える。それが年を重ねるに連れて深く追求してしまうのも人間の性なのだろうか。この辺りから芽生え始める人間関係の深みとは一体何を示唆し、何を求めんとするのだろうか。

 神経質な英和であってもこんな面倒くさい人間社会は嫌いで仕方なかった。それは自分の陰口を叩かれている事に対してではなく、自然とそういう事を口にする、考えてしまう人間そのものに備わった感覚的な意思、意識であり、それを煩わしいと判断してしまう己が器量にこそあった。

 だがこればかりは誰がどんなに頑張り尽力した所で変えようのない事柄で、たとえ神仏でさえもどうする事も出来ないだろう。

 つまりは煩悩。喜怒哀楽全てが煩悩なのである。それを消し去るには完全なる解脱を果たすしか道はない。その解脱とは生きたままに果たせるものなのか。死なない事には到達する事が出来ないのではあるまいか。

 無意識的な意識。それは何なのか。地球は意思に依って自転しているのだろうか。風は涼やかに頬を刺し、身体を媒介して精神に浸透し、無意識に吹き抜けて行く。水は清らかな流れを絶やさず決して逆流する事なく常に下方に進み行く。空気の流れ、太陽、月や潮の満ち欠け全て然り、人間もまた然り。

 これら全ては自然の理に依って絶えず流動しているのだろうか。だとすれば何を迷い、何を悩むというのか。

 部屋での長話を終えた康明と茂邦の二人は互いに、

「じゃーな、また」

 という当たり前の声掛けを優しい表情で交わし、別れるのだった。 

 

 

 

 

 

 

 

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汐の情景  二十四話

 

 

 一行は後味の悪い思いで店を出て、親方の指示で一度事務所に戻った。閑散とした夜半の誰もいない事務所には仕事に使われる資材や道具などが淋しく横たわっていた。

 静寂に立ち尽くす一同に対し、親方は満を持して辛辣な表情で問い質す。

「お前ら、何時もこんな感じなんか? 俺の知らん所でクソ下らん人間関係でも構築しとんかいやオラ!? おー! どないやねん!?」

 誰も答ようとしない中で、既に腹を括っていた英和だけが泰然たる態度で口を開く。

「親方、皆さん、本当にすいませんでした、この通りです、自分が辞めます、これでケジメをさせて下さい」

 親方は溜め息をついて英和の顔をじっと見つめていた。どう見ても本心に違いないと悟った彼は続けて息子である冴木裕司の表情を窺う。裕司は俯いたまま顔を上げようとはしなかった。無言の裡に双方の腹の内を斟酌する彼は改めて英和と相対する。

「何でお前が辞めんとあかんねん? 今回の事は裕司が悪いだけや、そやろ裕司?」

「.......」

 裕司は何も言い返せなかった。

「な、見てみーや、こうつは何時もそうや、自分に疚しい事があったら直ぐ黙り込むねん、せこいやっちゃで、みんなもこいつに要らん気遣っとんやろ、情けない話やで、そやからお前が辞める必要なんか何処にもないねん、分かったな」

 親方の言に恣意的な思惑が感じられなかった英和は一礼してから答える。

「有り難う御座います、自分みたいな者に勿体ないお言葉です、でもそれだけで十分です、先輩に山返した事には違いありませんから、もう決心した事なんです、本当にすいませんでした、御世話になりました、有り難う御座いました」

 深々と頭を下げて立ち去ろうとした時、新入りの村上健司が英和を引き留める。

「ちょっと待って下さいよ! こんな辞め方おかしいですよ、自分の事なんかで短気を起こさないで下さい、カッコつけ過ぎですよ、英和さんが辞めたら自分もこのままではいられませんよ、勝手に辞めないで下さいよ」

 新入りとは思えない悠然たる態度で発言を試みた彼に一瞬動じた英和は、気障ったらしい返事で返す。

「......、別にお前の為だけでもないしな、せっかくの歓迎会やったのに悪かったな、ま、頑張ってくれや、じゃーな」

 振り返った英和はそれだけを言い置いて姿を消してしまった。

 親方は裕司を思い切りぶん殴った。

「どうせお前酷い事ばっかりして来たんやろ、前にもそんな事あったでな、はっきり言うてお前よりあいつにおって欲しかったわ、ダボタレな」

 一同の酔いなどはとっくに覚めていた。この期に及んでも裕司や年配の職人達は何も言おうとしない。その姿を見て更に落胆する親方。

 それにしても英和は何故こんな衝動に出てしまったのだろうか。前々から決めていたのだろうか。如何にも狷介な彼がしそうな事でもあるが今回に限っては優柔不断な所は全く見られな。もし決めていたのなら不義理を働いた事になり、親不孝に当たるとも思える。それにこんな辞め方をしていれば社会人失格の烙印も押されかねない。

 村上が言ったようにただカッコをつけただけなのだろうか。それだけではないような気もする。だとすれば自分に科した訓戒、それを自らが破った事に対する罰を受けたつもりなのかもしれない。つまりは贖罪を果たしたという事か。

 これこそカッコをつけた、少々飛躍した、世間の一般常識から乖離した話と受け取られる可能性はあるだろう。でもそれは単に冴木に、人様に手を上げてしまった、非人道的な衝動に出てしてしまったという事に対するケジメだけではなく、決心していたとはいえその抱懐はそれ自体が元々不本意な事であり、自己欺瞞を働いた反動でなけなしの矜持を自分自身で害してしまった事に対するケジメであった可能性はある。

 要するに潔癖であった彼は何時も自分との闘いに没頭していた訳だが、器用な者ならいざ知らず、彼のような不器用極まりない人物に最良の手段があるとすればそれは何なのか。もっともっと人に揉まれて社会経験を積み、莫迦になって行く事か。或いは狡賢く立ち回り人を蹴落とす術を磨いて行く事か。将又感情自体を捨て去る事か。

 どれも気が進まないだろう。ただ人間社会に辟易していた、いや元々人嫌いであった彼なら最後の感情を捨てる事を選ぶ可能性は十分考えられる。でもそれをしてしまえばそれこそ彼が忌み嫌う、意思も神経を通っていないと見下さずにはいられない現代人と同じになってしまう。

 意識が高いのではなく純粋で潔癖で、寧ろ脆弱な精神だからこそ義務付けられてしまう自省と当為。他者を気遣い過ぎるが故に空回りしてしまう半端な優しさ。遠回りを選ばざるを得ない人生観。

 偶然必然を問わず感覚的意識に依って強いられてしまったその人生の道をどう歩み、どう切り開いて行こうというのか。苦行と言うには大仰ながらも、人生を楽に歩むつもりもなかった英和であった。

 

 これで晴れて義久と同じ無職になった英和は取り急いで就活に励むような真似はせず、余裕をかます訳でもないが敢えて自堕落な日々を送っていた。

 仕事をしていない彼にとって毎日の生活に張りを持たす方法といえば自然とギャンブルが浮かび上がって来る。不甲斐ない話ながらもこればかりは自分でもどうしようもない性が災いしてしまうのだった。

 パチンコに公営ギャンブルに麻雀など、その悉くを経験していた彼は日頃の憂さを晴らすべく、現実逃避でもするかのようにしてギャンブルに打ち興じる。

 その中でも今専ら嵌っていたのはボートレース(競艇)で、毎日のように現場(競艇場)や場外舟券売り場に姿を現す英和。

 彼はボートに惹かれるのにも一応の理由はあった。その最たるはやはり6艇しかいないボートは当て易いという事に尽きるだろう。そしてパチンコのような客側が完全な受け身であるギャンブルと違って予想が立てられるという強みもある。

 何れにしてもギャンブル自体が愚かしいものである事は重々承知していたのだが、パチンコ店の中で踊らされているだけの客を滑稽極まりないと思ってしまう彼なりの見解が感覚的にそれを嫌い、多少なりとも能動的に感じられる公営ギャンブルはそんな彼にとっても格好の遊戯となっていたのだった。

 だがボートレースというものは競馬などと違い全国に24場もあり、年中無休で毎日開催されている。その為青天井でいくらでも負けられるという非情な法則も成り立つ。

 だからこそネット投票などで舟券を購入していれば忽ちにして破産してしまうといった、ネット社会の歪みとも言うべく因果な運命が待ち受けている訳だが、それを踏まえた上でも敢えて身を窶すギャンブラーの精神構造というものはやはり麻薬に冒され理性を失った者の憐れむに足る、稚拙にも健気な忘我の態を表しているようにも見える。

 それに当たり易いといっても6艇しかいない為、配当も安いといった表裏一体の法則性もあり、或る程度重ねて勝負に行かない事には大して儲からないという欠点もある。

 確かにどんな事柄にも一長一短、痛し痒しなオチがある訳で、楽な、有利な道などは無いに等しいだろう。百歩譲って大儲け出来たとしてもそれだけで成功者などとは間違えても呼べないだろうし、困窮しているからといって人生の負け組と決まった訳でもない。要は自分の気持ち次第でどうにでもなる世の中であり、人生であるとも思える。

 言うなれば金というものは有るに越した事はない、無ければ困るというだけの謂わば一つの事物に過ぎない現実の中にある幻のようなもので、大金を手にした所で真に心が充たされる事はないとも思える。

 では何故ギャンブルをしてまで金儲けをしようとするのか。その理由にも各々、個人差があろうとも少なくとも英和のような風変わりな人物には精神的な刺激を求めていたような節はあった。その刺激に依って生じる昂揚感や陶酔感、優越感。それが病み付きになり無意識に自我に纏わり付き忘れる事が出来ないのだろう。

 その鎖のように幾重にも屈強に連結された感覚を捨て去る事こそ至難の業で、刺激に溺れる英和はそんな禍々しい幻覚の中で彷徨い続けるのだった。

 朝から昼間にかけてのいわゆる前半のレースには大した選手は出ていない。こんな所で金を捨てる事ほど愚かしい行為もなく、彼は当たり前のように後半のレースに挑む。

 ボートレースはイン(1号艇や1コース)が有利で勝率は場所にも依るが、優に40%を超えている。だからインに強そうな選手がいれば、その選手を軸にして少ない通りで予想が組み立てられるという塩梅になる。

 最初に買ったレースは或る競艇場の後半10レースで、結構名の通ったA級レーサーがインにいるレースだった。

 買い方までシンプルにしないと気が済まない英和はそのインの頭から3着にちょっと弱い6号艇の選手を入れて2着を流す、ネット用語にもなっている1-9(流し)-6という買い方をした。

 まずインは逃げるだろう。問題は6なのだが、たとえ展開が向かなくても3着ぐらいには入って来れる筈。そう睨んでいた彼はその舟券をポケットに蔵(しま)いこみ、レースが始まるまでの僅かな時間に窓に近付き、外の景色を悠然と眺めていた。

 これも彼なりの拘りみたいなもので、レースが映されるモニター近くにいち早く立ち並ぶ者達を内心では揶揄していたのである。これぐらいの余裕がなければ勝負になど勝てる道理がない。一見尤もらしい考え方のようにも思われるが裏を返せばただ落ち着きたい、カッコをつけているだけといった風に見えなくもない。

 やがて発走の時刻が来る。発走のファンファーレが鳴ってもまだ動かない。そこから1分ほどが経ってようやく動き始める英和。これもスタートするまでの下らない進入作戦などを一々見たくないといった拘りからだった。

 そしてスタートが切られる。取り合えずは同体のスタートだった。これならインの逃げ切りは待間違いないだろう。そんな確信のもとに冷静ながらも真剣な眼差しでレース実況を見ていた彼はその自信を一瞬にして打ち砕かれるのだった。 

 インの選手がスタートを切って直ぐの1Mのターンマーク付近でいきなり転覆してしまったのだ。正に天地雷鳴、驚天動地、彼の中に凄まじい戦慄が走る。

 場内は騒然とし、転覆した選手に対する烈しい罵声、罵倒が響き渡る。阿鼻叫喚。亡者の叫びは辺り一帯に木霊し、暗澹たる雰囲気に包まれる。

 気を悪くした英和はこの一瞬だけで舟券を破り捨て立ち去ってしまった。とても次のレース予想など手に付かない。これはこれで負けを増やさないと思えば良い心掛けであるようにも思える。でも彼はこのレースに結構な金額を投資していたのだった。だからこれ以上の勝負はしたくても出来なかっただけである。

 悲嘆に暮れる英和は項垂れたまま帰途に就く。そんな時、予想もしなかった村上健司から連絡が入って来るのだった。

 

 

 

 

 

 

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汐の情景  二十三話

 

 

 工務店に新しい職人が入って来た。職人といっても素人の見習いで、大卒であるにも関わらず大工になりたいという単純な志望動機で入社して来たらしい。

 村上健司というその男は実に礼儀正しく凛々しく聡明で、それでいながら可愛らしい顔立ちをしており、毅然とした態度で朗らかに話す姿は異性は勿論、男から見ても惚れ惚れするような爽快感を漂わせていた。

「初めまして村上健司です、宜しくお願いいたします」 

 眉目秀麗にして明朗快活。その溢れんばかりの美貌と陽気さに見惚れて口々に称賛の声をあげる職人達。ただその中に一人怪訝そうな顔つきで揶揄する者がいた。

「お前、来るとこ間違えたんちゃうか? ここはモデル事務所ちゃうでな、ふっ」

 英和の先輩であり、この工務店で一番の古株であった冴木というこの男は何時もこんな調子で嫌味や愚痴を口にしていた。英和としてもこの先輩の存在は鬱陶しい限りだったのだが、その最たる理由は皮肉や嫌味を憚る事なく言い放つ所に尽きるだろう。

 どちらかといえば悲観的な性格であった英和にとって愚痴などは十分な許容範囲内で、時としては一方的に訊かされる事も苦ではなかった。しかし嫌味や皮肉には何故か無性に憤りを感じ、たとえ一言だけでも身体が無意識に拒否反応を示すのだった。

 この両者は似て非なるものなのだろうか。愚痴は良くて嫌味は駄目という思考にも些か我儘で拘りのある主観が見え隠れしているようにも思えるが、他者に対する攻撃力という観点に立って考えればやはり愚痴の方がまだ緩いような気もする。

 でも英和が真に身に付けたかった力とはそんな心の葛藤や蟠りをも超える圧倒的な貫禄、全てを凌駕する強靭な精神だった。

 ただでさえ繊細で神経質で小心な彼にそんな飛躍した成長を遂げられる筈もなかったが、この村上健司という男の顔を見ていると何故か心が洗われるような気がしてならなかった。

 まだ二十代前半の彼に秘められたパワーとは何なのだろうか。若さが齎す根拠のない自信か、頭脳明晰な為人か、癒やされるような美貌か。全てが当たっているようで外れているような気もする。

 親方の指示で英和と冴木はこの村上健司を連れて三人で現場に向かう事になった。既に道具等が段取りがしてあった車に颯爽と乗り込む英和はなるべく冴木とは目を合わさず、村上の事だけを気遣っていた。

 運転する冴木はそんな二人の様子を恨めしそうな顔つきで横目に見ながらも、自分も悠然とした態度を装いながら車を走らせるのだった。

 梅雨の晴れ間に差す木漏れ日が窓を通して顔に照り付ける。街を抜けた田舎道には整然と立ち並ぶ無数の杉並木が、その美しい姿で一行を出迎えてくれているように優しい緑を現わしながら風に揺らめいていた。

 その画は村上のような美男子をして更に様に成って映え、思わず自分の容姿を顧みる英和でもあった。とはいえ自分にもそれなりの自信があった彼は不遜にも己が容姿を見せつけるように少し渋い表情をして、カッコをつけて窓外の景色を遠くに眺めていたのだった。

 当然村上はこちらなど見向きもせずただ大人しく坐っていたのだが、冴木に見られてはいないかとルームミラーをちらっと覗く英和も滑稽だった。

 現場に到着した一行は車から降りるなり素早く段取りをして仕事に取り掛かる。冴木は言う。

「英和よ、お前村上のお守り頼むで、俺は一人でえから」

「はい、分かりました」

 冴木と英和の二人は昨日までと同じく部屋のリフォーム工事に手をつけて行く。秩序良く均等に配された床、壁、天井の地組みはその真新しい木材の巧緻な形姿と香ばしい自然の香りに依って美しさを際立たせる。

 人為的に作られた材木もこのようにして綺麗に使われれば本望と言わんばかりに、威風堂々とした笑みを木目に表しているようだ。そうなれば自然の恩恵に肖り、それらを使わせて貰っている人間の巧みな技術と純粋な心遣いこそが当然必要となって来る事は言うに及ばず、その意識的な心意気、心根こそがものを作る上での基本であり真髄であるようにも思える。

 合板を貼って行こうとした英和は村上に対して取り合えずは見ているように、そして掃除などするように指示するのだった。

 次々に貼られて行く板。殆ど隙間なく貼られて行くその様を見ていた村上は言う。

「英和さん、流石ですね、自分もそんなに巧く成れますかね?」

 英和は今更ながら照れた様子で答える。

「これぐらいは直ぐにでも出来るで、ま、君ならあっという間やろ、腹では楽勝と思ったんちゃうん?」

「そんな事ないです、自分なんか釘一本まともに打てませんし」

 如何にも和やか光景の中に英和はまたしても要らぬ想像を膨らますのだった。俺は新入りに媚びているのか、今言った事は本心なのかと。冗談だろうと本心だろうとそこにも完全性は保障されず、自分が口にした言葉に一々自信が持てる者も少ないのではなかろうか。

 だがその自信無くして人と接する事など不可能であり、僅かながらも自信に依って他者を共感せしめるものとも思える。この自信があるか無いかの絶妙な不均衡さが人の精神状態を保つ要因になっている事も不思議といえば不思議で、それこそが人の性、人間社会の常なのかもしれない。

 でも英和が口にした事は決してベンチャラでもなければ媚びを売った訳でもなかった。強いて言うならば村上の余りの清純な心根に触れる事が出来た英和の健気な心根が表した素直な言葉であったに相違ない。

 その後も二人は意気投合したのか色んな話をしながら和気藹々とした雰囲気で仕事を熟して行くのだった。

 

 事務所に帰った一行を待ち受けていたのは村上の歓迎会を兼ねた宴会であった。

 それを画策していた親方は用意周到にもいち早く普段着に着替え、皆を連れて店に向かう。或る程度予想はしていたものの、何時になく嬉しそうな親方の様子を訝る英和はこの宴会の席で言うべき事を腹に秘めていたのだった。

 何度か訪れた事のあるこの居酒屋には顔見知りの店員と風格のある店主が一行の到来を歓迎してくれる。

「いらっしゃい!」

 店主の厳つい顔つきはそれとは裏腹な優しさを投げ掛けてくれ、頼もしくも見える。その大きな声に促されるようにして席に着く一同は取り合えず生ビールを注文する。

 一行といっても親方と冴木、英和、村上、そしてあと二人は一応職人というだけの事務員兼掃除当番の親方の昔馴染みの作業員みたいな人達で、結構な年齢でもあった。

「乾杯! おつかれー!」 

 仕事のあとの一杯は何とも言えない旨さで、その喉越しは全身にまで染み渡る。この為に仕事をしているのかと言えば大袈裟だが、確実にろうを労い、心を癒してくれる酒という飲み物には或る意味魔法の力も感じられる。

 直ぐにでも飲み干すであろう事を予測していたのか、一人の女性店員が次のビールを運んでくれた。そして愕いたように声を上げる。

「え! ジャニーズみたい! めっちゃカッコええー! 握手して下さい!」

 少し照れながら手を差し出す村上は可愛かった。間髪容れずに英和が調子に乗った言葉を告げる。

「俺とどっちがカッコええ?」

 その女性店員は何ら躊躇する事なく、ありのままに答える。

「英和さんとは質が違うしな、カッコ悪いとは言わんけどあんたの風貌はちょっと時代遅れかな、はっはっ、ゴメンやで」

 一同は笑っていた。でもこれは英和にも想定内であった為大した動揺はなく、寧ろ村上がウケている事に喜びを覚えるほどだった。

 そして次々に豪勢な料理がテーブルに運び込まれ、一同は遠慮する事なく食べ始める。山海の幸に肉にフルーツ、ご飯まで、まるで店のメニューを全て出されたようなテーブルの上に並べられた料理の数々は忘年会を思わせるような豪華絢爛な装いで、贅沢にさえ思える。

 笑顔で食する皆の表情は明るく、それを見つめる店主も優しく微笑んでいる。

「遠慮せんで食べてくれよ! 今日はちょっとマケとくから」

「有り難う御座います」

 そんな微笑ましい雰囲気の中、英和は想いを告げるタイミングを計っていた。この期に及んでも尚そう企む彼の精神構造にも憂うに足りる点があったであろう。だがそれを言わない事には踏ん切りがつかないのも事実で、そんな仕草を一切見せず皆と語らう英和だった。

 親方は言う。

「いや~村上君みたいな男前が来てくれてうちも万々歳やで、これでまた仕事も増えるやろ、な、店長!?」

「そうやな~、こいつなんかもう惚れとうみたいやしな」 

「店長止めてって!」

 少しバターで炒めた生ガキは美味しかった。それを頬張る皆の表情は幼子のように可憐な目で忘我の境地に浸っていた。また親方が言う。

「ところで村上君、君は村上源氏の末裔かね? 健司の「け」を「げ」にしたら村上源氏そのまんまやでな」

 一同は爆笑した。その理由は親方が言った、

「かね?」

 という言葉だった。関西で語尾に「かね」などを付ける者は殆どいない。いくら高齢であったとはいえそんな言葉を口にする親方のセンスを笑っただけであった。

 でも歴史が好きであった英和は源氏の末裔という言葉の方に敏感に動じていたのだった。確かに親方が言うようにその可能性を勘案する英和。でも答えた村上の言はそれを覆す冷笑を齎す。

「違いますよ、村上なんていう名前どこにでもあるでしょ、勘弁して下さいよ」

「そうなんか、可能性はあると思うけどな~......」

 親方は素直に残念がっていた。そこで更に憫笑が巻き起こる。何れにしても笑う事は良い事で気持ちが解れたどころか盛り上がって来た一同はまた料理に手をつけて行く。そんな中、やはりというべき一人は相変わらずの怪訝そうな面持ちで、しらけた様子で初めて言葉を表すのだった。

「お前ら、ええ調子やな~、こんな若造に何でそんなに気遣うんやってな、ふっ、馴れ合い仲良し倶楽部もええとこやでな」

 この一言で場は一気に静まり返ってしまった。冴木にものを言えるのは親方だけであった。

「おい止めよ、こんな場まで汚す事ないやろ!」

 冴木は親方に謝るどころか不貞腐れた態度を取って貧乏ゆすりをしていた。でもこれこそが英和にとっては渡りに舟で、千載一遇の好機と言わんばかりに腹を括ったカマシを入れる。

「おい裕司よ、われ親方の身内やからって調子乗っとったらあかんどゴラ、今までも散々いびってくれたでなおい、健二に対してもそうや、まして親方に対してその態度何んどいや? マジで喧嘩売っとんかゴラ? それで筋が通るんかいやゴラ!」

 これで場は更に凍り付いてしまった。流石の冴木も動揺を隠せないという様子だった。完全に切れてしまった冴木は店の隅に置いてあったビール瓶を手に取って英和の頭をブン殴った。気を失った英和は床にひれ伏したまま微動だにしない。

「お前誰に向かって口利くいいとんねんゴラ!」 

 慌てた親方は息子である冴木裕司の身体を制し、英和の安否を確かめる。

「おい英和! 大丈夫か!? しっかりせえって!」

 頬を叩いてもびくともしない英和だったが、その目、その口元は辛うじて働きを失わず、ピクピクと反応している。そして彼は夢想の裡に決心していた屈強な想いを打ち立てるべく俄かに身を起こし会心の一撃をお見舞いする。その回し蹴りは確実に冴木の鳩尾を捉え、二発目のパンチは深く顔面に喰い込む。

 今まで敢えて静観していた店主もここで満を持して立ち塞がる。

「もうええ、辞め!」

 その声は強大な威厳を以て店内に響き渡る。

「うぅぅぅ......」 

 肩を担がれ何とか立ち上がる二人は未だその目を睨みつけながら息を弾ませていた。

 互いに命に別状はなかったとはいえ、今後どのようにして生きて行くというのだろうか。特に英和はこの時に人生を懸けていたとでもいうのか。

 こんな状況にあっても尚爽快な美男子の風采で屹立する村上健司にあったのは、荘厳とした面持ちが表す鋭い眼差しであった。

 

 

 

 

 

 

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