釈迦の一生 <第三部>
─矜持の果て─
季節は春、辺りは桜の花が満開だった。正弘は病院に運ばれたが1時間ほどで息を引き取ったらしい。二人共その死に目には立ち会う事が出来なかった。
通夜、葬式で正樹とゆみは涙が止まらない。桜の美しささえ鬱陶しく思われた。ゆみの親っさんは必死に泣くのを堪えているような面持ちでドンと構えている。
正弘の身に一体何が起きたというのだ。訳が分からない。正樹は管轄は違うが内情を探った。すると他殺でそれもリンチされた可能性が高いというのである。
ひょっとすると正弘が言っていた誰かにつけられているというのは本当だったのか、一体誰に、何故。正弘は決して人に恨みを買うような性格ではなかったし学校でも至って真面目で友人もそこそこ居た。なのに何故。
警察の捜査で犯人が割り出された。
相手は正弘が空手の試合で負けた奴らしい、そいつらが数人で徒党を組み犯行に及んだのだと言う。正樹もまさかそれぐらいの事で一々そんな事をするのかと疑問を感じた。だがそれが真実らしい。相手も認めている。それでも腑に落ちない正樹は一人で色々調べているうちに一つの事に気付いた。
その犯人は前にゆみの親っさんの道場で習っていた門下生だったのだ。しかし何故空手を学んでいるような奴がそんな劣悪な犯行に及んだのか。更に調べるとそいつはあまりにも素行が悪かったので道場を破門されたのだった。そして正弘は強かったし逆恨みでそんな犯行に及んだのだ。
浅はかな。そんな理由ぐらいで息子をやられたと知ると正樹には益々怒りが込み上げて来た。
ゆみにその事を言うと「なるほど、そんな事があったのね」と他人事のように言う態度に驚いた。
「えらい冷静やな」
「そんな事ないわよ」
「そういうふうには見えんけどな」
「何が言いたいのよ、あの子は私が腹を痛めて産んだ子よ、あなたよりも悲しいしムカついてるのよ」
「そうか、それは悪かった」
その辺の事は十分分かっていたが気持ちの持って行きようがなくお互い八つ当たりしているようなものであった。
暗く悲しい夜が続く。二人は絶望の淵に落とし込まれていた。
よく警察官や法曹に関わる人達は罪を憎んで人を憎まずとか言うが詭弁以外の何物でもないと思う。正樹はそいつらを殺してやりたいと心底思った。だがそんな事が出来る訳もなくただ月日だけが過ぎて行った。
それから数年が経ち二人は正弘の為にもと思い毎日を精一杯生きていた。
でも無論正弘の事を忘れる事など出来よう筈もない、もう一人子供が欲しいとも思わない。頑張って生きていても毎日が辛い。辛過ぎる。でもどうしようもない。
ただ抜け殻のように生きるしかなかった。
そして或る日、正弘をやった犯人達三人が僅か数年で少年刑務所から出て来た知らせが入る。まだ未成年だから当たり前だろうけど正樹はまた怒りが込み上げて来た。
ゆみは「考え過ぎかもしれないけどあなた、変な事だけは考えないようにね」と言う。
「何も考えてなんかないよ、ゆみもな」
「私は大丈夫よ」
女がそんな事する筈もないがゆみも腕っぷしは強いので敢えて聞いただけである。
数日後ゆみの親っさんから連絡があり「今度お前たちを連れて行きたい所がある」と言うのだ。
早速次の休日に二人は親っさんを訪ねた。
親っさんは何も言わずに車を走らせた。着いたのは真言宗の名高い寺だった。
「ここの住職とは昔から昵懇の仲でな、俺も道に迷った時はここに来て世話になった事もある」というのだ。
格式の高そうな寺で広く優雅で峻厳な庭。中に入ると恐らく2丈5尺はあると思われる高い天井には鳳凰や龍、朱雀、白虎等の凄まじい絵が描かれている。
本堂に案内されお勤めを聴く。
般若理趣教、阿弥陀根本陀羅尼など聞いた事のある文言が聞こえる。正樹は元々こういうのが好きで興味をそそった。
その中の十善戒
不殺生(ふせっしょう)むやみに生き物を傷つけない
不偸盗(ふちゅうとう)ものを盗まない
不邪婬(ふじゃいん)男女の道を乱さない
不妄語(ふもうご)うそをつかない
不綺語(ふきご)無意味なおしゃべりをしない
不悪口(ふあっく)乱暴なことばを使わない
不両舌(ふりょうぜつ)筋の通らないことを言わない
不慳貪(ふけんどん)欲深いことをしない
不瞋恚(ふしんに)耐え忍んで怒らない
不邪見(ふじゃけん)まちがった考え方をしない
というのがある。
正樹は確かにその通りで悪い事は考えるだけでもいけないと思った。
実際に坊さんが大きい声でそれらを謳っている姿を目の当たりにすると心に響くものがあり貫禄もある。正樹はちょっと心を安んじる事が出来たような気がした。
家に帰り二人で晩酌をしている時ゆみが言う
「あなたたまには風呂にでも行ってさっぱりして来たら」
「そうやな」
数日後言われるままに正樹は銭湯に行く。その時思い出した事があった。
十数年前「俺なんかどうせ釈迦の一生や」と言っていた男の事を。
あの人が一体どういう意味でそんな事を言っていたのかは未だに分からない、いい意味で言ったのか悪い意味で言ったのか、或いはどちらでもなくただ冗談で言ったのか。
でもそんな事を冗談で言うだろうか、何れにしても今頃になってその事が頭を過る。
正樹が考える所では人生というものは所詮苦行に耐えるだけの下らないものなのかとも思われる。でもそれだけでは余りにも切なく、哀しく、そして下らないではないか。
今の自分は正にそんな状態だった。
サウナに入り水風呂に入ってすっきりした刹那正樹は決心した。
あいつらを殺してやる。俺にもなけなしの意地がある。そうしないと正弘は未来永劫浮かばれない。
そして正樹はナイフを手にして歩き出す。
「釈迦の一生」の意味は分からないままに。
完
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