甦るパノラマ 十五話
恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす。どちらかと言えば互いに無口な方だった英昭とさゆりとの関係は蛍の恋に近かったのではなかろうか。
身体の契りは交わしても未だ心の契りは交わしていないというのが正直な気持ちかもしれない。別に焦る訳でもないのだが違う進路を歩む事になった英昭はもう一歩踏み込んだ恋愛をしたいと思っていた。
今にも咲かんとする桜は可憐な蕾を無数に宿し開花する時期を窺っている。木に停まっているメジロやヒヨドリは綺麗な鳴き声を上げながら戯れている。雀や鳩以外の鳥の鳴き声に気付くと自然とそっちに目を移してしまう人の癖は滑稽にも見える。英昭は空を見上げながら鳥達の飛び行く様を眺めていた。
その中の一羽が飛び立つと後に続くようにして飛び立つ鳥達。この鳥にも人間のような気持ちが通っているのだろうか。その素早く華麗な姿は目の保養にもなる。英昭はこの鳥の中にもいるであろう雄鳥と雌鳥の恋路を自分に重ね合わせるようにして何時までも見守っていたのだった。
3月中旬の或る日、この日も春先の気分を擽るような三寒四温が続きまだ少し寒い。その気候の変化は感情の起伏を誘発させる。さゆりは決して自分から連絡をして来るような人ではなかった。となると英昭から積極的に連絡をするしかない訳なのだが、今だ彼女の事を気遣う彼の心情は気候の変化に影響されていた。
情けないとも思える彼の気持ちも良い意味で言うと純粋なのかもしれない。だが英昭は自然の理に惑わされる事なく思い切って電話をかける。呼び出し音が切なく聴こえる。さゆりはあっさり出てくれた。
「あ、俺だけど、今度会える?」
「いいわよ」
「じゃあ何時にする?」
「何時でもいいけど」
「じゃあ明日は?」
「今日でもいいけど?」
「じゃあ今からは?」
「分かった」
たった1分足らずで即決した約束。電話を切った後、英昭は嬉しさと同時に己が狭量を恥じるのだった。
たった一駅とはいえさゆりは初めて英昭の地元である隣町にやって来た。駅の改札で待ち合わせていた二人はそのまま街を歩き始める。駅の近くにある何軒かのパチンコ屋の前を通り過ぎる時さゆりは少し怪訝そうな顔つきで呟く。
「ギャンブルの何が面白いのかさっぱり分からないわ、あんなのやってる人って馬鹿じゃないの」
意表を突かれた英昭は何も言葉が出なかった。世間の一般論では確かにその通りかもしれない。でも人それぞれの価値観を否定する事は些か腑に落ちない気もする。でも当然そんな事でさゆりと議論する気などさらさら無い。
さゆりの容姿はそんな下らない考えを邪魔するのに大いに役立った。彼女は何時もながらの毅然とした態度で静々と歩いていた訳なのだが、その清楚ながらも少し男心をそそるような、可愛くも妖艶な佇まいは英昭の目のやり場を困らせる。
歩きながらも英昭は思わず口にしてしまった。
「今日はえらく綺麗な恰好だな、緊張してしまうよ」
照れながら言った英昭にさゆりは尚もそっけない態度を表しながらも微笑を浮かべて答える。
「ありがとう、変な目で見ないでね」
その一言に依って英昭の内心は一気に熱く燃え上がってしまった。それを必死に抑えようとする彼の初心な気持ちは当然さゆりにも感じ取れる。こういった駆け引きになるとやはり女の方が一枚上手なのか。二人は取り合えず公園で腰を下ろすのだった。
習慣は精神を凌駕する。公園で足を休める二人の姿はもはや定番であるようにも思える。更に大した話もせず互いに遠くを見つめ黄昏れる二人の切ない表情。まだ昼間にそんなシチュエーションは似合わないまでもこの二人に限っては何らぎこちなさを感じさせない。英昭が口を開こうとした瞬間、今度はさゆりの方から喋り始める。大した話もなかった英昭は躊躇う事なくさゆりに先陣を譲った。
「何で連絡して来ないの?」
「え? 今日したじゃん?」
「だから、何で毎日して来ないのって訊いてんのよ」
英昭は迷った。それこそが今は一番大きな悩みでもあった。売り言葉に買い言葉でそのまま訊き返そうとも思ったがそれでは芸が無い。そこで英昭が思い付いた事は笑えない冗談だった。
「いや、ちょっと電話が故障しててな」
「で、もう治ったんだ」
「ま~ね」
二人はまたしても沈黙してしまった。デートしている者にとって一瞬でも時間が空く事は怖ろしい現象でもある。英昭は焦って次の言葉を考えていた。するとまたさゆりが口を開く。
「いいのよ、そんなに慌てなくても」
「いや、別に.......」
契りを交わしてまでまだ気を遣う英昭の有り様は何とも情けない。今の二人に足らない要素があるとしたら一体何なのだろうか。単にコミュニケーションと言うべきか、もっと若々しくはしゃぐ快活な姿なのか。それは当事者である二人にさえ分からない。それが聡明なさゆりという女性なら尚更ではある。
そんな或る意味不自然な二人の間に水を差すように鳥の鳴き声が響き渡った。美しい声に動じた二人は思わず空を見上げる。そして先に口を切るさゆり。
「何あれ? ムクドリ?」
「雀だよ」
「キジ?」
「鳩だよ」
愛想笑いをしながら語らう二人。その間には余計な駆け引きなど存在しなかった。
その後は図書館や喫茶店などで時間を潰しながら街を練り歩きまた公園へと戻って来た二人。ようやく慣れて来出した頃相を見計らって英昭は言葉を放つ。
「今日は俺の家へ来ないか?」
改めて言った英昭の顔を見てさゆりは思う。何故もっと早くに言わなかったのだと。そこまで気を遣い合う仲でもない今の状況で尚も神経質に振る舞う英昭は一体何を考えているのだ。少し余所余所しくも感じる。別に家に行った所で何か大袈裟な事態になる訳でもあるまいし、何故ここまで気を遣うのだろうか。
「いいよ」
さゆりは二つ返事をした。しめた、とばかりにさゆりを伴って自宅に向かう英昭。その足取りは軽く、勇ましささえ感じ取れるほどだった。
家に着いた頃、母は相変わらず家事に勤しんでいた。玄関を開けダイニングへ差し掛かった時、驚愕する母の表情は英昭をご機嫌にさせた。
「ただいま」
「おかえり」
「紹介するよ、同級生のさゆりさん、わざわざ来てくれたんだよ」
「初めまして、さゆりです」
母は初めて家に連れて来た息子の彼女を見て丁寧に挨拶をする。
「英昭がお世話になってます、狭い所ですがどうぞゆっくりしていって下さいね、夕飯作りますから是非食べて行って頂戴ね」
「有り難う御座います」
このやり取りだけでも安心する英昭。二人は取り合えず部屋に上がり、そこでまた語らい始める。
「あんまり気遣わないでね」
「ああ、母はあー見えて結構繊細なんだよ」
「じゃなくて貴方に言ってるのよ」
言葉を失う英昭。やはり見透かされていたんだ。何故そこまで気を遣うのかははっきり言って分からない。さゆりを本当に愛するが故の優しさなのか。いや、優しさではない、それは寧ろ空回りしているようにも思える。ならば何だ。母を安心させたいといった想いなのか、それも違うような気もする。ギャンブル好きな自分にも人間味はあると認めさせたい己惚れにも似た底の浅い思慮か。
返す言葉に迷っていた英昭の口から出た台詞は、
「悪かった、もっと正直になるよ」
この一言だけだった。気を遣えば相手も気を遣う。これは男女だけではなく人間、いやあらゆる生命に共通する事柄なのかもしれない。しかし時として気を遣わない訳には行かない場面も明らかに存在する。
斟酌と忖度。この二つの言葉の真意とは何なのだろうか。無論斟酌の方が聞こえは良いのだが、今の英昭はさゆりに対して不本意ながらも忖度していたのではあるまいか。
それに対して今日目にした鳥達の快活な様子は何と正直で純粋なのであろう。素直が過ぎて空回りするこの現象。常に迷いながら生きて行く事が人間の性とはいえ、この脆弱な精神に何か特効薬は無いものか。
そんな薬があれば誰でも手にしているだろう。それをカバーする唯一の手はやはり愛情なのか。想い耽る英昭の心中にそっと手を差し伸べるさゆり。心の中で聴こえた言葉ははっきりとは分からないまでも、優しい、甘美な癒しの言葉であった。
こちらも応援宜しくお願いします^^